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喪失プロムナード 10m

 避けているか否かで言えば、エルドベールはニケのことを完全に避けていた。


 自分の気持ちを自覚し始めた彼にとって、今の彼女は有害でしかなかったからだ。なんて声を掛ければ良いのか分からなかったし、顔を赤らめた彼女から兄の話が紡がれると想像しただけで、強い頭痛を感じた。


 彼女と距離を置くことは双方にとって有益だ、とエルドベールは考えていた。正確にいえば、そう考えるように努めていた。それは彼が彼女に出来る、最大限の優しさでもあった。


 応援できないのなら、せめて邪魔はしたくなかった。


 彼と彼女を繋ぐ鎖は、エルドベールの想いを反映しているかのように長い状態を保ち続けていた。……気持ちを嘲笑っているだけ、かもしれないが。


 詰まるところ今のエルドベールには、自分の部屋で寝泊まりをする明確な理由は存在していなかった。それでも、彼は毎日寝る時だけは自室に戻っていた。


 それは彼の最後の意地であって、願いであって、譲りたくない部分でもあったからだ。




 エルドベールは今夜も、真夜中に自室へと戻ってきた。


 明かりが存在しない室内には物音が一切無かった。ニケが寝静まったであろうことを推察して、彼は安堵の息を漏らす。


 ほんの少しだけカーテンを開いて、仄かな月明かりを部屋へと招き入れた。薄暗い室内で支度を整えることは、彼にとってはもう慣れたものだった。


 慣れ親しんだ全てをそつがなく終えると、エルドベールは冷たい布団に潜り込んだ。


 ──あれ?


 彼はいつもの位置に、自分の枕を確認することが出来なかった。暫く指先の感覚で探したが、自分のテリトリーにはどこにも無いようだった。


 代わりに、何か細長いモノが大量に散らばっていることに気が付いた。細いそれは、糸のように思われた。エルドベールは手に取って、よく目を凝らした。


「んー?」


 彼から無意識に、疑問が声になって漏れ出ていた。暗い室内では曖昧にしか見えなかったが、それは一見トウモロコシのヒゲのように見えた。


 しかし、それがトウモロコシの不可食部でないことは明らかだった。長さが50センチ以上もあったからだ。それに、端を掴んで左右から引っ張ってみたが、なかなか弾力があって千切れなかった。


 エルドベールは困ってしまった。ナニカよく分からない不気味なものが周囲に散らばっている。しかも、自分の枕がどこにも無い。


 ──彼女のイタズラ? それとも嫌がらせ? どちらだとしても、


 嬉しい、とエルドベールは思った。彼は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。ニケが自分に関心を向けてくれるならば、それがどんな感情であっても構わなかった。


 ──バカみたいだ。こっちが避けているくせに。


 エルドベールはゆっくりと首を振った。それから、部屋の明かりを点けるか迷ったが、その選択肢は選ばなかった。


 兎に角、散らばっている奇妙なナニカは身体に害を与えるものでは無いらしい。そうと分かれば、ソファーにあるクッションを枕の代用にすれば何も問題無かった。


 ──どうだって良い。どうせ数時間寝るだけだ。


 エルドベールは、冷たい床に両足をつけた。それから、ソファーの有るであろう方向へと歩き出す。


 しかし少し進んだところで、足先に何かが当たった。冷たい金属音が響いて、彼の肩はびくりと跳ねた。


 エルドベールは自分の足元に手を伸ばす。それはこの部屋の少ない光を反射して、薄気味悪く輝いた。


「……え?」


 金属のそれはハサミだった。


 何故だか、刃先は赤黒いものでべったりと汚れている。


 その事実を認識した途端に、エルドベールの中で嫌な想像が膨れ上がった。先ほどのナニカは彼女の一部であると、急激に思い至った。


 エルドベールは錆びついたおもちゃのようなチグハグな動きで、どうにか部屋に明かりを灯した。


「……ッ」


 エルドベールは言葉を失った。目を大きく見開いて、突きつけられた事実を曖昧に認識した。


 散らばったニケの髪。点々と布団に付着した血液。そして、自身の手にある赤く染まったハサミ。


「ね、え……」


 ベットの上の膨らみに向かって彼は声を掛けた。約1ヶ月振りに呼びかけた声は、随分と小さく弱々しいものだった。


「そ、んな……」


 エルドベールは一歩一歩を踏みしめるように、ニケの元へと歩みを進めた。


 ──僕はバカだ。彼女を恨み、復讐の機会を狙っている者は星の数ほどいる。そのことをあの日、この身を持って認識したはずなのに。


 エルドベールは現場の状況から、ニケが何者かに襲われたに違いないと考えた。この状況を見れば、きっと多くの者が同様の考えに至っただろう。


 エルドベールの考えは的を射ており、当然の結果と言えた(しかし、今回に関してはその当然が間違っていたことに、後ほど気付かされるわけであるが)。


「……んー?」


 ベットの膨らみからくぐもった声が漏れ出た。こんもりとした山が動いたかと思うと、そこから人影がモゾモゾと這い出てきた。


 まるで巣穴から出てきた小動物のように顔だけを出した彼女は、眩しそうに目を細めながら首を傾げる。エルドベールは、肩からドッと緊張が抜け落ちた。


 ──良かった、生きてた。だけど、


 彼は彼女に声をかけるよりも先に、ニケが被っている布団を奪い去った。


「ふえぇ?」


 ニケは寝ぼけていたが、それでも驚いて声を上げた。しかし、それを気に留める心の余裕は今のエルドベールには無かった。


 ひとまず最悪の事態が起こっていなかったことには安心したが、今はハサミに付着した血液の原因を突き止めることが最優先だった。


「さ、むい……」


 ニケは小さく震えると、腕の中にある枕を抱きしめながら小さく丸まった。


 対するエルドベールは、彼女をくまなく観察していた。身体を縮めているせいで完全には分からなかったが、少なくとも指先と首筋のあたりに切り傷が複数あることを確認した。それでも、ベットに血溜まりは無かった。点々と血液が付いているだけ。


 怪我の程度は酷いものではなさそうで、エルドベールは安堵の息を吐いた。


 ──それでも、


 エルドベールは、肩のあたりでバッサリと切断されたミルクティー色の髪を見つめて、瞳を悲しげに歪めた。


「ねえ、誰がこんな酷いことをしたの? 相手の顔は見た?」


 エルドベールは湧き上がる悲しみと怒りを押さえつけて、努めて柔らかい声音で問いかけた。それから、ベットに腰掛けて、ニケの短くなった毛先に優しく触れた。


 ニケは未だ夢の中にいるかのように、意識が曖昧だった。質問をされているらしい、ということは分かっても、その意味までは理解できなかった。


 それでも、耳に届いたその声がずっと求めて止まないものだったので、瞳を細めて微笑んだ。


「やっと、あえたね」


 これは夢の中かもしれない、とニケは考えていた。ありのままを言えば、今の彼女は寝ぼけていた。


 ニケはただ嬉しくなって、そしてもうどうしようもなく離れ難くて、エルドベールだと思わしき人影に近付いた。ベットの上に手のひらをついて近付いて、猫のように擦り寄って、彼の膝に自分の頭を乗せて目を閉じた。


「……え?」


 エルドベールは質問の答えとして返ってきたその行為に、全く対応することが出来なかった。動くことが出来ず、ただ彼女に願われるがまま自身を差し出していた。現在の状況が信じられなくて、これは夢かもしれないと思った。


 ──かわいい。


 様々な感情が混ざり合った結果、その想いが最も早く浮かび上がった。エルドベールは、横向きで小さく丸まったニケを見つめた。それから、眉より少し高いところにあるニケの前髪を撫でた。髪が短くなった彼女は、何だか幼く見えた。


 ──温かい。


 小さな寝息をたてて幸せそうに眠る彼女を見ていると、ひとまずはこのままでも良いのではないかと思えてきた。


 この瞬間には確かに、そう思っていた。


「……おうじさま」


 呟かれたその寝言を聞いて、エルドベールは髪を撫でる手を止めた。身体の芯から冷えていくような、じわりとした嫌な感覚が彼の中で広がった。


 エルドベールは、眉尻を下げた。


 ──お兄様と勘違いしてるんだ。


 ニケからすれば王子様とはエルドベールのことを指していたが、実際にそのように呼んだことは一度たりとも無かった。いつも「あの」「すみません」などと呼びかけていたからだ。


 もしくはエルドベールがリルベルと同じように、彼女の日記を盗み見ていればこんな掛け違いが起こる事もなかったかもしれないが。兄と違って弟は、そういった下劣な行為に及んだことは一度だってなかった。


「……ねえ、起きて」


 エルドベールはニケの肩を揺すった。夢の時間は、終わりにしたかった。彼女の心の隙につけ込んでいるかようで、なんだか自分自身に嫌気がさしたからだ。


 揺さぶられ続けた彼女は小さく唸った。「もうちょっと」と言いながら手のひらで顔を覆った。指先に血の固まった跡が見えて、エルドベールは肩を揺さぶる力を強めた。


「起きて。起きて、お願いだから」

「んー?」


 あんなに渋っていたはずなのに、ニケは素直に瞼を上げた。けれども、その瞳は未だにぼんやりとしており、焦点が合っていない。


 エルドベールはニケの肩を掴んで、彼女の身体を強制的に起こした。


「おはよう」

「……おはよう?」

「いや、ごめん、まだ夜中だけど」

「……うん?」


 ニケは首を傾げた。無理矢理起こされたことを少しばかり非難するような、それでいて可愛げのある瞳をエルドベールへと向けた。


「それ、誰がやったか覚えてる? 犯人の顔は見た?」

「……はんにん?」

「身体の傷と、髪の毛と……」


 ニケは頭がぼんやりとしていて、自分が何を問われているのかさっぱり分からなかった。とりあえず視線を感じる自身の手元へと目を向ければ、指先や手の甲に赤い線が数本あることが分かった。


 ニケは血がすでに固まった傷口をじっと見つめた。それを見つめて何度か瞬きをしているうちに、意識がはっきりとしてきた。


 ニケはハッと息を吸うと、手元から目の前の人物へと視線を移した。


「夢じゃ、なかったんだ……」


 少しばかりの間を置いて、ニケは瞳からぼろぼろと大粒の涙を流した。

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