#1.0
はじめまして。
よろしくお願いします。
―――そう……あれは、なんと言ったか。
今となってはもう、曲名すら覚えていないけど。
あの日も、あの曲を聞いていた。
一度聴いたら忘れられない、ひどく、ひどく絶望的なメロディだった。
絶望の、暗い底へ向かう階段を、自ら一足飛びに駆け下りていくような。
孤独で。狂気的で。高貴で。
「………」
そんな旋律を今日も頭の片隅で流しながら、迷宮の階段を下りていく。
微かなる希望の光。
大いなる絶望の淵へと。
◆◆◆◆◆◆
クラシックについて造詣が深いわけではない。
他の曲も知らない。
……ただ、その曲に限っては、もう頭の中で最後まで再生できるほどに、鮮明に覚えてしまっていた。
精神がどうしようもなく摩耗したとき、人を救うのは明るい曲ではない。同じくらいどん底にある、聞くだけで絶望にどっぷりと浸かるような、そんな曲だ。
底抜けに明るい曲で取り繕った精神は、時を待たずしてまた急速に磨り減っていく。
それならばいっそ、心臓に冷たい鉛を流し込もう。
凍てついた心を、もう二度と傷付かないように鉛で覆ってしまうのだ。
いつか、この地獄が終わる日が来るまで。
―――さて、もう、そんなことは何度繰り返しただろうか。
今日も地獄からは抜け出せていない。
「ねえ、仁城く―――」
「おーい、仁城ー」
「よお仁城」
「……堀岡。なに? メシ?」
彼らから声を掛けられて、僕の苦痛の時間は始まる。
そしてまた、頭の中であの曲が流れ始めた。絶望そのもののような旋律。
心は暗く落ちていき、感覚が麻痺していくのを感じる。
「おう。昼飯一緒に食おうぜ?」
「おっけ。どこいく?」
「いつものとこでよくね?」
「……そうだな」
まるで身体が、別の誰かのものになってしまったかのように、勝手に受け答えを始める。
……随分と、従順に躾けられてしまったものだ。
空の弁当箱を持って立ち上がる。
「――あ、あー……仁城くん……」
「あははっ、どんまいっ!」
「なんで他クラスの堀岡より声掛け遅くなんの?」
「それは、気持ちの準備っていうか……」
堀岡たちの後について、俄に騒がしくなった教室を後にした。
中央階段を通り過ぎて南階段へ。
南階段を下りていくと、大きな南京錠で取っ手ごと施錠された両開きの鉄扉かある。
堀岡は慣れた手付きでポケットから鍵を取り出し、南京錠を取り外す。
「よっし。ほら、仁城」
促されるままに扉を開けて外に出ると、堀岡たちもあとから続いて来る。
そして、扉が後ろ手に閉められた瞬間。
堀岡の顔から、今までのヘラヘラとした笑みが消えた。
直後に飛び込んで来るボディーブロー。
「―――がふっ!」
綺麗に鳩尾へと吸い込まれたそのパンチは、僕の身体をくの字に折り曲げさせた。
急激に込み上げる吐き気。
インパクトの後も長く尾を引く激痛。
どんっ、と身体を突き飛ばされた。
大きな音を立てて、フェンスに身体がぶつかる。
何とか痛みを堪えつつ顔を上げ、前を見ると、―――堀岡の友人である前島が拳を振り上げるところだった。
それからのことは、覚えていない。
頭の中ではただピアノの音が氾濫し、それ以外の情報は入ってこなかった。
「………」
気が付けば僕は一人、地面に倒れ伏していた。
鉄扉はいつもの通り既に閉められていて、押しても引いてもガチャガチャと鳴るばかりだ。
仕方がないので――これもいつもの通り――脇のフェンスを登ってグラウンドの隅へと出る。
校舎の時計台を見れば、十二時半を少し過ぎた頃だった。
予鈴まであと少しもない。
今日は、どうも堀岡たちのストレスが溜まっていたらしい。
普段より長めだったようだ。
殴られるより先に脱いでおいたカーディガンを羽織って、土汚れの付いてしまったワイシャツを隠す。
殴られたのは胴体、脚だけなので痣などは一見、見当たらない。
「よし……」
僕は一つ息を吐くと、校舎へ向かって歩き始めた。
◆◆◆◆◆◆
堀岡たちの暴行が始まったのは去年の冬からだ。
最初の標的は、僕ではなかった。
その時の僕は、堀岡たちが誰かに暴行を加えていることすら知らなかった。
堀岡たちは、いわゆる陽キャ、リア充グループと言うやつだった。
普通に話してるだけで周りを明るくするし、冗談も面白い。
大抵いつも笑っているし、運動も、勉強もそこそこできる。まあ、できないやつもグループの中にはいたけど、それも愛嬌と言える程度だった。
いいやつらだと、思っていた。
僕も時々カラオケや家なんかに誘われて一緒に遊んだりしていた。
そんな、そこそこの関係ではあった僕は、“その事実”に、気づけてしまった。
堀岡たちは、同級生の女子の一人に、暴力を振るっていた。
あとから聞いた話だと、今日の僕のようなものでは、まだなかったらしい。
そして男女にとって、決定的なものでもまだ、なかった。
カッターで服を切られたり、今日の僕みたいに目立たないところを殴られたり。
言ってしまえば、その程度だ。
その女子が、何かを隠すようにタイツを履き始めたことに気が付いたのと同時くらいに、僕はその現場を見てしまった。
彼らが、スマホで録画しながら、ついに“行為”に及ぼうとする、その瞬間を。
女子が無抵抗だったこと、その当時はまだ堀岡たちをただの陽キャ集団だと思っていたこともあって、一瞬、同意の上なのかとも思った。
違った。
どう考えても複数人で、しかも学校で、というのはおかしいし、よくよく見ればその女子は声もなく泣いていた。
僕は何も考えずにその場で飛び込んで、堀岡その他複数の男子を突き飛ばしていた。
咄嗟にその女子は逃げ出して、……そして、堀岡たちと僕だけがその場に残った。
『な、何でこんなことしてんだお前ら……?』
僕がそう言うと、堀岡たちは顔を見合わせて、急に笑い出した。
『さっきのは、同じクラスの遠藤だよな……? 何で笑ってられんの』
『……はー……笑った。何でって。……そんなんお前が面白いからに決まってんだろ』
『ほんと、仁城、お前面白過ぎな……特にその顔。ぶはっ』
『なんか、マジでショック受けてますーっ、て顔だよな』
何なんだこいつらは。
ショックを、受けないわけがないだろう。
今まで友人だと思っていた奴らが、裏でこんなことをしていたなんて。
『どんだけ純情なんだよ……ま、安心しろ。まだヤッてなかったし』
『な? めちゃギリだったけど。もうあと3センチ、みたいな』
そういう話はしてないだろ、と言おうとした時。
堀岡たちの顔つきが変わった。
『で、まあ見られたからには今まで通りってわけにはいかないんだろ? 俺、お前のこと気に入ってたんだけど』
『当たり前だろ! もう二度とお前らと遊ぶことはねえだろうよ!』
誰に最初に話すべきだ?
警察? いや、警察沙汰にするより先に先生とか、校長とか? それよりも、本人とまず相談するか? あんなことのあとで?
『―――いや、どこ行こうとしてんの。それは困るんだわ』
『………は?』
『俺ら、遠藤の全裸の写真持ってんのよ。それダシに脅してたんだわ』
こい、つらは……。
『で、何であんなことしてたかって、まあストレスっつうか? それを発散してたわけよ』
『……要するに、別に童貞持て余してるわけじゃないんだわ。性欲の発散でもないわけ』
『だから、ストレス発散さえできれば別に遠藤じゃなくてお前でもいいの。わかる?』
『僕が、それに従う理由は……』
『ん? わかってんだろ。別にお前の全裸撮ってもしゃーないし、なあ?』
『ぎりぎり、拡散とか気にせずチクりそうだよな』
『だから、遠藤の画像。……バラまかれたくなかったら、明日の昼休み、ここに来い』
そして、地獄は始まった。
『―――ふざけてんのかお前? もっと笑顔で来いよ! 疑われんじゃねえか!』
『―――おい、てめえを殴りまくっても見つかんねえ場所探しておけ』
『―――ほら、クラスは分かれたけどこれからもよろしくな! はははっ』
◆◇◆◇◆◇
放課後も、堀岡の家に呼び出されて散々殴られ、蹴られ、汚水を飲まされた。
どうも、あいつらの専らの遊びはカラオケやテレビゲームではなく、僕でストレス発散をする、といったものにシフトしたらしい。
夕方、込み上げる吐き気を何とか堪えて帰宅し、トイレに駆け込む。
限界が近付いているのを感じていた。
この半年間、ほとんど毎日彼らの暴行は続いていた。
そりゃ肉体も、精神も、いつかは壊れる。
堀岡たちが満足するまで、あるいは高校卒業まで、耐えられると思っていたけど。
分かっていたことながら、彼らは満足するどころかエスカレートしていく一方だった。
卒業まで、僕の方も持ちそうにない。
いや、はっきり言おう。
……もう、限界だ。
明日だ。
明日の朝早く、担任の先生に報告しよう。
遠藤には……何て伝えれば良いのかわからないけど。
これ以上は、僕の人生が壊れてしまうから。
「……ごめん、遠藤」
僕は、夕飯を作る気力もなく、布団に潜った。
明日への決意を固めながら。
明日になったら………。
その判断は、あまりにも遅すぎた。
翌朝、遠藤が飛び降り自殺をした。
意味が、わからなかった。
どうして、遠藤が。
登校した直後、ろくな事情説明もないまま、多くの生徒は自宅に帰らされていく。
そんな中、僕だけが担任の篠原先生に呼び止められた。
相談室に連れ込まれて、“こちらとしてもまだ把握しきれていない部分がある”とした上で、篠原先生は語り始めた。
遠藤は、屋上から飛び降りる前に、自殺の原因について遺書を残していたこと。
原因はとある、好意を向けていた人物を庇ってのいじめだった。
言葉にするのも憚られるような、壮絶ないじめ。
いじめの内容はほとんど僕と変わりなかった。そこに、異性間特有のあれが加わっただけの。
そして、遠藤が庇っていたとある人物とは…………僕のことだった。
言う通りにしないと、僕をいじめの標的にする、と脅していたらしい。
「なんだ、それ……」
……まるで、道化じゃないか。
僕たち二人ともが。
堀岡たちからみた僕らは、さぞ滑稽だったことだろう。
お互いがお互いを庇って、二人ともが摩耗していく。
何も救いがない。
どこにも。
―――――――――
――――――
―――
それから、どう道を辿って家に帰り着いたのか。
先生にはどう受け答えをしたのか。
覚えているのは断片的な記憶だけで、気が付けば僕は自宅の前まで来ていた。
キイィ、と音を立てて門扉を開く。
僕の家は、妹との二人暮らしだ。
母親は僕が幼い頃交通事故で亡くし、父親は県外に長期出張中。
家の車庫からは、妹の自転車がなくなっていた。
どうやら今朝は、時間に余裕がなかったようだ。本来は禁止されている自転車登校を、妹は時々する。
妹は今日も変わらず、騒がしい日常を過ごしているのだと思うと、どうしようもなく涙が溢れてきた。
どうして、こんなことに?
……どうして僕で、……どうして遠藤だったんだ?
理由なんてないのか?
現実とは、こうも理不尽だったか。
もし理由があるのなら、教えてほしい。
僕らが、いったい何をしたのか。
堀岡たちは、何を考えていたのか。どうしてそうなってしまったのか。
僕にできることは、他になかったのか。
もっと考える事をしていれば、彼女をちゃんと、救えたのか。
何をすれば良かったのか。彼女をあの時庇ったことは、間違いだったのか。
あの時見過ごしていれば、何かが変わっただろうか。
この最悪な結末を、避けられたのだろうか。
何もかも、分からなくなった。
涙でぼやけた視界の中、庭に普段とは違う風景が見えた気がした。
「………?」
涙を袖口で拭って、瞬きをしてみても、“ソレ”は庭にあった。
「……鍵……?」
石でできたような、苔生した大きな鍵が、庭に突き立っていた。