後編 忘れさせない
ソアレス王国侯爵令嬢ダニエラは銀髪に色の薄い青い瞳、整っているがゆえに冷たく見える顔立ちの少女だった。
感情の起伏も少なく、言葉も多くないので誤解されやすい。
いつも無言で本ばかり読んでいる彼女が、自分を見つけた途端ふわりと笑みを浮かべるのがジョアキンは好きだった。
それまでダニエラの存在に戸惑っていた周囲も、彼女が笑顔になると心を奪われる。だけどダニエラの心はジョアキンだけのものなのだ。
大学時代、アゼヴェード帝国の第三皇子ティアゴがダニエラに恋しているのは明白だった。彼女が第二王子の婚約者としての責務で留学生の彼を構っているのを誤解したのだろう。
本を借りた礼と称してお茶に誘い続けていたが、ティアゴがダニエラから与えられたのは少し困ったような微笑みだけだった。
ジョアキンが隣国の王女リーショとの不倫に溺れていても、ダニエラの心は揺るがなかった。彼女は気づいていなかったのだと、ジョアキンは思っている。
なのに、ティアゴとの新婚旅行でソアレス王国に戻って来たダニエラは変わっていた。
ジョアキンに見せていた柔らかな笑みとも違う、どこか艶っぽい恋する少女の表情を浮かべていたのだ。だれかと話していても、色の薄い青い瞳はいつもティアゴを追っている。
ジョアキンが声をかけても、ダニエラは以前の笑顔にはならなかった。
「ご無沙汰しております、ジョアキン殿下」
「あ、ああ。帝国で困っていることはないか?」
「大丈夫です。というよりも今はまだ、帝国で過ごす時間よりも旅行している時間のほうが長いので」
「……唇をどうかしたのか?」
「はい?」
「さっきから指で触れている」
ジョアキンの言葉に、ダニエラは真っ赤になった。
「も、申し訳ございません。殿下にお見苦しいところをお見せしました」
「いや、構わない。……あの夜はすまなかった」
内向的なダニエラのことだ、一世一代の想いでジョアキンとの一夜を願ってきたのだろう。
しかしジョアキンは酔い潰れてしまった。キスすらしていない。
翌朝の別荘で、お互い婚約者を裏切らなくて良かったとダニエラは微笑んだけれど、本来の婚約者はジョアキンとダニエラだ。エアネス王国の大公令息が亡くならなければ、今結婚していたのはジョアキンとダニエラだった。
明るく活発で奔放なリーショと遊ぶのは楽しかったけれど、お互いに今の生活を捨ててまで結ばれたいとは思っていなかった。
愛し愛されて一生を共に過ごすのはダニエラだと思っていた。
ジョアキンは、彼女が自分だけに見せてくれていた笑みがなければ癒されない自分に、今ごろ気づいたところだった。
「ここにいたの、ダニエラ」
帝国の現役将軍がにこやかな笑顔でやって来て、後ろからダニエラに抱き着いた。
行儀が良いとは言い難いものの、ふたりは新婚旅行中の夫婦だ。周囲も温かい視線を向けている。
ティアゴが軽く口を窄めて見せると、ダニエラがまた唇に触れた。
(……キスの記憶、か……)
ジョアキンは察した。
彼女は無意識に彼とのキスを反芻しているのだ。
婚約者だった自分とはしたことのないキスを。──あんなに甘い蕩けそうな瞳で。
(婚約が決まった時点で無理矢理穢されたのではなかったのか? 必死な表情で俺に抱かれたいと願っていたのではないのか?)
心の中で叫ぶ言葉を口からは出せない。
ダニエラは真面目な性格で、国と国の関係の重要性も理解している。
結婚を機にティアゴを愛すると決めて、それを果たしたのだろう。
「仲が良さそうでなによりです、ティアゴ殿下」
「うん。僕とダニエラはとっても仲が良いよ。ジョアキンもリーショ姫と仲が良いって聞いてるけど……彼女は?」
大学時代と同じように、ティアゴは気さくに話しかけてくる。
「リーショは体調を崩していて」
「ああ、おめでたか! 君達は大学時代から子作りに励んでいたものね」
「ティアゴ殿下!」
大学時代のジョアキンが婚約していたのはリーショではない。ダニエラだった。
卒業時にエアネスの大公令息が逝去し、急遽婚約相手が変わったのだ。
自ら帝国に手を出したくせに本気の反撃を恐れた隣国が、この国とのつながりを求めたのだ。ジョアキンとリーショの浮気の事実がなければ、国王である父も王太子である兄もこの縁談を断っていたことだろう。
ティアゴは獲物を狙う肉食獣のような笑みを浮かべる。
「ん? ああ、ごめん、勘違いしてた。婚約なんてただの結婚の予約に過ぎないんだから、状況によっては相手が変わることもあるよね? 相手が変わる前に浮気してたら大変だけど」
揶揄する言葉に、すべてを知られているのではないかと不安になって心臓の動悸が激しくなる。
(この男もアレを読んだのか? 読んだのかもしれない。図書館に通っていたのはダニエラの気を引くためだけでなく、本人の趣味もあったというからな)
今、ソアレス王国で流行している小説がある。
婚約者に裏切られて命を失った男の日記が中心となっている小説だ。男の死因は明言されていないが、婚約者とその恋人による作為を匂わせる描写がされている。
日記に描かれた婚約者の女性がリーショに似ていると、最初にだれが言い出したのだろうか。自分ではないと否定するために小説を読んだリーショは、それ以来部屋から出てこない。
(固有の名称以外は全部本当だったということか……)
そうでなければ笑い飛ばせばいいだけのことだ。
高貴な人間のことだから面白おかしく噂されているが、だれも本気で取り合ってはいない。
だれも知らないはずの真実が書かれていたからこそ、リーショは狼狽えているのだ。
ジョアキンもその小説を読んでいた。
男の日記は婚約者との出会いから始まっていた。病弱な彼は、明るく活発な婚約者が可愛くて仕方がなかった。しかし奔放な彼女は彼をもの足りないと思っていたようだ。
あの日記の内容が本当なら、リーショの浮気はジョアキンが最初ではない。そして最後でもなかった。
小説内の女性は大学の休暇で祖国に帰ったときに婚約者である男の家へ行って、別に恋人のいる若い青年を誘惑した挙句不敬罪で処刑していた。
おそらくリーショは他人の運命を捻じ曲げるのが好きなのだ。
ジョアキンに近づいたのも、彼を愛するダニエラの人生を狂わせるためだったのだろう。
本当は、小説が噂になる以前からジョアキンとリーショの間は上手く行っていなかった。
侯爵家に婿入り予定だったジョアキンは、ダニエラとの婚約を解消したことで行き場を失った。大公家に嫁入り予定だったリーショも隣国の王女とはいえ財産は少ない。
ソアレスの王家が持つ王領を集めて作られた伯爵家を授かったものの、婚家の援助でしていたような贅沢は二度とできない。
「茶化してごめんね。リーショ姫が早く良くなるよう祈ってるよ」
「私も……リーショ様とジョアキン殿下のお幸せを祈っております」
「ありがとうございます」
ほかの人間と交流するためにティアゴと歩き出したダニエラは、二度とジョアキンを振り向かなかった。
彼女だけではない。だれも隣国の王女と結婚した第二王子に興味を示していない。
兄である王太子に子どもが出来れば用無しどころか邪魔者になる、今のところは予備としての役目があるだけの第二王子──実績も実力もない新興伯爵に過ぎないのだから当たり前だ。
リーショには伝えていないが、ジョアキンは妻の祖国であるエアネスで流行している小説も取り寄せて読んでいた。信じられないことに、そこには自分がリーショにもらった恋文とほとんど同じ内容が記されていた。
大学時代、まだ婚約者だったダニエラを裏切っていたころのものだ。
王宮の自室に隠しておいたら王太子である兄に見つかって激怒されたので自分の別荘に移動させていた、だれも知らないはずの手紙の文章だ。
(読書好きのダニエラもアレを読んだのだろうか? だから俺への気持ちが冷めてしまったのか? もう二度と俺に、俺だけに微笑んではくれないのか?)
帝国の将軍皇子夫婦を歓迎するパーティの会場でなければ、ジョアキンはその場に座り込んでいたかもしれない。
彼は、そのふたつの小説を書いて書店に持ち込んで自費で出版させたのがダニエラだとは知らない。知ることもない。
ソアレスの王宮で与えられている部屋に戻ったとき、エアネスから取り寄せた例の小説を読んだリーショがジョアキンに裏切られたと思って責め立ててくることも、まだ知らないでいる。
★ ★ ★ ★ ★
「ねえ、お人好しのダニエラのことだから、復讐はもうこれで終わりなんでしょ? 邪魔したくなくて我慢してたけど、そろそろ君を抱いてもいい?」
ティアゴ様にそう言われたのは、エアネス王国の大公邸での夜でした。
目を白黒させる私に微笑んで、彼は甘えるように言いました。
「まだ駄目? これ以上お預けされるの辛いなあ」
「お、お預けなんてしていませんよ?」
「そうなの? だったら初夜に食べちゃっても良かったの?」
「……ふ、夫婦ですから。ティアゴ殿下のお好きなように」
「ヤだな」
「え?」
「夫婦なんだから殿下はヤダー!」
「じゃ、じゃあティアゴ……様」
「うーん。とりあえずはそれでいいや」
その夜はキスだけでした。
緊張で体を強張らせた私を気遣って、いきなり最後まではしないでくださったのです。
でも大公邸には私に縁談を持ち掛けてきた方がいらっしゃるので、どうしてもキスだけはしたかったのだとおっしゃいます。ティアゴ様はヤキモチ妬きなのです。ジョアキン殿下のお言葉の通り、大学時代から私を好きだったとおっしゃるのです。
それからは、夜を重ねるごとに少しずつ──
私の唇はティアゴ様の唇の感触を覚えてしまいました。
なにをしていても忘れることは出来ません。
祖国ソアレス王国に帰郷した今夜は、絶対に最後までするからね、と言われています。元婚約者のジョアキン殿下がいらっしゃるからだそうです。
……ふふふ。本当にヤキモチ妬きな方ですこと。
くだらない復讐なんかに血道を上げていましたけれど、私はきっと今夜ですべてを忘れることでしょう。いつの間にか愛していたティアゴ様のこと以外は、すべて。