真・終章 再会 ~時を超えて~ ※写真付
年が明けた二月のある日。連日休暇を取ることができたこともあり、初音はあることを計画していた。
数ヶ月前に一年間過ごした地、赤目の山へ行く計画である。
滝野の里が今もあるとは思っていない。だが、ここ最近、行きたくて溜まらない衝動に駆られて仕方がなかったのだ。
赤目渓谷は三重県の名張市にある。当日、まだ夜も明けきらない時刻に家を出た。そして、初音は単身、始発の新幹線へと乗り込んだのであった。
二度の乗り換えを済ませ、ようやく三重県に足を踏み入れた時には、既に正午を回ろうとしていた。しかし、赤目までの道のりはまだ遠い。次は、近鉄名古屋線へと乗り込んだ。しばらく揺られていると、次の停車駅を知らせるアナウンスが聞こえてくる。その声は、「名張」と言っている。初音は、感極まって席から立ち上がりそうになったが、踊る心を懸命に抑え込んで耐えた。
赤目渓谷は名張市にある。だが、降車駅はここではない。もうひとつ先の赤目口駅なのだ。
電車の扉が開く。初音は、七時間にも渡る移動時間に耐え、ようやく赤目口駅へと降り立ったのである。夜明け前に出立したというのに、今では陽が高らかと昇り、腕時計に目をやると昼の一時を回ろうかという時刻だった。
――もうすぐ。……もうすぐだ。
目的地に近づくにつれて鼓動が高鳴る。その音に耳を傾けながらバスに乗った。
バスから降り立つと、初音は着ていたコートを身に押し当てた。思わず身震いする。この時期の赤目渓谷は寒さが厳しいということを聞いていたため、しっかりと着込んだ上に地厚のコートを選んだのだが、それでも凍えるほどに寒い。
――伊賀の寒さだけは、最後まで慣れなかったものね……。
そんなことを思いながら、初音はふうっと白い息を吐き出した。
今日は平日ではあるが、さすがに観光名所となっているだけあって観光客がちらほらと伺える。その人たちのあとに続くように、初音も赤目の山へと足を踏み入れたのである。
赤目渓谷では、観光客が迷わないように道順が決められていた。もちろん、初音もそれに沿って歩いていた。
「……うわあ」
思わず感嘆の声が上がる。氷瀑だ。この時期、赤目渓谷の見どころのひとつとなっている。しかし、これは待たなければなかなか見られるものではない。それが、通りかかった瞬間に見られたことにより、初音の心は入山した時よりもさらに高鳴っていた。
崖の下方には氷柱が見える。それは、今までに見たこともないほどに太くて長いものだった。
スマートフォンで写真を撮りながら、しばらく眺める。そして、次へ向かおうとした時、先程までいた観光客がひとりとして見えなくなっていることに気がついた。
少しばかり驚いたものの、道順は決まっているのだ。まっすぐに行けば問題ないだろうと歩き出してほどなく、わかれ道に差しかかってしまった。
――コースにわかれ道……? 立て札も見当たらない……。
しばらく思案していた初音だったが、意を決して左の道を進むことにした。
――もしも間違っていそうだったなら、すぐに引き返せばいい。
そう心を決めると、初音は持ち前の大胆さでどんどん奥へと進んで行く。
しばらくして、初音は足を止めた。
――あ……これは、間違えたかな。
ここまでは整備された道をきたのだが、これより先は、どう見ても人の手が加えられていない獣道が続いているようだった。
戻ろうと踵を返しかけたところ、水が叩きつけられるような音を聞いた。初音は、音を頼りにその場所を探す。そして、見つけた。
それは、滝だ。
優美さを纏って流れる滝が、初音の眼前に広がっていたのである。
「……千手滝」
初音は目を見開いた。赤目渓谷にきたら必ず見たいと思っていたのが、この千手滝であったからだ。
「草之助。千手姫様……」
初音は、その場に膝を着いた。伝説によれば、第二次天正伊賀の乱のあと、追い込まれた草之助と千手姫はこの滝に身を投げたのだという。
気がつくと、地面に染みを作っていた。
夢の中の鵺は、千手姫の幸せを心から願っていた。だから、身を挺して草之助と姫を逃がしたのだ。それなのに、二人とも逃げ切ることはできなかった。そして、どうにもならなくなって、二人そろってこの滝に身を投じたのである。
初音は滝壺を覗き込む。そこに柵などはなく、身を乗り出して眺めた。それなりに高さはある。
――豪快な感じはしないね。ここに名前をつけるとしたら、やっぱり千手滝が一番しっくりくるかな……。
そう思っていると、不意にがしりと体をつかまれた。そのまま、後方へと引きずられるように倒れ込む。
唖然とする初音の耳に、焦りと憤りを含んだ男の声が聞こえてきた。
「何をやっているんだ、あんたは」
顔を上げると、長身の男が心配そうにこちらを見ている。
「あなた」
がさがさと草を鳴らしながら、艶やかな黒髪を靡かせた美しい女も駆け寄ってきた。その女は、訳がわからずに座り込む初音の両腕をぎゅっとつかむと、酷く悲しそうな顔で言う。
「早まってはいけないわ。どんな事情があったって、命を捨てては駄目よ」
「え、ちょっと待って……」
二人が誤解していることは理解できたが、今の初音の姿を見ればそれも仕方がないだろう。泣きながら滝壺に身を乗り出していれば、そう思うのも頷ける。
「あの……」
「一体何があったというの。どうしてこんな……」
「僕たちでよければ力になるよ」
まずは二人の誤解を解くのが先決だろうと思った初音は、涙を袖口で拭った。
「待って下さい。私は何も、身投げしようと思っていたわけじゃないんです」
「なら、あんな格好で何をしていたの?」
「滝壺がどうなっているのか見たくて……」
本当のことを話したのだが、二人の目は明らかに疑いを孕んでいる。
「でも、この辺りは滑り易いのだから、あんなふうに覗くのは危険よ」
「それに、観光客だとしたらコースからも外れてしまっているようだね」
「うん。迷ってしまったみたいで……。戻ろうとしたら、この滝を見つけたんです」
三人は一斉に滝を見遣った。
「千手滝ね」
女が言う。
「やっぱり、これが有名な千手滝なんですね」
「千手滝の伝説って、知っているかい?」
男に尋ねられた。初音は頷く。
「悲しい伝説ですよね」
そう言いながら、初音はまたも目頭が熱くなるのを感じた。
「……もしかして、それで泣いていたの?」
女は俄かに驚いたあと、くすくすと笑い出す。笑われたことに少しばかりむっとした初音だったが、
「おんなじね」
と言われ、はたと女を見た。女も、どういうわけか涙ぐんでいる。
「三年前にね、私も観光で赤目渓谷を訪れたのよ。その時ね、貴女と同じようにこの滝を見て泣いてしまったの。自分でもどうしてかわからないのだけれど」
――え……っ?
初音は声を呑んだ。千手滝を見据えている女が、ふと千手姫と重なって見えたのだ。その女は確かに美しいが、千手姫とはまるで似ていない。瞠目しながら傍らの男をちらと見る。そこには……。
「草之助……っ」
思わず声を上げてしまい、気まずい空気を感じて俯いた。
「草之助って、本間草之助のことかい? 千手姫と恋仲だったという」
男がにこやかに尋ねる。ちらと見たその笑顔は、草之助のものとよく似ていた。
「僕は草之助ではないけれど、実はね、僕の名前にも草の字が入っているんだよ。僕は、本郷草太というんだ。少しだけ、本間草之助の名前に似ているだろう?」
「私は、千鶴。本郷千鶴」
二人に名乗られ、
「あ、えっと、私は鈴鹿初音です。お二人はご夫婦だったんですね」
そう言った。すると、二人はなぜか驚いたように目を見開いてこちらを見ている。首を傾げていると、
「……はつ……?」
草太が呟いた。千鶴も、首を傾げて何やら考え込んでいる。
「はつ……そう珍しい名前でもないのに、何かしら。何か引っかかるわね」
「あの、私ははつじゃなくて、初音です」
そう言うと、二人は苦笑を浮かべながら互いに見つめ合った。
「そうだったね」
「初音さんよね。宜しくね」
二人とも、見た限りでは初音と同じ三十代だろう。無遠慮に話す二人であったが、嫌だとは微塵も感じなかった。
「草太さんと千鶴さんも観光で?」
初音が尋ねると、
「いや。僕たちはこの近くに住んでいるんだ」
草太が答える。
「三年前に観光できたのだけれど、その時のガイドがこの人だったのよ」
千鶴が笑うと、草太もはにかんだように笑った。
「僕の一目惚れでね」
幸せそうに笑い合う二人を見つめながら、はつは胸が温かくなるのを感じていた。
――ああ……鵺が喜んでいる……。
そこで、初音は気づいた。なぜ、こんなにも赤目渓谷に行きたがったのか。それは初音の考えではなかったのだ。初音の中に宿る鵺の魂が、赤目渓谷に向かうよう初音を急かしていたのである。……初音はそう思った。
――そうか。鵺は、この二人に会いたかったんだね。
そう思った途端に、まるで頷くかのように鼓動が高鳴った。
第二次天正伊賀の乱において悲運な最期を遂げた草之助と千手姫。しかし、目の前の二人は実に幸せそうに笑っている。
――草之助の笑い方……全然変わってないなあ。
千鶴と話しながら、草太が声を上げて笑う。その笑顔はあの頃と変わらない……太陽のような輝きを放っていた。
――千手姫様はもっとおとなしい感じだと思ったけれど、あと十五年もすれば、千鶴さんのようにはきはきと話せる女性になっていたのかなあ。
物思いに耽っていると、千鶴がこちらを見た。
「初音さん、もしよければ家にこない? ここで会ったのも何かの縁かもしれないし。それに……なんだか、初めて会った気がしないのよ。貴女とは」
草太も頷く。
「うん。僕もそんな気がしているんだ。初音さんさえよければどうかな? 家はすぐそこなんだけれど」
初音は目を閉じ、胸に手をあてる。鼓動がどんどん早まっている。真冬の山中にいながらにして、春の陽気のような温かさが全身に広がるのを感じた。
「初音さん?」
初音は目を開けた。不審に思ったのか、千鶴が首を傾げて名を呼んでいる。その姿に、
――ああ……やっぱり、千手姫様だ……。
初音はそう思った。千手姫は、首を傾げる仕草すらも愛らしかった。今の千鶴には、あの頃の千手姫が重なって見える。
「うん。もしもご迷惑でないなら、私ももっと二人とお話がしたいです」
そう答えると、草太と千鶴は朗らかに笑って頷いた。
――鵺……。
二人のあとをついて行きながら、胸の内の鵺に呼びかける。
――鵺が守ろうとした二人は、この時代で幸せに暮らしているよ。
ひとつ、大きく胸が高鳴った。
その鼓動を感じながら、初音は千手滝をあとにしたのだった。
時は流れる。
出会いがあれば、当然別れもある。
何度別れても、何度でも巡り合うこともある。
それはまるで、どこかの世界でそう約束でもしてきたかのように。
そして、人はそれを、運命と呼ぶのかもしれない。
願わくば、今世では幸福な人生を歩めることを――。
『はつと鵺 ~天正伊賀物語~』これにて閉幕です。
長い間、お付き合い頂きまして誠にありがとうございます!
また、新作でお会いできたらいいですね♪
私の作品を読んで下さっている方々との出会い、これもまた運命だと感じております。
そして、私の作品に触れて下さった方々……そのすべてに幸があらんことを、心よりお祈り申し上げます。




