魔女と魔法
○
夢の中は、不可思議な出来事がまかり通っていた。
レノは海の中にいるのに、視界はクリアで浮遊感もない。海の底にしっかりと足がついていて、ちゃんと呼吸もしている。
そして目の前に、人間がいた。
皺くちゃの顔をした老婆だ。レノが出会った緋色の彼女と同様、何も着ておらず、骨ばった体を海に晒している。下半身はちゃんと二本の足が生えているが、その表面を覆っているのは皮膚ではなく、黒光りする鱗だった。白く長い髪は海藻のように揺らめいていて、黒い帽子でも被せてしまえば魔女のようだなと、レノはおぼろげながらに思った。
「目が覚めたか?」
老婆の口から、がらがらとした男性のような声が漏れた。海の中であるはずなのに耳に届いたことよりも、その声にレノは驚いた。年老いてはいるものの、乳房の面影は残っているし肩幅も狭い。
「ああ、この声かい? これが魔女の正体だよ」
「魔女……」
自分の声もすんなりと聞こえる。一体何がどうなっているのか。そういえば周囲に魚が一匹も見当たらなかった。
「不思議に思うのも当然。魔法は海を人間が住めるようにすることだってできるのさ。逆に魚にとっては地上みたいなもんだけどね」
魔女は低い声でからからと笑った――ように見えた。魔女の顔は目の位置が掴めないほど皺が寄っていて、生き物のように震えている。
よく見ると、魔女の近くでは魚が泳いでいる。その魚が、こちら側に進行方向を変えたところで、何かにぶつかった。
レノは自分が、薄い膜のようなものの中にいることに気づいた。その膜の境界であろう円周に沿って、発光している透明な生物――ホタルイカが蝋燭のように並んでいた。
「僕は一体……」
「舟から落ちてきたのさ。ほら、お前の小さな舟が見えるだろ? 偶然あたしの目の前に沈んできたもんだから、暇潰しにね」
人差し指を上に掲げる魔女の言うとおりだった。
海面は暗くてよく見えないが、舟がひっくり返っているのが確認できる。
だが、記憶を掘り返そうと思っても、全てが霞んでいた。街の人々と酒場で初めて酒を飲んだことまでは覚えているのだが、その先がまるで思い出せない。
「どうしてこんなところに……」
「知らないよ。ただお前は舟でここまできて落ちてきたんだ。助けてやったんだから、何か礼がほしいね」
魔女は淡々と話を進めていく。こちらの状況など考えてもいないが、レノ自身もここに至るまでの過程に整理をつけられなかったので、現状にすがるしかなかった。
まさか本当に魔女がいるとは、彼女の話を聞いたあとでも半信半疑ではあるのだが。
「礼、ですか」
「そう。お前は男だから、〝声〟は要らないよ」
魔女の言葉に、レノは彼女から聞いた噂話を思い出した。
魔女は、魔法と引き換えに大切なものを見返りに求めてくる。命を助けた見返りを求めているのだ。声を求めようとした魔女は、他に何を求めてくるだろうか。
緊張に身を震わせながら、レノは魔女の言葉を待った。
「だから、そう……お前の足の皮膚か、若さか、あるいは――」
そこまで言いかけて、魔女はまた顔を歪めた。嗄れた不気味な声が漏れているので、また笑っているのだろう。
その不気味な形相に、レノはようやく現実味を実感し、恐怖を覚えた。
ひとしきり笑い終えた魔女は、ほとんど開いていない両目でレノを見据え、おもむろに右腕を挙げてみせた。
「この腕、どう思う? いや、片方だけじゃないんだけどね」
掲げられた右腕に限らず、鱗に覆われた下半身を除いて魔女の体は骨に直接皮膚を巻きつけたようだった。そのせいか、顔だけが逆に何かが詰まっているかのように錯覚を起こす。
「醜いと思うかい?」
レノは返事に困り、押し黙るしかなかった。魔女はまた顔を歪める。こちらの沈黙を楽しんでいるのだ。
「正直に答えたって何もしないさ。自分が一番わかっているよ……そうだ、どうしてこうなったのか話してやろう。お前は知るべきだ。人間を愛した人魚がどうなるのかを」
「人魚……って、どうして?」
人魚――どうやらそれが、彼女の正体を表す言葉なのだろう。だがそれに感心する間もなく、まるでレノを見透かしたかのような魔女の言葉に狼狽した。
「お前があの女と毎晩逢って話しているのは知っているよ。群れには何も言っちゃいないから安心おし。見ていればわかる。お前達二人は人目を忍んで逢瀬を重ねる恋人そのものだ」
「そんな、恋人だなんて」
「そうだ。まだお前達は恋人ではない。でもお前は愛しているんだろう?」
「…………」
「どうするつもりだ? お前はあの人魚と結ばれるために、何をするつもりだ?」
レノの沈黙は肯定と受け取られたようだった。魔女はすかさずつけ込んでくる。
心なしか、魔女が本当にこちらに向かって来ているような気がした。近づいているのか、魔女が大きくなっているのか、自分が小さくなっているのか。
「彼女は、いつか、あなたに……」
レノは魔女の言葉に惑わされながら言った。今にも自分が急速に収縮して小石になってしまいそうだった。
「ん?」
「いつかあなたに、人間にしてもらうって、言っていました」
「……なるほど、そんなことを。で、お前はそれまで待つつもりか」
気づけば、魔女はレノの目の前にいた。皺の奥で、濁った水を垂らしたかのような瞳が瞬きをしている。
「今お前にも見返りを要求しているように、その女からも何かを貰うだろう」
「大切な、何か」
レノは気圧されながらも反芻した。自身も食い入るように魔女を見つめ返している。一体彼女は何を要求するのだろうか。まず思いついたのは、声だ。魔女が最初に言っていた。声がなくなるとどうなるのだろうか?
「あの女は声がいい。お前みたいな人間を虜にする」
レノは自分の心を読んでいるかのように嘲り笑う魔女にぞっとした。
「あたしは、あの声が欲しい。あの瑞々しい肌も欲しい。あの女が持つ美しさが全て欲しい。たとえどんな手段を使ってでも」
魔女の顔が近づくと、その分表情も読み取りやすくなった。目を精一杯開いて、紫色の唇で三日月を作り、低い声で不気味に笑っている。それまでとは違い狂気が滲んでいて、何かを企んでいるかのような笑みだった。
レノは初めて危機感を覚えた。微かに残っていた、夢を見ているような感覚が完全に消え失せた。自分以上に、彼女の事が心配になる。
「だが、あの女の方から来てくれるならありがたい。あたしが魔法をかける前に、見返りとして女とあたしの身体をそっくり交換してしまえばいいんだ。そして魔法をかけてやれば、晴れてあの女は人間になれる。あたしはあの女の全てを手に入れる」
「そんな――!」
レノのおぼろげな予感は的中した。魔女が言った通りになってしまえば、彼女が喜ぶはずがない。思わず手が出そうになったが、動かなかった。
元より、身体の自由がきかない。苛立ちを余所に、魔女はひどく上機嫌だ。
レノは初めて人――目の前にいるのは魔女だが――を殴りたいという衝動に駆られた。だが、
「……と、ここまでの話は全てあの女が人間になる場合さ」
魔女はそう付け加えたが、レノには咄嗟に理解することができなかった。他に何があるというのだろうか。
「お前があの女を愛しているのはよくわかる。そして、あの女もそのことを誰にも話さないからね。それに――」
と、そこで言いよどんだ。代わりに鼻で笑うと、ぐるりとレノの周囲を一周する。身体は年老いていても、魔女の泳ぎは優雅だった。
「そういえばすっかり忘れていたよ。人間を愛した人魚がどうなるのか、知りたいか?」
レノは迷った末に頷こうとしたが、首が動かない。視線で肯定の意志を魔女に伝える。
「どうなるかなんて、教えるのは簡単さ。お前の目の前にいるのが答えだ。こう見えてもそこまで年は取っちゃいないよ」
その瞬間、レノの想像力が悪い方向へ一直線に落ちていった。
――彼女を愛している。この気持ちはきっとそうに違いない。酒場に入る前に色んな人に相談した。「そりゃあお前がその姉ちゃんのこと好きってことだろ? やりたいんだろ?」と言っていた。
同時に、彼女も自分を愛してくれることを願っている。彼女に会う度に、そうあって欲しいと強く願ってしまう。自分が彼女を愛する以上に、彼女に愛されたかった。
「人魚はねえ、人間に恋をして、その思いを口にした途端こんな姿になっちまうのさ。人魚は元々人間との接触は禁じられているが、もし愛し合ったらどうなるのか、それは魔女になった者にしか知り得ないことなんだよ」
レノはいつか自分の気持ちを告げようと思っていた。でも、それを叶えるためには彼女が自分を愛してくれていなければならない。それが強ければ強いほどいい。
その方が、彼女はいざ告白を受けたときに喜んでもらえるだろうから。
でも、彼女が自分を愛したら。人魚が人間を愛したら。愛していたら。
目の前にいる魔女のような姿になってしまうのだとしたら。
「ああ……」
レノは悟った。
彼女が自分を愛しているかどうかは、彼女の姿によって証明されていることを。彼女の姿が人魚のままだということは、つまり……
それが憶測の域を出ていないとしても、レノはその憶測に半分以上浸かっていた。溺れるのも時間の問題だった。涙が目元から浮かんでは溶けていく。
「心配しなくてもいい。あの女がお前を愛してないと決まったわけじゃない。むしろその可能性は低いだろうよ。まだあの女もはっきりと口にしていないだけさ。だが、近いうちにお前かあの女は愛を告げるだろう。そのときが最期だ。愛を告げるか、受け取ったと同時に、人魚は人間が愛せない姿に変わる」
魔女の姿が目の前にある。レノは、仮に〝これ〟が彼女だったとして、愛せる自信がなかった。突然水をかけられたかのように冷めてしまうと確信できる。
彼女に愛情を抱く理由の一つが、彼女自身の見た目の美しさであり、それが一番大きかったからだ。
「一体、どうすれば……」
途方に暮れるレノは、すがるような視線を魔女に向けた。それを待っていたかのように、魔女は骨張った指の人差し指だけを立てて答えた。
「あの女が何も失わず、醜くならないようにする方法は一つしかない。お前も大体わかっているはずだ」
その人差し指の先を、レノに突きつけた。爪の先が鼻の頭にぶつかりそうになる。
「お前と同じように悩んでいる連中は沢山いるが、お前の様に解決できる方法があるのはほんの一握りだ」
レノが、突きつけられた指ではなくその奥に目をやる瞬間を見計らっていたかのように、魔女は言葉を続ける。
「お前が変わるんだ。あの女と同じ人魚に」
レノがあえて考えないようにしてきた心の一部を、魔女は容易く鷲掴みにしてしまった。魔女の誘惑は、人でなくなることの恐れさえも忘れさせる。
「お願いだ。僕を、変えて欲しい」
「ああ、いいとも。ならば私は、見返りに何を貰おうか……」
魔女は人差し指でレノの目尻に触れ、そのまま目元をなぞっていく。レノの頭に過ぎったのは、片目、両目、視力、皮膚、全て――しかし、魔女の要求するものはそのどれでもなかった。
「涙だ。お前の涙を貰おう」
「涙……?」
涙とは今流しているものを渡せばいいのだろうか、しかし海の中にいては涙など指ですくうこともできない。
「そうだ。物理的に渡す必要はない。涙を渡せば、二度と泣くことができなくなる。そして――」
「わかった」
魔女の言葉を遮って、レノは承諾した。
「……話が早い」
涙なんて、もうどうでもよかった。彼女との間に障害がなくなれば、あとは幸福しか訪れない。
たとえ二度と家に帰れないとしても、二度と夕日を見られないとしても構わない。これからは海が家になる。父と母のいる海に、ずっといられるようになる。そこに彼女もいるのだから、何が悲しくて泣けるというのか。
世界から目を逸らす必要がなくなったのだ。ありのままを受け止めて、いつまでも笑っていられるではないか。
魔女はふわりとレノの横を通り、透明な膜の向こう側にいた手近な魚を一匹捕らえた。まるで掌が魚を吸い込んだかのようだった。
「お前は運がいい。鱗はそのまま人魚の美しさになるのだから」
魔女の手に握られているのは、中指の先から手首までの長さで、親指から小指ほどの幅をもった小魚だった。
尾鰭と頭の先以外に、晴れた日の静かな海面に虹を描いたような鱗が、指の隙間から見え隠れしている。
魔女がもう片方の手を、絵でも描くかのように複雑に動かし始めた。急に眠気が襲ってきて、レノはいつの間にか目を閉じていた。
やがて瞼を開けると、レノは人間ではなくなっていた。魔女の姿も消えていた。
下半身が魚になったことで、特に不自由さは感じなかった。背鰭は腰の真下から伸びていて、不思議なことに尻鰭が太ももであった箇所から前方に飛び出している。先端の尾鰭は大きく、先が丸い。
全てが生まれた頃からそうであるかのように馴染んでいて、意のままに動かせる。速さには驚くしかなかった。走るよりも速く、疲れを感じない。
無数の魚とすれ違いながら、彼らの言葉に耳を傾ける。レノは人魚になって、魚の言葉がわかるようになっていた。色鮮やかな魚が互いの鱗を自慢し、餌の取り合いに口喧嘩などをしている。この辺りに大きな魚はいないらしく、鮫や鯨は見当たらない。
時間帯は夜でも、透き通った海はどこまでも見渡せる。エメラルドの海は彼女の瞳そっくりで、どこまでも深く穏やかだ。芸術的な断層が織り成す無数の大小様々な渓谷には街のように、様々な生物が暮らしている。
ほとんど音も匂いもない世界だった。海とはこんなにも美しいものなのだろうか。
海中は常に浮遊感で満たされている。空飛ぶ鳥を自由だと思う理由が少しわかったような気がした。レノは海中を飛んでいる。地上では絶対に不可能な動きが容易くこなせる。
つい数時間前に溺れていたことが信じられなかった。
あっという間に塔のような岩礁まで辿り着いた。海から顔を出すと、崖の上に建てられた自分の家が目に入った。辛うじて海に面した窓が窺えた。
彼女がいつもここから自分のことを見ていたのかと思うと、急に恥ずかしくなる。思い出そうとしても、自分は普段どんな顔をして海を眺めているのかなど知る由もなかった。
もうあの家には戻れない。彼女が眺める必要もない。
レノはそこで彼女を待つことにした。彼女が自分の姿を見たらどんな顔をするだろうか、想像を膨らませながらレノは星空を見上げた。