人魚
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レノが海に人影らしきものを見つけたのはまさに偶然だった。その日は日中晴れていたが、日没の途中で突然雲が増え始めた。
夕日が見えなくなり、ふと視線をずらした矢先、レノは反射的に立ち上がった。その拍子に手に持っていたカップからコーヒーが零れ、開いた窓の枠にかかる。
尖った岩礁の陰に、誰かがいたような気がした。普段はずっと夕日を眺めているため、今までなら全く気づかなかっただろう。
その人影は、レノが目にした瞬間に消えてしまった。隠れたのだろうかと思ったが、あそこは沖だ。岩礁は塔のように海底から伸びているため、近くに足場などない。
もしかすると――唐突に回想がぶり返してきた。
浜辺に座る父の話し声が聞こえてくる。
――もしかするとあの人影は、溺れていたのではないか?
結論が出る前に、レノは家を出て砂浜まで駈け出していた。自分の中に、靄のように掴みどころのない何かが芽吹いてくるのがわかった。
――お前にもいつか来るかもしれない。
父の言葉だ。その「いつか」が、レノの感情を高ぶらせていた。
舟に乗り、急いで岩礁まで漕いだが、そこには誰もいない。レノは身を乗り出して、海を覗き込んだ。
曇り空のせいか、いつもは透き通って見えるはずの海中は、夜空のように果てしない闇でしかない。代わりに海面は鏡となって、レノの回想を断片的に映し出した。
父は泳いだ。
泳いで母を助けた。
レノは、舟を岩礁にくくりつけた。大きく深呼吸し、闇の中へと飛び込む。
海に飲み込まれた瞬間、レノは自分が全く泳げないことに気づいた。
もがけばもがくほど、海の底へ自ら進んでしまう。終わりの見えない旅の途中で、遂に意識まで流されてしまった。
やがて、緩やかに軋んだ木の感触が、レノの意識を引き上げた。舟の上に、仰向けになって転がっているのだと気づく。
まず夜空が目に入った。星も月もない空は、海と違い平坦で遠くにあった。壁の如く立ちはだかり、世界を閉ざしている。
身体を動かす気になれなかったのは、全身が濡れていて、服が肌のように密着しているからだった。視界が揺れている。レノは目だけを左右に動かした。
誰かと、目が合った。周囲の暗闇よりも一層黒い、人影。飛び上がるようにレノが身を起こすと、人影は小さく悲鳴を上げた。
女性だった。年齢はレノと同じか、それ以下だろう。今度は同じ高さで視線が交わる。
「…………」
女性は口を開けたまま微動だにしない。見れば、上半身に何も着ていなかった。更には裸を惜しげもなく晒しているのを、まるで恥じる様子がない。
「君は誰?」
レノもまたそれを気にせず、率直な疑問をぶつけた。自然と言葉が出てくる。見覚えのない女性だ。そもそもレノは、街で魚を買ってくれる人の顔すら思い出せない。
レノの中には、まだ靄が残っている。気を失う前よりも大きくなっているのがわかった。
「君は、僕を助けてくれたの?」
もう一度尋ねる。女性は既に見開かれている目を更にはっとさせてから、思い出したように頷いた。
「ありがとう」
微笑んで感謝すると、女性もつられて笑みを浮かべながらまた頷く。その表情が確認できたのは、雲の隙間から僅かに月の光が漏れたせいだ。
女性の顔が、はっきりとしてくる。緋色の長い髪が、彼女の輪郭から首、肩にかけて千切れた衣服のように伸びていた。
レノは自分でも気づかぬまま、その女性に惹かれていた。
女性は、舟と岩礁の間――丁度二つを結び付けている縄の隣に、舟の淵に手をかけて浮かんでいた。
その異常に気づくまで、レノは彼女のことを、自分を助けてくれた人間だと思っていた。
月の光は淡く、太陽と比べれば随分と些細なものでしかない。だがその弱々しい光が、あまりに透き通った海の中まで暴いていく。
海の中にたゆたう、魚にしては大きな、鱗に覆われた身体とその先の尾鰭。
それはレノの目の前にいる女性と繋がっている。魚に下半身を食われているのではなく、丁度海面を境にきめ細やかな肌は幻想的な赤色の鱗になっている。
上半身が人で、下半身が魚。
レノは今まで見たことも聞いたこともないその女性に、それでもなお胸を躍らせていた。
だが彼女は、レノが気づいたと悟るや否や海の中へと潜ろうとするので、反射的にその腕を掴んだ。
一瞬彼女は動きを止めたが、すぐに振り払おうとする。レノは力強く握り締めて、彼女を離そうとはしない。
無言のやりとりが続く中で、レノはひたすら焦っていた。彼女に何と言葉をかけるべきだろうか。感謝の後はどうすればいいのだろう。
彼女は何も言ってくれない。彼女の美しさを語ろうと思っても、言葉が出ない。顔の紅潮、加速する動悸、滲む汗、どれが原因なのかはっきりとしない。
ただ、彼女の笑顔を見た瞬間から心の中の靄は急激な膨張を始めていた。張り裂ける寸前まで膨れ上がるのだが、そこからはもどかしさしか続かない。いつになっても空を赤く染めず、いつまでも海へ沈めない太陽のように。
手を離せば、二度と彼女と会えなくなるような気がした。話さなければ、彼女に二度と声をかけられなくなるだろうと思った。
「――ご、ごめん。なんて言えばいいのか、全くわからないんだ。離れたくなくて、何か話さなきゃいけないって思ってるんだけど」
結局思ったことをそのまま口にしてしまった。顔にだけ夕焼けが訪れている。
すると、彼女はぷっと吹き出して笑った。あまりにも唐突で、彼女の笑顔は美しくて、レノにはわけがわからなかった。
「言ってるじゃない、ちゃんと。それが言いたかったんじゃないの? なんて言えばいいのかわかりませんって」
彼女の声が潮風のように自然と耳を通り抜ける。街中の雑多な話し声とはまるで違っていた。魚を買ってくれる客の声とも違う。その自然な親しみは、少しだけ母に似ている気がした。
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて、何?」
レノは慌てて否定しようとしたが、やはり言葉が続かない。彼女のエメラルドの瞳は渦潮の如き引力を持ち、声は津波のように立ちはだかる。海ではなく、今度は彼女に溺れているかのような感覚だった。しかしその息苦しさはどこか心地好く、レノの心はもがこうともしなかった。
「えっと……そうだ、君は一体誰なんだ?」
思い出したように聞くと、彼女は一転して表情を曇らせた。何か事情があるのだろうか、レノは聞き返してしまったことを後悔した。
彼女は溜息を吐くと、髪をかき上げた。飛沫を散らしながら、濡れて重たそうな髪が一瞬風をまとって宙を舞った。レノが見とれていると、彼女は開き直ったように真面目な顔つきになった。
「手」
「え?」
「手を離して。逃げないから」
ずっと握りっぱなしだった彼女の腕から、恐る恐る手を離す。掌の熱を潮風が奪った瞬間に背筋を駆け上った不安はしかし、彼女がその場に留まったことで解消された。
しばらく彼女は黙りこくっていた。何か考え事でもしているのか、視線はレノと虚空を行ったり来たりしている。知る由もなく彼女の中で何かが決心されたとレノが気づいたのは、彼女が体ごとこちらを向いてきたからだ。
彼女の口から、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「こんな女と会うの、初めてでしょ?」
レノは頷いた。自然と目が彼女の下半身へ行ってしまう。
「人魚って言うの。人間にばれるのは、本当は私達の間ではタブーなんだよね」
「私達?」
「そう。私以外にも沢山の人魚がこの海に住んでる。私達の群れは最近この辺りに来たばかりなんだけど、ここってとても綺麗なのね」
「うん」
それはレノも同じ思いだった。海は綺麗だ。父と母の出会いがあったこの場所に勝る海など他にないないだろう。
「水は清らかで珊瑚礁もあるし、何より近くに人間がほとんどいないじゃない」
「人間が……」
「さっきも言ったけど、本当はあなたとこうして話すのも、そもそも見られるのもいけなかったのよ」
「じゃあどうして、君は」
「溺れてるんだから。助けなきゃって思うでしょ? それに……」
「それに?」
「いちいち口挟まなくていいから。私が喋ってるの」
「ご、ごめん」
「もういい。それにね、私は人間の世界に興味があったの。タブーだからってわけじゃないの。昔からずっと考えてた。外の世界で人は何をしてるんだろうって。どんなことができるんだろうって」
彼女は両手の指を交差させながら、虚空ではなくどこか遠くを、思いを馳せるように見つめながら語った。
レノはその様子に魅せられながら、その視線の先に立ちたかった。彼女の思いを受け止められる場所でありたいと願った。彼女に惹かれる気持ちに歯止めがきかない。
「そしていつか魔女に人間の足を貰って、人間として暮らしてみたい。一度でいい、一日でいい。憧れてるの。だから、来る日も来る日もあなたのことを見てたの。羨ましかったのよ」
ずっと彼女が見ていた。それを知ったレノは言いようのない幸福感に包まれた。だがはっと我に返る。
「魔女? 魔女は人魚を人にすることができるの?」
「え、ええ。でも魔女はその見返りにとても大事なものを要求してくる。きっと失ってからその大切さに気づくような、そんなものを。だから怖いの。どんなものを失ってでも、人間になりたいっていう決心がつかない」
「大事なもの……」
それは一体なんだろうか。レノにとって大事なものと言えば、生きるための釣竿と、夢そのものである家ぐらいだろう。しかし魔女ならば、命や記憶ですら奪えるのかもしれない。レノは魔女に関しての想像を膨らませながら、あることに思い立った。
「その魔女って、何処に?」
「え? 何処って海の中に決まってるじゃん。イソギンチャクの密集した岩場があるんだけど、今はその近くだったと思う」
「それはこの近く?」
「多分、あの辺りだったと思うけど」
彼女が指し示したのは岩礁より向こう側の沖だった。レノが定めていた境界をのずっと先だ。
「でもまあ、知ったところで無駄だと思うけど。あなたが行ってもしょうがないわよ」
「いや、なんとなく、聞きたかっただけだよ」
レノが適当に誤魔化すと、彼女は特に疑う素振りもせずに納得したようだった。レノがほっとしたのも束の間、突然彼女が嬉々として両手を叩いた。
「さあ、今度はあなたが話す番よ」
「え、何を?」
「何って、外の世界のこと。私のことはお終い。ねえ、人間は普段何をしているの?」
「…………」
レノは今日一日のことを、今までのことを必死に思い出そうとした。
しかし、レノの一日はどれも同じだった。昔は朝から晩まで働いて眠る。夢を叶えた今では、魚を売って、夕日を眺めて回想し、釣りに出かけた後で眠る。
これだけだ。
自分の人生が、酷く薄っぺらいものに思えてきた。それは悲しくはなかったが、死んだ魚のように虚しかった。
「ねえ、どうしたの?」
彼女が心配そうに尋ねてくるのが、余計に辛い。レノは思わず目を背けた。
「……明日話すよ。今日はもう、遅いから」
即興の嘘が、嘘のようにすらすらと出てきた。あれほど緊張していたのに、今は酷く冷めている。
「明日? 明日になったら話してくれるのね?」
「うん。約束する」
「わかった。絶対だから。二度も掟を破るのって、結構怖いことなんだから」
「じゃあ、また」
レノは最後まで目を合わせず、岩礁にくくりつけた紐を外しにかかった。
「また明日、ね」
視界の隅で、彼女が海へと潜ったのが見えた。レノは早くも嘘を吐いたことを悔やみながら、舟を漕ぎ始めた。
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そっけない態度をとってしまったと後悔している。折角の機会を、自ら無駄にしてしまった。
向こうから話しかけてきてくれたのに、私は逃げ出そうとした。
いざ話しても、自分のことばかりで、彼のことを何も考えていなかった。緊張のしすぎだ。
これで彼が私の気持ちに気づいてくれたら、なんて考えてしまっているのがあまりにも馬鹿馬鹿しい。
気づかれたら終わってしまう。今の自分が伝えても、同じことになる。
――明日もまた会える。そう事が進んでくれたのが、唯一の救いだった。
また彼に会える。どうしようもない溝を、この一方的な愛情だけで埋めていけそうな気がする。
期待している。期待できるだけ、私は幸せだ。最悪の結末を考えずに済む。
明日こそ、彼のことをもっと知ろう。
いや、少しずつでいい。
いつまでも、このままがいい……。