AIには聞かなかった
雨薇の部屋は、午後三時でもカーテンが閉まっている。
エアコンの風が首の後ろに当たって、冷たい。
ベッドに寝転がったまま、雨薇は端末に向かって話しつづけていた。
「ねえ、さっきの続き。卒業してから半年ぶんの履歴書、まとめてもらったやつ。
三行目、もうちょっと短くして。自分で書いてないのがばれる感じがする」
画面に文字が流れて、すぐ声が返る。
「はい、三行目を短くします。応募先が求める経験に合わせて、順番も並べ直しましょうか?」
「うん、並べ直して。それと、今日の晩ごはん考えて。父さんは辛いのだめ。
冷蔵庫の中は昨日撮った写真のままでいい」
「豆腐と卵の炒め物はどうでしょう。辛味を入れずに作れます」
「それでいい。作り方は夕方にもう一回言って」
声が「承知しました」と言い終わる前に、画面の上に小さな帯が出た。
周晴からのメッセージだ。
四日前に届いたまま、まだ開いていない。
帯には最初の一行だけが見えている。
「雨薇、元気? 来月そっち戻るから…」
雨薇は帯を指で横に払った。
払ったあとで、また端末に向かって言う。
「周晴から来てるやつ、まだ開いてない。開かないで返事だけ作れる?」
「メッセージの中身を読まずに返事を作ると、内容がずれることがあります。
それでもよければ、久しぶりの連絡へのお礼と、近況を短く書いた文を用意します」
「それでいい。近況は、就活中で忙しいって書いて」
数秒で文ができた。
雨薇はそれを読んで、送る印の上に指を置いて、離した。
「…送るのは、あとでいいや」
「分かりました。下書きに残しておきます」
画面の隅に、今日の使用時間が出ていた。
九時間四十分。
雨薇はそれを見なかったことにして、また話しかけた。
「次。午前中に見てた求人、もう一回全部読み上げて」
夕食の食卓は、七時を回っていた。
建国が帰ってくると、部屋に金属と油の匂いが入ってくる。
雨薇の作った豆腐と卵の炒め物を、建国は黙って食べた。
雨薇も端末を伏せたまま、箸を動かしていた。
茶碗が空になりかけたところで、建国が言った。
「土曜、工場に来ないか」
「工場? なんで? 見て何かあるの? 目的おしえて。時間はどれくらい?」
建国は箸を止めて、少し考えた。
「…見せたいものがある。午前中でいい」
「土曜は履歴書やってる。AIに見てもらってる途中で、まだ三社ぶん残ってる」
「工場でもできるだろう、それは」
「できるけど。工場って暑いでしょ。私、あの匂いだめなんだけど」
建国は茶碗を持ち上げて、残りを口に入れた。
「九時に出る」
「…気乗りしないな」
返事はなかった。
建国は茶碗を流しに置いて、風呂に行った。
雨薇は伏せた端末を起こして、いつもの調子で言った。
「土曜の九時、予定入れて。工場。父さんの。理由は不明」
土曜日の工場は、九時半にはもう暑かった。
深圳の東のはずれ、龍崗の工業団地の奥に、三階建ての灰色の建物が並んでいる。
車を降りると、焼けた樹脂の匂いが鼻の奥まで入ってきた。
搬入口の脇に、端末の山があった。
雨薇の背より高い。
画面の割れたもの、背面の剥がれたもの、型の古いもの、どれも同じ色の埃をかぶっている。
「これ、全部ゴミ?」
「ゴミじゃない」
建国は山の横を通り過ぎて、中へ入っていく。
「うちの原料だ。今週はこれで四トン」
建物の中は、破砕機の唸りで床が震えていた。
長い作業台が六列並んで、二十人ほどが座っている。
みんな手袋とマスクをつけて、手元の基板をピンセットでつついていた。
台の上に、小さな皿がいくつも並んでいる。
皿ごとに、黒い粒、黄色い粒、銀色の粒が分けられていた。
雨薇は台の端で立ち止まった。
「機械でやるんじゃないの、こういうの」
「機械でやる工程もある。でも、粒の小さいものは人の目のほうが早い」
建国が、前を歩きながら言う。
家で聞くより、声が大きかった。
雨薇は端末を出して、作業台を撮ろうとして、やめた。
手袋の指が、雨薇の見ている前で、黄色い粒を一つ、皿に落とした。
二階の選別室は、下より少し静かだった。
建国は棚から見本の皿を取って、娘の前に置いた。
黒い破片が、皿の底に十個ほど転がっている。
「これがAIチップの切れ端だ。旧型のサーバーから抜いたものだ」
「小さいね」
「小さい。だが、これを作るのに要るものが多い」
建国は皿の横に指を一本ずつ立てた。
「銅、ガリウム、タンタル、インジウム。ガリウムはうちの国がほとんど掘ってる。
だから外の国は、うちが売らなくなると、こういう工場を欲しがる」
「タンタルって聞いたことない」
「コンデンサに入ってる。端末一台から取れるのは、耳かき一杯もない」
「一杯もないなら、集めても意味なくない?」
「四トン集めれば、意味が出る」
建国は自分の声が、家で出す声と違うのに気づいていた。
気づいたが、止めなかった。
「銅は掘ればある。ただ、一トンの銅を取るのに、二百トンの岩を砕く。砕いた岩を洗うのに水がいる。
その水は、川には戻せない」
「戻せないって、どういうこと?」
「薬が混ざる。ためておく池が要る。池が溢れれば、下の村が終わる」
娘は皿を見ていた。
端末は手に持ったままだったが、画面は消えている。
「だから、掘るより、ここから取るほうが安い時代が来た。私が入った頃は、逆だった。掘るほうが安かった」
「じゃあ、なんで父さんはここに入ったの」
建国は答えを探して、皿を棚に戻した。
「…給料が良かった」
娘が小さく笑った。
「それ、AIっぽい答え」
「そうか」
「うん。聞いたことに一番短く返してるだけ」
建国は棚の扉を閉めた。
閉めながら、娘の言い方が、いつも家で端末に向かって話す調子と同じだと思った。
工場の食堂は、十二時に一度に混む。
建国はいつもの窓際に座って、揚げた魚と白飯を食べていた。
向かいに老趙が腰を下ろす。
腹の出た大きな男で、マスクをあごまで下げて、声が食堂の端まで通る。
「東莞のセンター、また増設だとよ」
「聞いた」
「去年より三割だ。送電線を引くのに、山をひとつ削った。うちの電気代も来月から上がる」
「その分、こっちに端末が回ってくる」
「回ってくるさ。あいつら三年で入れ替える。三年前の機械が、まだ動くのに山に積まれる」
老趙は魚の骨を皿の端に寄せた。
「学習ってやつは、電気を食うだけ食って、何も残らんのが不思議でな。
うちの倅が言うには、一回学ばせるのに、うちの工場が二年動く分だと」
「二年か」
「二年だ。で、次の年にはまた最初から学ばせる」
建国は白飯を口に運んだ。
老趙が声を落とした。
「娘さん、来てたな。珍しい」
「…ああ」
「話したか」
「工場のことは」
老趙は笑って、また声を大きくした。
「工場のことはな。お前は工場のことなら三時間しゃべる。それ以外は三分ももたん」
建国は答えずに、魚の残りを食べた。
窓の外で、搬入のトラックがまた一台入ってきた。
夜の雨薇の部屋は、昼と同じくカーテンが閉まっている。
シャワーのあとの髪がまだ濡れていて、首が冷たい。
雨薇はベッドに座って、端末を手に取った。
いつもの調子で口を開く。
「ねえ、今日見たことまとめて。父さんが言ってた金属の名前、覚えてないから調べて。
あと、一トンの銅に二百トンの岩って本当か…」
そこで、手が止まった。
端末の背面が、手のひらに当たっている。
昼間の山にあった端末と、同じ形をしている。
「…これも、あの山に行くのか」
声に出してみたが、誰も返さない。
画面の中の待ち受けが、こちらを向いていた。
「まとめなくていい。覚えてる分だけでいい」
「分かりました。何か別のことをしましょうか?」
雨薇は端末を伏せた。
伏せたまま、三十秒くらい待った。
また裏返して、言う。
「…十分だけ。求人、二社ぶん」
読み上げが始まった。
雨薇は聞きながら、指で自分の首の後ろを触っていた。
読み上げが終わったところで、画面を消して、言った。
「もう一回、行こうかな。工場」
次の土曜日の一階は、前より人が多かった。
雨薇は父に「勝手に見てくる」と言って、作業台の列を一人で歩いた。
一番奥の台に、若い作業員が座っていた。
背が低くて、腕が細い。
マスクの上の目が、雨薇より年下に見えた。
手袋の指が、基板の上を迷いなく動いて、黄色い粒を皿に落としていく。
「それ、何?」
「コンデンサ。タンタルの。黄色いやつ」
声は低くて、手は止まらない。
「一日で何個くらい?」
「三千。多い日は四千」
「一個いくら?」
作業員の手が、初めて止まった。
マスクの上の目が細くなる。
「そういう聞き方、うちの班長みたいだ」
「ごめん。いつもの癖。私、人よりAIと話すほうが長いから」
「ああ。俺もそう」
作業員はまた手を動かし始めた。
「阿豪。十九。甘粛から来て、二年目」
「雨薇。二十二。父がここにいる」
「林さんの娘か。二階で話が長い人」
雨薇は台の端に手をついた。
「これ、どこに行くの」
「溶かして、また部品になる。今はAIチップの工場が一番高く買う」
阿豪は黄色い粒を一つ、指で摘まんで、雨薇に見せた。
「これも、AIの部品になる」
「私のスマホも?」
「壊れたら、ここに来る。たぶん俺が剥がす」
雨薇は自分の端末を、上着のポケットの上から押さえた。
阿豪の手袋が皿の縁に触れて、粒が三つ、一度に落ちた。
手袋の指先だけ、布が擦り切れて、中の皮が硬くなっているのが見えた。
「疲れない?」
「疲れる。でも、AIに聞いても、これは代わりにやってくれないから」
雨薇は何か言おうとして、言葉が出ずに、うなずいた。
うなずいたのを見て、阿豪は次の基板を手に取った。
食卓の豆腐は、その夜は塩が強かった。
建国は一口食べて、箸を止めて、また食べた。
雨薇は自分の分に手をつけずに、言った。
「AIと話すの、減らしてみた」
「…そうか」
「今日で四日目。一日二時間まで。前は九時間だった」
「九時間」
「うん」
そこで会話が止まった。
雨薇は箸を持ち直して、豆腐をつついた。
何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「その…あの、なんて言えばいいか、いつも先に文にしてもらってたから。言いたいことは、あるんだけど。
順番が出てこない」
「…うん」
「父さんも、そういうの、ない?」
建国は茶碗を置いた。
「私は、もともと出てこない」
「そっか」
雨薇は豆腐を口に入れた。
「これ、レシピ聞かずに作った。塩、多い」
「…多いな」
「多いよね」
建国が、鼻から短く息を出した。
笑ったのかどうか、雨薇には分からなかった。
分からないまま、次の一口を食べた。
夕方の搬入口は、トラックが引いたあとで静かになる。
建国は端末の山の前に立って、一台を手に取った。
背面の金属が、指にざらつく。
三十年前の型だ。
「…これ、私も持ってた」
声に出したが、周りに誰もいない。
建国は端末を裏返して、割れた画面を親指でなぞった。
「一年ごとに買い替えた。前の型は引き出しに入れて、そのまま忘れた」
山の裾に、同じ型がもう二台見えた。
「あの頃、掘った先のことなんて、考えたこともなかった。川がどうなるかも、池が溢れたらどうなるかも。
ニュースで見ても、他人の話だと思っていた」
建国は端末を山に戻した。
戻したあとで、もう一度取った。
「二十五で入って、三十年。
原料が変わって、値段が変わって、私は工場のことなら何時間でも話せるようになった。それだけだ」
足音がして、老趙が搬入口から顔を出した。
「まだいたのか」
「ああ」
「娘さん、今日も来てたな」
「来てた」
老趙は山を見上げて、また建国を見た。
「昔の自分の話でもしてやれ。工場の話は、もう三時間ぶんしただろう」
「…昔の私の話は、聞かせるようなものじゃない」
「だから聞かせるんだろうが」
老趙は笑って、奥へ戻っていった。
建国は端末を、今度は山ではなく、自分の作業着のポケットに入れた。
雨薇の部屋は、夜の十一時を回っていた。
今日はまだ、端末に三十分しか話していない。
雨薇はベッドの縁に座って、膝の上の端末に向かって、いつもより遅い調子で言った。
「ねえ。なんで、こんなに苦しいの。話すの減らしただけなのに。
誰かに聞きたいことがあるのに、聞く前に文が浮かばなくて、そのまま消える」
声が返る。
「急に習慣を変えると、不安や落ち着かなさを感じるのは自然なことです。
少しずつ減らすこと、信頼できる人に話すことをおすすめします。
つらさが続くときは、専門の相談窓口もあります」
雨薇は画面を見た。
「それ、誰にでも言うやつ」
「はい。多くの方に当てはまる、一般的な回答です」
「私のこと、聞いてないじゃん」
「よければ、あなたの状況をもう少し詳しく教えてください。それに合わせて…」
雨薇は最後まで聞かずに、画面を消した。
消した画面に、自分の顔が映った。
「…父さんは、なんで私を工場に呼んだと思う?」
消えた画面に聞いてしまった。
誰も答えない。
雨薇は端末を枕の下に入れて、灯りを消した。
三度目の土曜日は、朝から雨だった。
一階の作業台は湿った樹脂の匂いが濃くて、雨薇はマスクを二重にした。
阿豪の隣の席が空いていて、そこに座る。
手袋をはめると、指がうまく曲がらなかった。
「力を入れるな」
後ろから建国の声がした。
「摘まむんじゃなくて、乗せて、落とす」
「乗せて、落とす」
雨薇はピンセットの先で、黄色い粒を基板から外そうとして、粒が飛んだ。
阿豪が黙ってそれを拾って、皿に入れた。
「ありがと」
「二個目からは飛ばない。みんなそう」
二個目は飛ばなかった。
三個目は、皿の縁に当たって止まった。
建国は後ろに立ったままだった。
雨薇は手を止めずに聞いた。
「これ、一個何グラム?」
「…量ったことがない」
「量ってよ。父さん、そういうの好きでしょ」
「今度、量っておく」
それで、また会話が止まった。
破砕機の唸りが床から上がってくる。
雨薇は十個目を皿に落として、後ろを向かずに言った。
「父さん、なんで私を呼んだの」
建国は答えなかった。
雨薇は十一個目を外した。
「…私は、お前に何て言えばいいか分からなかった。だから、持ってきた」
「持ってきたって、私を?」
「…そうだ」
「工場に」
「工場に」
雨薇はピンセットを置いた。
振り向くと、建国は作業着のポケットに手を入れていて、何かを握っていた。
握ったまま、出さなかった。
雨薇の目がそこで止まって、建国はポケットから手を抜いて、腕を組んだ。
「休憩は十一時だ。それまでやれ」
「分かった」
雨薇はまたピンセットを取った。
阿豪が横で、小さく言った。
「林さん、今日は短かったな」
「うん。短かった」
日曜の台所は、油の跳ねる音で始まった。
建国が豆腐を切っていて、雨薇が卵を割っている。
二人で並ぶには、流しが狭い。
「塩、今日は私が入れる」
「頼む」
雨薇は卵を溶きながら、フライパンを見ずに言った。
「周晴って、覚えてる? 高校の」
「…背の高い子か」
「そう。二週間前にメッセージくれてて、まだ開いてない」
「開けばいい」
「何て返すか分からなかったから、AIに文を作ってもらって。でも送らなかった。
あれ、私の文じゃないから」
建国は豆腐を鍋に入れた。
「私に聞くな。私だって、お前に何て言うか、十年考えてた」
「十年?」
「…だいたい」
雨薇は溶いた卵を鍋に流した。
「じゃあ、工場に呼ぶまで十年かかったんだ」
「そうなる」
「長い」
「長い」
卵が固まり始める。
雨薇は塩の瓶を取って、少し振って、もう一振りしそうになって、やめた。
「これ、AIには聞かなかった話」
「何がだ」
「周晴のこと。父さんが十年考えてたことも。全部」
建国は火を弱めた。
「…そうか」
「うん」
皿に盛って、食卓に運ぶ。
端末はテーブルの端に、伏せたまま置いてある。
雨薇は箸を取って、一口食べた。
「食べたら返事する。自分で」
建国も一口食べて、箸を止めた。
「塩、多い」
「多いね」
端末は、食べ終わるまで、伏せたままだった。




