第33話 寸分の狂いもなく
エルディス王宮、大聖堂。
ステンドグラスから降り注ぐ光の下、純白のバージンロードの先で膝を突くエドワードと、顔面蒼白で震えるマリー。
彼らを見下ろすルチアの手には、一冊の分厚い黒革の帳簿があった。
「さて、エドワード殿下。まずはあなたが私にかけた『横領』という、事実無根の不当な嫌疑から晴らさせていただきますわ」
ルチアは銀縁眼鏡をスッと押し上げ、静寂に包まれた大聖堂に、極めて事務的で冷徹な声を響かせた。
「私が財務顧問を務めていた三年間。エルディス王室の国庫は、常に金貨一万枚以上の黒字(剰余金)を維持していました。しかし、私を追放し、マリー様を新たな『財務の責任者』に据えてからのわずか数ヶ月で……国庫の現金は完全に底を突き、金貨二万五千枚の負債を抱えるに至りました」
ルチアは帳簿のページをめくり、容赦なく「数字」を列挙し始めた。
「その最大の原因は、あなたの狂気じみた『浪費』です。……たとえば、マリー様に贈った星珊瑚のティアラ。原価の五倍である金貨五千枚という高値で『ザック商会』からお買い上げいただきましたが、あれは一切の利益を生まないただの石ころです」
「う……あ……っ」
エドワードは呻き声を上げ、顔を覆った。
「さらに、星の宮殿の新規建設。事前の地質調査を怠ったため、基礎工事だけで予算の三倍である金貨数千枚が吹き飛びました。労働者への日当すら払えず、暴動を引き起こしたその無能な指揮は、もはや経営者として犯罪的ですらあります」
「ち、違う! あれは国の威信を懸けた事業で……っ!」
「威信? 笑わせないでください」
ルチアは冷酷に言い放った。
「威信とは、民が豊かに暮らし、国庫が潤って初めて成り立つものです。あなたは国の予算を、己の見栄と承認欲求を満たすための『個人的な財布』と勘違いした。……その結果が、現在外で起きている民衆の暴動です」
ルチアの言葉に、列席していた貴族たちが青ざめた顔でヒソヒソと囁き合う。
『なんという無能だ』『そんな男に国を任せていたのか』と、彼らの目はもはやエドワードを「次期国王」としては見ていなかった。
「ま、待ってよ! 私は関係ないわ!」
たまらず、マリーが金切り声を上げた。
「エドワード様が勝手に借金して、勝手にティアラを買っただけよ! 私、政治のことなんて全然わからないし! ……そ、そうよ、私はこの男に無理やり結婚を迫られていただけなの!」
マリーは、エドワードを突き飛ばし、必死にルチアとザイオンの方へ媚びるような目を向けた。
「第一皇子殿下! ルチア! どうか信じてちょうだい! 私もこの愚かな男の被害者なのよ! だから、私だけは連邦で保護して……」
「……マリー様。あなた、自分の立場が全く理解できていないようですね」
ルチアは扇を閉じ、帳簿の次のページをパタンと開いた。
その瞳には、エドワードに向けるもの以上に冷たい、絶対零度の蔑みが宿っていた。
「あなたが被害者? ……では、この『王立銀行・第七一二番口座』の記録についてご説明いただけますか?」
「え……?」
マリーの顔が、ヒクッと引きつった。
「あなたがエドワード殿下から『国庫の自由な使用権』を与えられて以降……月に数回、定期的に金貨数百枚単位の資金が、この口座から『複数の見知らぬ口座』へと送金されています」
ルチアは、その送金先の名前を、大聖堂に響き渡る声で読み上げた。
「送金先は、隣国のアルベール子爵。近衛騎士団の若手ホープであるレオン卿。そして、豪商の三男坊。……いずれも、夜会で浮き名を流す、若く見目麗しい男性ばかりですね」
「なっ……!?」
エドワードが弾かれたように顔を上げ、マリーを血走った目で睨みつけた。
「ま、マリー……? それは、一体なんの金だ……? なぜ、君が他の男どもに、王室の金を送っているのだ……!?」
「あ、違うの! これは、えっと、個人的な慈善事業で……!」
マリーが慌てて言い訳をしようとするが、ルチアの追及は止まらない。
「慈善事業? 王宮の予算を使い込み、他の若い男たちにご機嫌取りの貢物を贈り、逢瀬を重ねていたことがですか?」
ルチアは、かつて闇ギルドから買い取っていた「マリーの素行調査記録(証拠)」の束を、バサァッ!と容赦なく二人の足元に投げ捨てた。
そこには、マリーが他の男たちと高級宿屋で密会している証拠や、高価な貢物の領収書が克明に記されていた。
「マリー様。あなたはエドワード殿下という『本命』が沈んだ時のために、王室の金を使って他の男たちに『分散』をしていた。……違いますか?」
「ひっ……!」
言い逃れのできない証拠を突きつけられ、マリーはその場にへたり込んだ。
「き、貴様ぁぁぁっ!! マリー! 私の金で……私がルチアを捨ててまで君を選んだというのに、他の男と……っ!!」
「触らないでよ、借金まみれの無能男!! あなたみたいなすぐ騙されるバカ、最初から財布くらいにしか思ってなかったわよ!!」
エドワードが怒り狂ってマリーの首を絞めようとし、マリーもまたドレスを振り乱してエドワードの顔を引っ掻く。
神聖な大聖堂の祭壇の前で繰り広げられる、世界で最も醜く、最も滑稽な痴話喧嘩。
「……見苦しいな。おい、引き離せ」
ザイオンが冷たく顎でしゃくると、いつの間にか大聖堂に潜入していたガロアたち黒猫ギルドの面々が飛び出し、二人を乱暴に引き剥がして床に押さえつけた。
「放せ! 私は王太子だぞ!! 貴様ら、国家反逆罪で八つ裂きに……っ!」
「……まだ自分が王太子だと思っているのか? エドワード」
大聖堂の奥から、重く、悲痛な声が響いた。
その声を聞いた瞬間、暴れていたエドワードの動きがピタリと止まる。
「ち、父上……?」
列席していた貴族たちが一斉に道を空け、深々と頭を下げる。
そこに立っていたのは、長年の心労で床に臥せっていたはずの、エルディス国王であった。
「……すべて、ルチア嬢とヴァルディス連邦の皇子殿下から事前に報告を受けていた。……お前が国庫を空にし、領地を担保に入れ、あまつさえスラムの孤児たちを人質に取るという、王族としてあるまじき外道に堕ちたことも、な」
国王は、信じられないものを見るような目で、愚かな実の息子を見下ろした。
「エドワード。……お前にはもはや、人の上に立つ資格はない」
「ち、父上! お待ちください! 私はただ、国を思って……!」
「黙れ!!」
国王の一喝が、大聖堂の空気を震わせた。
「これより、エドワードの王位継承権を永久に剥奪する! さらに、王族の身分も剥奪し、ただの平民とする! ……そこの男爵令嬢も同罪だ。直ちに二人を地下牢へ連行せよ!!」
「そ、そんな……! 嫌だ、嫌だぁっ!! 私は王妃になるのよ! 離してぇぇっ!!」
「ルチア! ルチア、私が悪かった! やはり私には君が必要だったんだ! 頼む、借金を帳消しにして、私を助けてくれぇぇっ!!」
マリーの絶叫と、エドワードの無様な命乞いが響き渡る。
しかし、ルチアは一切の感情を動かすことなく、ただ冷たい目で見下ろすだけだった。
「お断りします。私は有能な財務顧問ですので、あなた方のような『回収見込みのない不良債権』に投資するような三流の真似は、絶対にいたしません」
完璧な論理による、完全なる拒絶。
二人は近衛兵とギルドの男たちに両腕を掴まれ、神聖な大聖堂から、泥まみれの床を這いずるようにして引きずり出されていった。
彼らが思い描いていた「栄光の結婚式」は、寸分の狂いもなく計算された「絶望の公開処刑」として、完璧な幕引きを迎えたのである。
「……さて。これでゴミの清掃は終わったな」
ザイオンが、満足げに喉の奥で笑った。
「国王陛下。事前の約束通り、エドワードの個人的な負債については、王室に請求しないということで手を打ちましょう」
ザイオンが国王に向かって鷹揚に頷く。
「……かたじけない、第一皇子殿下。我が愚息が、多大なるご迷惑をおかけした……。奪われた領地については、我が国の不徳の致すところ。連邦の好きになされるがよい」
国王は深く頭を下げ、老いた背中を丸めて去っていった。
それを見た列席の貴族たちも、連邦の第一皇子(新しい支配者)の機嫌を損ねまいと、我先にと大聖堂から逃げ出していく。
数分後。
色鮮やかな白薔薇で飾られた大聖堂には、ルチアとザイオンの二人だけが残された。
「……終わりましたね。私たちの、エルディス王国の『買収劇』が」
ルチアは大きく息を吐き出し、パタン、と分厚い帳簿を閉じた。
「ああ。国を傾けたバカどもは地獄に落ち、エルディス王国の基幹産業は合法的に連邦のものになった。……完璧な投資と回収だったぜ、ルチア」
ザイオンは、ルチアの腰を引き寄せ、ステンドグラスの光の下で彼女の額に優しく口付けを落とした。
「だが、まだ一つだけ『未回収の利益』が残ってる」
「……え? まだ何か、帳簿に書き漏らしが?」
ルチアが不思議そうに首を傾げる。
ザイオンは琥珀色の瞳を熱く揺らし、ルチアの耳元で甘く囁いた。
「この空っぽの結婚式場じゃ、俺の最高の妻のお披露目にはふさわしくねえ。……連邦本国に帰って、世界中がひれ伏すような『本物の結婚式』を挙げるぞ、ルチア」
最強のビジネスパートナーが、本当の意味で「最強の夫婦」となるための、次なる舞台へ。
二人の顔に、これまでで一番美しく、幸福な笑みが浮かんでいた。




