第32話 絶望のバージンロード
大聖堂を包んでいた歓喜の空気は、たった数秒で「理解不能なパニック」へと変貌した。
開け放たれた重厚な扉から、純白のバージンロードをゆっくりと歩いてくる二人の影。
連邦の皇族のみが纏うことを許される、金糸の刺繍が施された漆黒の三つ揃えを着こなす長身の男。
そしてその腕にそっと手を添え、極上のミッドナイトブルーのドレスで優雅に歩調を合わせる、銀縁眼鏡の令嬢。
「な……ぜ、お前たちがここにいる……?」
祭壇の前に立つエドワード王太子は、引きつった顔で後ずさりをした。
エルディス王室の領地を合法的に奪い取った、下級商人のザック。
そして、王室の金を横領した(とエドワードが勝手に思い込んでいる)大罪人であり、追放したはずの元婚約者、ルチア。
「近衛兵!! 何をしている、その薄汚い国賊どもを今すぐ捕らえろ! 第一皇子殿下がご到着される神聖な式典だぞ!!」
エドワードが裏返った声で絶叫する。
だが、大聖堂の警備に当たっていた近衛兵たちは、誰一人として動くことができなかった。
無理もない。ザック——いや、ザイオンから放たれる「絶対的な覇気」が、空間そのものを制圧していたからだ。
彼が一歩足を踏み出すごとに、大聖堂に集まった数百人の貴族たちは、まるでモーゼの海割れのように左右へと道を空け、恐怖と畏敬の念に打たれて平伏しそうになっていた。
「どうした、エドワード殿下。ずいぶんと歓迎されていないようだな」
ザイオンは、エドワードとマリーの数メートル前で立ち止まり、冷ややかな琥珀色の瞳で見下ろした。
「ふざけるな! 貴様らのような下賎な輩が、どうやってこの大聖堂に入り込んだ! 第一皇子殿下はどうされたのだ!」
エドワードは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
その隣で、男爵令嬢マリーもまた、ルチアの姿を見て憎々しげに顔を歪めた。
「そうよ! ルチア、あなた自分が指名手配犯だって分かってるの!? 孤児院に隠した財産を没収されそうになったからって、こんな成り上がり商人に取り入って式を妨害しに来るなんて……本当に見苦しいわね!」
「見苦しいのは、あなた方のその『虚飾』ですわ、マリー様」
ルチアは全く動じることなく、扇をパチンと閉じ、極寒の笑みを浮かべた。
「国庫は空、王室の領地はすでに差し押さえられ、外では民衆が飢えて暴動を起こしている。……それなのに、残されたなけなしの資産、あるいは新たな借金を注ぎ込んで、これほど無駄な式典を開くとは。投資家として、あまりの頭の悪さに眩暈がいたします」
「黙れ、この横領犯が!!」
痛いところを突かれたエドワードが、青筋を立てて怒鳴る。
「貴様らが何を言おうと無駄だ! この式典には、世界最大の超大国であるヴァルディス連邦の『第一皇子殿下』が、莫大な経済援助を持ってこられるのだ! 皇子殿下さえ後ろ盾になれば、貴様らのような下級商人に奪われた領地など、一瞬で取り戻して……」
「——ああ、そのことなんだがな」
ザイオンが、面倒くさそうにエドワードの言葉を遮った。
そして、漆黒のスーツの内ポケットから、一枚の『見覚えのある羊皮紙』を取り出し、ヒラヒラと見せつけるように振った。
「これ、お前が数日前に連邦本国に送ってきた親書だろ?」
「……は?」
エドワードの動きが、ピタリと止まった。
『どうか我が国にご援助を! ザックという悪徳商人を追い払ってくだされば、連邦に絶対の忠誠を誓います』
ザイオンは、手紙の内容をまるで滑稽な喜劇の台本でも読むように、大声で読み上げた。
「……な、なぜ、貴様がそれを持っている……!? それは、私が連邦の新たなトップに宛てて、極秘に送ったはずの……っ!!」
エドワードの顔面から、一瞬にして血の気が引いていく。
「なぜって? そりゃあ……『宛先が俺だった』からに決まってるだろ」
ザイオンはフッと鼻で笑い、その手紙を無造作に床に捨てた。
「な……何を、馬鹿なことを……」
ザイオンはゆっくりと右手を上げ、自らの胸元……漆黒のスーツに刺繍された、連邦皇族の証である『金糸の双頭竜の紋章』に触れた。
「エルディス王国のバカ王子。そして、そこにいる貴族ども。よく聞け」
ザイオンの声は、もはやスラムの胡散臭い商人「ザック」のものではなかった。
それは、世界中の経済と武力をたった一つで握りつぶすことができる、本物の『支配者』の重低音だった。
「俺の名はザイオン・ル・ヴァルディス。……ヴァルディス通商連邦・第一皇子にして、次期議長だ」
シーン……。
大聖堂の空気が、完全に凍りついた。
時計の針が止まったかのような、絶対的な静寂。
「だ……第一、皇子……?」
エドワードは、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! 貴様は下級商人のザックだろうが! それが、なぜ連邦の次期トップだなどと……っ!」
「俺が連邦の腐敗貴族を探るために、死んだふりをしてこの国のスラムに潜伏していたからだ。……あの闇オークションで言ったはずだぜ? 『俺はいつか、この仮面を外した素顔で表舞台を歩く』ってな」
ザイオンの言葉が、エドワードの脳天をハンマーで殴りつけるように響く。
「ちなみに、資金洗浄を手伝っていた悪徳商会を潰し、俺の『極秘任務』を完璧にサポートしてくれたのは、ここにいる俺の有能な財務顧問……ルチアだ」
ザイオンがルチアの肩を抱き寄せると、ルチアもまた、静かに一礼した。
「つまり、お前は……」
ザイオンは、琥珀色の瞳を三日月のように細め、この世で最も残酷な事実を突きつけた。
「自分が一番見下していた『下級商人』の正体が連邦の皇子だとも知らずに、領地を合法的に巻き上げられ……あまつさえ、その『自分を破滅させた相手』に向かって、『助けてください』と泣きつきの手紙を送ってきた、世界一の道化ってことだ」
「あ……ああ……っ」
エドワードの膝から力が抜け、純白のバージンロードにガクンと崩れ落ちた。
脳髄が沸騰しそうなほどの絶望と、羞恥。
自分は、最初から最後まで、この男の掌の上で滑稽に踊らされていたのだ。
「連邦の皇子様が助けに来てくれる」という、この式典の唯一の希望が……他でもない、自分を借金地獄に叩き落とした張本人だったのだから。
「そ、そんな……! 嘘よ、嘘よ!!」
隣にいたマリーが、金切り声を上げて後ずさった。
「じゃあ、お金は!? 連邦からの莫大な経済援助は!? 手紙に『莫大な経済援助を発表する用意がある』って書いてあったじゃない!!」
「ああ、その手紙を書いたのは私ですわ」
ルチアが、銀縁眼鏡を押し上げながら、一歩前へと進み出た。
「当然でしょう? そうでも書かなければ、泥船から逃げ出そうとしていたあなたたちネズミを、この処刑台に引き戻すことはできなかったのですから」
「しょ、処刑台……!?」
マリーの顔が、恐怖でひきつる。
「ご安心ください、命まで奪うような野蛮な真似はいたしません」
ルチアは、自らの手元にある分厚い帳簿——エルディス王室のすべての負債と不正の記録が記された『閻魔帳』を開いた。
「私たちは本日、この結婚式を祝福しに来たわけではありません。……エルディス王国のすべての『資産』を、負債のカタとして正式に差し押さえるため。そして、あなた方の罪を、精算するためにやって来たのです」
ルチアの、一切の感情を排した氷のような宣告。
列席している貴族たちが、恐怖のあまり次々と後ずさる。
「さあ、エドワード殿下、マリー様。……公開処刑のお時間です」
最強の権力を持つ皇子と、完璧な計算式を持つ悪女。
退路を完全に断たれたバージンロードの上で、かつて彼らを陥れた者たちへの、情け容赦のない「最終監査」が始まろうとしていた。




