第43話 墓場まで持っていけなかった罪と
「ふざけるな……!ふざけるなァッ!!」
沈黙を破ったのは、絶望の底に突き落とされた匠の絶叫だった。
長年被り続けた『エリート紳士』の仮面をかなぐり捨てた匠は、血走った目で隣に跪く二人を睨みつけた。
「お前らのせいだ!お前らが余計なことをしなければ、僕はあのペンダントを手に入れて二十億を……すべてを思い通りにできたんだ!」
匠は手錠をかけられようとする腕を振り乱し、もみじへと飛びかかろうとした。
「触らないでよ、この能無し!」
もみじは夜叉のような形相で匠を怒鳴りつけた。
「偉そうに御曹司ぶって、無能経営者のくせに!あんたなんて最初から、私のマネーロンダリングのためのただの金づるだったのよ!同棲なんて吐き気がしたわ!」
「なんだと……この薄汚い女が!」
「あんたもよ、成樹!」
もみじの矛先は、実の弟へも向けられた。
「姉を利用するだけ利用して!あんたのせいで私の人生は滅茶苦茶よ!」
「はっ、笑わせんな!」
成樹は刑事に取り押さえられながら、自暴自棄な嘲笑を浮かべた。
「姉貴こそ、俺を警察の防波堤として使おうとしてたくせに!たった一人の家族?ヘドが出るぜ!」
そして周囲を囲む警察官たちを見回し、成樹はギリッと奥歯を噛み締めた。
「くそっ……俺の幹部ポストが……俺の権力が……!」
「お前らみたいな底辺のクズに関わったのが間違いだった!」
「黙れ、この強欲男!」
互いに「愛していた」「君を守る」「たった一人の家族」と囁き合っていた言葉のすべてが、自らの罪を隠し、相手を利用するための醜い嘘だったと思い知らされる三人。
偽りの関係は完膚なきまでに崩壊し、彼らは泥まみれの犬のように醜く罵り合い、責任を擦り付け合う。
「連行しろ。その前に、所持品検査を」
佐久本管理官の指示を受け、刑事たちが三人の身体検査を始めた。
澪は無言のまま匠に近づくと、彼の高級スーツの内ポケットへ迷いなく手を入れた。
「や、やめろ……!触るな!」
抵抗しようとする匠を他の刑事が押さえつける中、澪の指先が銀色の小さな金属を引きずり出した。
二十億円の暗号資産が眠る、あのUSBメモリだ。
「これは……」
澪がそれを掲げて見せると、匠はヒッと喉を鳴らして顔を歪めた。
「管理官。これが、彼が実家の遺産を独り占めするために私を殺そうとした、動機を裏付ける物証です。暗号資産のコールドウォレットが入ったUSBメモリかと」
「なるほど。重要な証拠だ、すぐに保管袋へ」
澪は佐久本から渡された透明な証拠品袋に、チャックを開けてUSBメモリをポロリと落とし入れた。
匠は血走った目でそれを見つめながら、「あ、ああ……僕の……僕の金が……!」と絶望の呻き声を漏らした。
もはや一切の抵抗を諦めた三人は、見苦しい姿のまま刑事たちによって冷たい手錠をかけられ、パトカーへと押し込まれていった。
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赤色灯が暗い埠頭を毒々しく照らす中、別々のパトカーに乗せられた三人は、それぞれに「失ったものの重さ」に直面し、孤独な暗闇へと落ちていった。
後部座席でうなだれる匠の脳裏には、明日にも破滅する自身の会社の姿が浮かんでいた。相続欠格により二十億円は永遠に手に入らず、誇り高き湯我原家の本邸も、自らの名声もすべて失う。残るのは莫大な借金と、殺人教唆の罪だけだ。
「僕の……僕の遺産が……」
強欲の果てに行き着いたのは、何もかもを失った完全な無だった。
別の車両では、もみじが手錠をかけられた両手を見つめ、声もなく涙を流していた。
それは同情を引くための嘘の涙ではない。幼い頃から泥水をすすり、他者を蹴落としてようやく築き上げた「優雅なセレブ生活」と「自由」が、音を立てて崩れ去った絶望の涙だ。結局自分は、またあの冷たく惨めな地獄の底へ逆戻りするのだと思い知らされた。
そして成樹は、窓の外を流れる青海野の夜景を虚ろな目で見つめていた。
正義を捨て、実の姉を利用し、最高の相棒だった澪の命すら売り飛ばして手に入れようとした、裏社会の権力。だが、そのすべては幻だった。己の薄情な野心が、結果として自分からすべての居場所を奪い去ったのだ。
三台のパトカーは、因果応報という名の重い十字架を背負った三人を乗せ、サイレンの音と共に闇の中へと消えていった。
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連行されていくパトカーの列を、澪は冷たい海風に髪を揺らされながら、ただ静かに見送っていた。
そこへ、背後からゆっくりとした足音が近づいてくる。
「終わったな、湯我原くん」
佐久本管理官だった。彼は厳格な顔つきを少しだけ和らげ、澪の目の前に黒い手帳を差し出した。
「受け取りたまえ。君の警察手帳だ」
「……ありがとうございます、管理官」
手帳を受け取ることで、澪は公式に「死者」から「警察官」へと戻った。
佐久本は、夜の闇に消えたパトカーの方向を見つめながら、深く息を吐いた。
「よくやってくれた。君の命懸けの潜入捜査のおかげで、県警内部の腐敗分子も、エクリプス・シンジケートも完全に一掃できた」
そして、佐久本は労うように澪の肩を一瞥し、温かい声をかけた。
「ご病気で亡くなった君のお父さんの死も……これでようやく、無念が晴れただろう」
その言葉を聞いた瞬間、澪の顔から張り詰めた冷徹さがスッと消え去った。
代わりに浮かび上がったのは、悲しみを乗り越えた「完璧な警察官」、そして「父を想う心優しい娘」の、どこまでも澄み切った美しい微笑みだった。
「ええ、そうですね。……管理官のお力添えのおかげです」
佐久本は満足そうに頷くと、「後処理がある、先に戻るぞ」と言い残し、部下たちの元へと歩み去っていった。
佐久本の背中が完全に見えなくなった途端。
澪の顔から、人間らしい微笑みが氷が溶け落ちるように消え失せ、再び絶対零度の無表情へと戻った。
「墓場まで持っていける罪なんて、一つもないのよ」
独り言のように呟いた澪の言葉が、冷たい夜気の中に溶けていく。
匠も、もみじも、成樹も、自分の罪を隠し通せると思い上がり、そして自滅した。
澪は手帳をポケットにしまうと、今度は反対のポケットから「銀色の小さな金属」を取り出し、月の光にかざした。
それは先ほど、匠のポケットから押収したはずのUSBメモリだった。
匠を身体検査したあの混乱の最中、澪は証拠品袋に精巧なダミーのUSBメモリを落とし入れ、本物は鮮やかな手つきで自らのポケットへと忍ばせていたのだ。
澪はペンダントとUSBメモリを優しく撫でながら、誰にも聞こえない、夜の海だけが知る声で小さく呟いた。
「私以外は」
どこまでも深く透き通った瞳の奥には、警察官としての正義すらも凌駕する、底知れぬ狂気と完全犯罪の闇が深く静まり返っていた。
「これで誰も、お父さんの病死を疑わずに済むわ」
第1章 完
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