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第五話「勇者は人だった」

 魔王というものは、思ったより喋る。


 レンは外で待ちながら、そんなことを考えていた。城の最上階から、時折くぐもった声のようなものが響いてくる。何を言っているのかはわからない。ただ、長い。


 夜明けの突入から、二時間が経っていた。


 城の窓から光が漏れた。青白い魔法の光、橙色の爆発、一度だけ城全体が地響きを立てた。レンはそのたびに立ち上がり、座り直し、記録帳を開き、何も書けずに閉じた。


 見えていないから、書けない。


 レンは岩に背中を預け、膝を抱えた。自分にできることは待つことだけだった。それはわかっていた。わかっていても、手持ち無沙汰な両手が落ち着かない。


 記録帳を開いた。


 一話から書き続けてきた記録が、そこにある。


 第八十一日、街の踊り子に誘われて挙動不審になる。


 第九十三日、靴下が窓枠に引っかかっていた。食べかけの干し肉、紙だけが几帳面に畳まれていた。


 第九十四日、道を間違えた。魔物を二分で片付けた。五秒で寝た。


 第九十九日、羊は道端にいた。犬が伏せをした。第百十二日、演説の後、焚き火の前で頭が三回傾いた。


 全部、ここにある。


 残念な勇者の、一年分の記録。


 レンは少し笑った。怖いのは変わらなかったが、少しだけ息ができた。


 城がまた揺れた。


 今度は大きかった。岩陰から身を乗り出すと、最上階の窓から黒い煙が上がっていた。それから、静寂が来た。


 今までとは違う静寂だった。


 レンは立ち上がった。座り直せなかった。


 扉が開いたのは、それから一時間後だった。


 最初に出てきたのは盗賊だった。左腕に布を巻いている。次に僧侶が出てきた。杖に体重を預けていたが、顔色は悪くなかった。魔法使いが続いた。外套の裾が焦げていた。三人とも、立っていた。


 レンは駆け寄った。


「みなさん、怪我は——」


「大丈夫」


 盗賊が言った。いつもより声が低かったが、口の端が上がっていた。


「終わったよ」


 終わった。


 その言葉がうまく頭に入らなかった。レンは僧侶を見た。僧侶は静かに頷いた。魔法使いは空を見上げていた。その目が、少し潤んでいるように見えた。


「勇者様は」


「すぐ来る」


 僧侶が言った。


「最後の確認をしている」


 最後の確認。レンは頷いた。そういう人だ、と思った。全部終わっても、きちんと確認をする。そういう人だ。


 アルドが出てきたのは、それからさらに十分後だった。


 外套に焦げ跡があり、額に細い傷があり、右手の手甲が半分砕けていた。それでも背筋はまっすぐで、歩みは乱れていなかった。


 レンは何か言おうとした。言葉が出なかった。


 アルドはレンの前まで来て、立ち止まった。その目は静かだった。いつもと同じだった。戦いの前も後も、この目は変わらない。一年間、ずっとこの目を見てきた。


「終わった」


「はい」


「怪我はないか」


「俺は外にいたので」


「そうか」


 短い沈黙があった。


 レンは記録帳を取り出した。書くべきことがたくさんある。突入の時刻、戦闘の時間、全員無事、魔王討伐。一年間の旅の、最後の記録。


 ペンを構えて、レンは顔を上げた。


「勇者様、最後に一つ聞いていいですか」


「何か」


「魔王と戦っているとき、何を考えていましたか」


 アルドは少し間を置いた。

 いつもの間だった。何かを考えているような、何も考えていないような、あの間。


「早く終わらせたかった」


「……魔王を、ですか」


「それもある」


 それも、という言葉が引っかかった。


「他には」


 アルドは空を見た。城の尖塔の向こうに、青空が広がっていた。一年間でいちばん、澄んだ青だった。


「眠かった。ずっと、我慢していた。実家のベッドで寝たかった」


 レンは固まった。


「昨夜あまり寝ていない。早く終わらせて、横になりたかったのもある」


 レンはしばらく、何も言えなかった。


 焚き火の前で頭が三回傾いていたことを思い出した。あの後ちゃんと寝ていなかったのか。それとも、いつもそうなのか。


 靴下を窓枠に引っかけて、地図を折り直させて、羊を道端で見ておきながら丘まで歩いて、断るより聞く方が楽だと言って、眠いから魔王を倒した。


 そういう人が、世界を救った。


 盗賊が噴き出した。

 堪えようとして、堪えきれなかった。左腕の傷が痛むのか顔を歪めながら、それでも笑った。


「なにそれ!魔王倒した理由が眠いから?!」


「別にいいじゃないか……?」


「最高じゃん!一生言いふらすから!」


 僧侶が深い息を吐いた。呆れているのか安堵しているのか、その両方のような顔だった。魔法使いは笑っていなかったが、口元が緩んでいた。


 アルドは少し目を逸らした。


 その耳が、かすかに赤かった。


 帰路につく前に、少しだけ休憩を取ることになった。


 岩陰に腰を下ろした五人は、しばらく誰も喋らなかった。喋る必要がなかった。風が吹いて、枯れた大地の土が舞った。それでも空だけは青かった。


 五分も経たないうちに、アルドが目を閉じた。


 十秒後、寝息が聞こえた。


 盗賊がまた笑いを堪えた。僧侶が無言で毛布をアルドの肩にかけた。魔法使いは何も言わずに地図を広げた。


 レンはペンを取った。


 記録帳の最後のページを開いた。


 第百十三日。魔王討伐、完了。全員無事。突入より三時間。勇者様、眠かったので終わらせたとのこと。討伐後十秒で就寝。


 書いてから、レンはしばらくその文字を見た。


 靴下から始まって、魔王討伐で終わる記録。全部で百十三日分。読み返せば残念な話ばかりだ。道を間違えて、食べかけを放置して、羊を道端で見送って、焚き火の前で居眠りをして、眠いから世界を救った。


 それが全部、本当のことだった。


 そしてそれと同じくらい本当のことが、もう一つある。


 この人は一度も、仲間を置いていかなかった。


 全員で帰ると言って、全員で帰ってきた。どんなに残念でも、それだけは一度もぶれなかった。


 レンはペンを走らせた。


 補記。残念な点については、一年分の記録を参照のこと。それ以外については、言葉がない。


 書いてから、少し照れくさかった。


 でも消さなかった。




 アルドが目を覚ましたのは、一時間後だった。


 目を開けて、空を見て、立ち上がった。その動作に迷いはなく、背筋はまっすぐだった。


「行くぞ!」


 それだけ言った。


 四人は立ち上がった。


 レンは荷物を持って、いつもの三歩後ろについた。


 先頭を歩くアルドの背中は、一年前と変わらず頼もしかった。


 変わったのはレンの方だった。あの背中が完璧だから頼もしいのではなく、残念なところを全部知った上で頼もしい。その違いが、今のレンにはわかった。


 青空の下を、五人で、家に向かって歩いた。


 レンは記録帳を閉じた。


 続きは、帰ってから書こうと思った。


「そうだな、書き出しは――」


 ――勇者は人だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました!

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