姫子転校編(6)
「風華、アンタ……」
姫子と待ち合わせをした公園に風華を連れて行くと、ベンチに座っていた姫子はその姿を見て腰を上げた。
「よ……」
風華はぎこちなく手を上げ敬礼のポーズを取っていた。
「凛銅君に姫子がヤバいって言われて来たわ」
「そ、そう……」
「言ってくれれば良かったのに」
「そ、それは……」
言われた姫子は風華から目をそらした。
「あ、アンタには、その、言いづらかったのよ……。アンタとは、色々、あるじゃない」
姫子がちらりと一瞬こちらを見た。
「あるね」
「だからよ。アンタも分かるでしょ」
「まぁ、分かるわ……」
消え入るような声で言う姫子に風華が同意すると二人の間に沈黙が生まれた。
「実は私も、姫子の調子がおかしいこと知ってた」
しばらくすると風華はポツリと打ち明けた。
その言葉に詰まる様子は、罪を告白するかのようだった。
「で、でしょうね。アンタなら……」
「でも、姫子なら自分で解決すると思ったし、本当に大変なら私に相談してくるだろうと思って、敢えて放っておいた」
「………………」
「だから、私も悪かったわ。すぐに来れば良かったね」
「い、いやこれは私の問題だし、アンタが気にすることじゃ」
「だけど、放っておいたのは事実。姫子が私に相談しづらい。そういうことで悩んでいる。そんなこと、見ていれば分かったはずなのにね」
「だからそんなこと……」
「ま、だから頑張るわよ姫子。絶対に転校なんてさせないわ」
「そう……」
「うん、任せて」
禊が済んだのか、硬い表情で胸に手を抱く姫子に、風華は力強く頷いた。
◆◆◆
というわけで夜の七時過ぎ、朗太は風華を引き連れて姫子邸にいるのだが
「あなたはいつか来るとは思っていました。白染さん」
「お久しぶりです。妃恵さん」
風華は既に妃恵と面識があるようだった。
「私の親友の姫子が転校させられそうになっていると聞いてきました」
「…………」
「止める気は、無いんですね」
「えぇ……、当然でしょ。これは私たち家族の問題なのだから」
妃恵は眼鏡をカチャリと掛けなおしながら決然と言い返していた。
両者が真正面からにらみ合う。
二人の間でその場の空気がびりびりと震動するかのような緊張感が生まれていた。
その一触即発の雰囲気に朗太と姫子が生唾を飲み込んでいると、「でも、姫子は嫌がっています」すぐに火ぶたは切られた。
「ですがこれが姫子のためです」
「姫子のため? 姫子が嫌がっていて、姫子の理解も得られていないことは姫子のためにはならないんじゃないですか?」
「それは見識の狭い子供の世界のことわりよ。大人の世界では当人が嫌がっていても長期スパンで見ると好転しているケースが沢山あるわ」
「何知ったようなこと言っているんですか? それで皆が納得しているわけではないですよね?」
「多くの人が納得しているわ」
「ということはやっぱり少なくない人が後悔しているってことじゃないですか?」
風華の口ごたえに、妃恵の風華を睨む視線がより鋭くなった。
「……何が言いたいのかしらあなたは?」
「今回のケースがまさにそういうケースなんじゃないかって言いたいんですよ」
風華は気圧されもせずきっぱりと言い放った。
「……それは無いわね」
だが妃恵はそんな風華を歯牙にもかけなかった。
「なぜですか?」
「なぜなら私が姫子の母だからです。あなたよりも姫子のことは分かっています。姫子はきっと今回の選択を感謝するようになるわ」
「姫子の話を欠片も聞いてあげていないのに?」
「こうして聞いているでしょう。わざわざ仕事終わりに時間を作ってね」
「でも頭ごなしに否定してばかりだそうじゃないですか。そんなもの、聞いているうちに入りませんよ。大人の世界では、もしかすると『聞いている』ことになるのかもしれませんが、私は好きじゃないですね」
「……」
「それと妃恵さんは誰よりも姫子と長い時間を過ごしたと言いますが、なら私は誰よりも姫子と濃密な時間を過ごしてきました。それに今横にいる凛銅君も同じです」
急に話を振られて朗太が息を飲む。
視線のきつくなった妃恵の視線が朗太に食い込んだ。
「凛銅君は姫子と一緒に活動をしています。そんな彼だって姫子を擁護する側に回っています。この意味が分かりますか?」
「どういう意味があるのかしら」
「姫子の周囲で姫子の転校を願っているのはあなただけだってことです」
「何ですって……ッ?」
間違いなく今の一言で妃恵のこめかみに青筋がたった。
「今のところ、姫子の転校はあなたの独りよがりだって言っているんですよッ」
追い打ちのように風華が言い放つと妃恵の顔は目に見えて白くなった。
「あなた……、自分が何を言っているか分かっているの……ッ?」
「妃恵さんこそ、自分が何をしているか分かっているんですか?」
売り言葉に買い言葉で返す。
妃恵も風華も柳眉を逆立ていた。
「白染さん、あなた一体どういう教育を受けてきたの?」
「普通の教育ですよ。親友は助けるっていう当り前な。そして最終的に姫子と同じ高校にいくような教育ですね」
そこで二人はお互いに黙り込む。
だがただ黙ったのではなく、二人の間では火花が散るのが見えるようだった。
しかし最初に剣を収めたのは妃恵だった。
妃恵は「ハァ……」とあからさまにため息を吐いた後、肩を落としたのだ。
「……。まぁ、良いでしょう。話は分かりました。今日は、帰りなさい、白染さんに凛銅君」
しかし風華は引き下がらない。
「嫌です。帰りません」
「帰りなさい……ッ!」
怖いもの知らずで拒絶すると、その時ようやく妃恵の言葉がわずかに震えた。
それは妃恵が平静を装える限界に達しようとしていることが如実に分かるもので、色々と察するものがあったのか風華は頷いた。
「…………分かりました」
「良かったわ……。とにかくタクシー、呼ぶわね」
「結構です。私たち、歩いて帰るんで。凛銅君、行くよ」
「え? はい?」
風華は展開についていけていない朗太の腕を掴むと姫子に「じゃ」と一言声をかけると去って行った。
そして風華は長いエレベーターを降り夜道に出ると
「まずったね」
と硬い表情で後悔していた。
「まずったって?」
「頭に血が上って言い過ぎたわ。相手を怒らせても何もメリット無いのにね」
「それにしたって最後は潔く出てきたな。もっと言い合ってもおかしくなかったのに」
「凛銅君も分かったでしょ? お互いに怒り心頭で、あれ以上言い合ったら取り返しつかないところまで話すってどっちも分かったからよ。まずいわ。凛銅君、姫子の転校届出す予定日っていつなの?」
「今から一週間後だな」
先日姫子から聞いた日付を思い出し答える。
タイムリミットが迫っているから朗太も焦っているのだ。
「そっか。なら時間ないね」
「どうする?」
「また会いに行くわ。会って話すしかないじゃない」
それから何度も、風華は妃恵に会いに行った。
それは朗太とやっていることは変わらない。
しかし朗太との違いは朗太が遠慮しつっこまなかったところまで容赦なく切り込むところであろう。
「妃恵さん、あなた本当に話聞いているんですか?」
そんなことも普通に言っていた。
おかげで妃恵の怒りが溜まるのは非常に早く
「出ていきなさい!」と激高しながら言われたのは三日目のことだった。
またその頃には妃恵も早く帰宅するのをやめていた。
朗太と風華は夜の十時近くに姫子の家を出た。
「で、どうする? 来るなって言われたけど」
「でも行くしかないでしょ。ここで諦めたら終わりよ」
次に風華がしたことは
「あなたは……?」
「あ、藍坂穂香です」
「姫子との関係は」
「あ、茜谷さんの活動で、結果的に私は部活に復帰することが出来ました……! 茜谷さんのおかげで私はまたバスケを始められたんです!」
これまで姫子に助けられた人をさらに助っ人に呼び出しすことだった。
また風華はそれだけに留まらず、誰も来られない日は手を変えた。
「何ですかこれは」
某日、風華から大量の厚い紙の束を受け取り妃恵は目を丸くした。
「メッセージカードです」
「メッセージカード?」
「はい、これまで姫子に救われた人からのメッセージカードです。ぜひ読んでください」
纏などに手伝ってもらい姫子に過去に助けられた人に誰から構わず声をかけメッセージカードを書いてもらったのだ。
纏を呼び出した際、風華と纏の間で火花が散った気もする。
しかし
「姫子さんのことなら、仕方ないです……」
と纏はしぶしぶ風華の依頼を受けていた。
だがこれでも
「ダメ、か……」
朗太は一人息を吐いた。
妃恵の意思は変わらず、時は着々と過ぎていて、時は既に約束の日前日となっていた。
姫子の転校問題はまだ解決の糸口は見えていない。
「……………………」
教室で姫子は顔を伏せふさぎ込んでいて、朗太もまた意気消沈していた。
その頃になると風華がメッセージカードを求めて歩き回った結果、姫子の転校話は有名になっていて多くの生徒が落ち込む姫子を見てヒソヒソと話し込んでいた。
またその日の放課後、姫子は
「じゃ、とにかく私は最期の戦いを挑んでみるわ……」
と沈痛な面持ちで妃恵の再度説得することを決意し去って行ったが、これまでの傾向からして望みは薄いだろう。
残された風華と纏は
「どうするんですか風華さん、全然だめですよ?! 姫子さんも帰っちゃったし」
「こうなったら妃恵さんが学校に書類だすときに勝負を賭けるしかないでしょ!」
などと計画していたが、学園まで来てしまったらもうきっと終わりであろう。
そう判断した朗太は、懊悩した末一つの計画を実行に移すことを決意したのだった。
しかし、それは計画と呼ぶにはちっぽけなもので――
◆◆◆
次の日の朝のことだ。
朗太は姫子の住むタワーマンションの前までやってきていた。
曇り空の下、マンションからコートを羽織った社会人や品の良い制服をきた学生が出てくる。
計画を実行しに来たのだ。
学校に行く前に、妃恵が風華と火花を散らす前に、ここで終わらせる算段である。
待っているとすぐに妃恵は現れた。
「、き、妃恵さん……!」
「凛銅君、あなた」
トレンチコートを着てばっちりメイクをした妃恵は玄関に見知った顔がいて目を見開いた。
通行人の多くが妙齢の女性を出待ちしていた高校生という絵面に気を取られていた。
多くの視線が集まる。
それは恥ずかしいことだが、朗太はそれら感情を薙ぎ払った。
姫子を救う、そのためにはこのくらいの代償などあってないようなものだ。
だから朗太は前置きも何もかもをかなぐり捨てて――
「お願いします!!!! 姫子を転校させないでやってください!!!」
皆に見られる中、頭を下げ、思いっきり叫んだのだった。
朗太の計画、それはただただ相手に頼み込むことだった。
「え、なに……?」
「え? どういうこと?」
朗太の声は地鳴りのような声に、その直角と言っていいほど深く頭を下げた朗太の姿に、周囲にいた通行人は動揺していた。
しかし朗太は構わず頭を下げ続ける。
周囲が奇異の視線を向けていることなんて、構いはしなかった。
「姫子は僕らの親友です! 姫子がいないと寂しいです! だから姫子を転校させないでやってください!!」
なぜなら、大人に勝つことなど、子供には出来ないからだ。
「お願いします!!!」
子供は大人に意思を変えてもらうには、ただただ頼むしかないのだ。
そういう結論に至ったのだ。
だから朗太はただただ頭を下げ、お願いをしたのだった。
朗太が姫子の転校を阻止するために選んだ策、それはただのお願いだったのだ。
これしか方策がない。
これに失敗すると姫子が転校すると考えると、自然と声は涙っぽくなった。
「姫子と一緒に高校生活を過ごさせてください!!!」
朗太は叫ぶ。
「姫子と仲良くなってからの高校時代はこれまでの人生で一番楽しい時期でした!!!」
ただ一つ、姫子の転校が中止になる、その希望にかけて
「だから自分はまだまだ姫子と一緒に居たい!! アイツとこれからも一緒に下らないことを話したり、笑ったり、解決したりしたいです!!! だから」
朗太は腹の底から声を出した。
「姫子を転校させないでやってください!!!!」
言葉が途絶えると、辺りはシンと静まり返っていた。
朗太の話を聞いた通りや玄関にいた多くの者が妃恵の返答に耳を傾けていた。
当然、朗太もだ。
朗太もまた妃恵の下す最期の審判を待っていたのだが、
「面を上げなさい。凛銅君」
返ってきたのは――
「姫子を転校させるのは辞めにしたわ」
そんな、姫子の転校の中止を意味する言葉だった。
「え……?」
頼んではいたが、欠片も予期していない言葉だった。
目にうっすら涙を溜める朗太が顔を上げるとそこには諦観したような妃恵の顔があった。
「凛銅君、これから学校に行くのかしら」
「は、はい」
「じゃぁ途中まで道が同じね。少し歩きましょうか」
そうして朗太は妃恵に連れられ駅の方向へ歩き出したのだった。
◆◆◆
「昨日、あの子になきつかれたのよ」
駅へ向かう道を歩いていると、妃恵は朗太の方を見ずにふとそう言った。
「青陽にまだまだ居たいってね。まだまだ、したいことがあるってね。あんなにごねられたのは初めて。私が何を言っても、ずっと青陽に居たいって言い続けていたわ」
街路樹の植えられた茶色いタイルの敷かれた道は多くの人が行き交っていた。
「だからあの子は今もスヤスヤ寝ているわ。泣き疲れていたから」
昨日、姫子は妃恵の最後の戦いを挑みに行くと言っていた。
朗太は望み薄だと思っていたのだが、あれだけしおらしくなっていた姫子が、最後の最後で攻めたのだ。
言い負かされ気弱になっていた姫子が馬鹿力を見せたのだ。
その事実に、姫子の底力を見た気がした。
「それで……ですか」
「それが一番の原因ね。それにあなたたちがいたことも大きな意味があった」
妃恵は柔和な笑みでこちらを見る。
そうしながらバッグからパステルカラーの紙束を取り出した。
ラメの入ったシールや紐で封がされていたりと可愛らしい紙片である。
「こんなものまで見せられたら、変わらないわけにもいかないでしょう」
それは風華がかつて姫子に依頼した者たちに声をかけ用意したメッセージカードだった。「今日の朝も入っていたのよ?」とぼやく妃恵からも、風華は昨日も、メッセージカードを投函しに行っていたのだ。
つまり風華のとった行為は確実に成果を上げていたのだ。
妃恵はその厚い紙を慈しむように撫でていた。
「姫子のためにこんなものを書いてくれる人がいる。姫子のためにこんなものを用意しようとしてくれる友達がいる。姫子のために連日家にまで『やって来てくれる』人がいる。そして何より――姫子自身が居続けたいと思っている」
妃恵は顎を上げ前へ向き直った。
「そういう学校に行くのは姫子のためにも価値のあること、そう思いなおしたわ」
「そうですか……」
「ま、風華さんは言語道断だけどね」
「……」
風華は朗太の比ではないくらいズケズケと物を言っていた。
それは相当顰蹙を買ったようだ。
「ところで姫子とはいつごろから仲良くしてくれているの?」
「し、四月からです……。今年の」
それからしばらく朗太は妃恵と駅までの道中他愛のない会話をしていた。
「それと、進路の話も考え直しね」
そして横断歩道を渡ればすぐ駅の交差点で赤信号待ちをしていると、つきものが落ちたような顔で妃恵はそう言った。
「成績さえ維持させておけばあとは説得すれば良いと思っていたけどこれはカウンセラーから動かなそうだわ」
「でしょうね……」
「全く思い上がりも甚だしかったわね。親の気持ち子知らずともいうけど、はぁ、子の気持ちを分かっていない親もいたもんだわ。親失格ね」
「い、いや……」
「ありがとう否定しようとしてくれて。でも良いのよ言わせておけば。勝手に言って、勝手に反省しているだけだから」
信号が青に変わり交差点に人があふれ出す。
つかつかと妃恵は歩き出してしまった。
「それと、凛銅君。あなたの小説を書く趣味のことを無駄だなんていってごめんなさいね」
「あ、いや、良いです別に……。そこまで気にしていないので」
「だから良いのよ無理しなくて。それに言った通り別にあなたの才能を否定しているわけじゃないのよ。ただ、勿体ないかなと思って言っただけ」
「勿体ない……」
「そ。それもあの時言った通りよ。高校生っていうのは一般的に価値のある時期だから」
駅舎のエスカレーターで足を止め妃恵は恥ずかしそうにつんと頬を赤らめながら指を振る。
「受験とか、ホラ、恋愛とかね。だから――」
妃恵の慈愛に満ちた瞳が朗太を捕らえた。
「今はもう少し、他のことを大切にしても良いんじゃないかしら」
「……」
朗太が妃恵の言葉を黙って聞いていると妃恵は口元を抑えた。
「あらやだ、これじゃ結局私何も変わっていないわね」
妃恵は子供のように無邪気にタハハと笑っていた。
だが反省が終わると慈しむような視線を朗太に向け
「でも、今を大事にする、それがあなたの趣味にいい影響を与えることもきっとあると思うわよ。ま、どうするかはあなたの自由だけどね」
優しい笑みでそう言ったのだった。
「じゃ、これからも高校生活を楽しんでね凛銅君。――良い青春を」
そう言うと、妃恵は朗太とは違う改札へと去って行った。
「………………」
妃恵が立ち去る姿を朗太はただただ見送るしかなかった。
◆◆◆
朗太が学校へ行き姫子の転校が回避されたことを風華に告げると、風華は目を丸くして驚いていた。
その後纏にも告げに行くと纏は「そうですか。なら良かったです」とほっと胸をなでおろしていた。
そして4限終了後に遅ればせながら姫子が教室にやってくると教室は大騒ぎだった。
姫子が転校が回避された話を告げると、緑野や群青、水方や紫崎、柿渋などが代わる代わる抱き合いにいっていた。
やはり人望のある奴である。
その様子を瀬戸や津軽、周防などはじっと見ていた。
◆◆◆
「良かったな。転校が無くなって」
「うん……」
それから時は過ぎ、放課後。
朗太と姫子は真っ赤な夕日の差し込む教室に二人佇んでいた。
自分の机に直接腰を掛ける姫子はどこか感慨深そうに頷いていた。
「ママにうんと無理させちゃった」
「だな」
「親孝行、しないと」
「だな」
「それとアンタのおかげでもあるわ。ありがとね朗太」
「今回は白染の功績だろ? それと纏とかの助っ人。大変そうだったぞ? メッセージカード作るの」
教室の壁に背を預ける朗太は否定するが、姫子の想いは違うようで姫子は首を横に振った。
「ううん。違うわ、アンタのいた意味も大きかったのよ」
「なんで……?」
「アンタだから、頼めたからよ……」
姫子は真正面から見据えそう言った。
「え――」
その瞳が決意に満ちていて朗太は驚嘆した。
水面に光を照り返すように艶やかに輝くその瞳はどこまでも澄んでいた。
唇をきゅっと結んだ表情は、まるで自身の秘を明らかにする決意をしたようで――
「アンタだから、頼めた……!」
突如姫子が立ち上がりこちらへ向かって来て、朗太は息を飲んだ。
「アンタだから頼めた……! 風華や纏には、頼めなかった……! アンタが私の近くにいてくれたから……! アンタが私にとって大切で、心を開ける相手だったから、私は救われたのよ……! だから……!」
目の前には真っ赤に染まった姫子の顔があった。
そして姫子は驚いて身動きが取れない朗太の額にその唇を近づけ
「これは礼よ……。取っときなさい……」
――その額に自らの唇を重ねたのだった。
――――――――――――――――――――
(え――――――――)
あまりに想定外の事態に脳の処理が追い付いていない。
ただ分かるのはおでこから柔らかい不思議な感覚が伝わってくることだけ。
それはつまり、今まさに姫子の唇が自身の額に押し付けられていることで――
朗太が遅まきに起きたことの全容を理解したころには、姫子は朗太から離れていた。
目の前にはこれまで見たいつよりも顔を赤らめる姫子がいた。
「な……」
そして朗太が息も絶え絶えに何か言おうとした時だ、「じゃっ」と言うだけ言うと姫子は獣のように素早い動作で回れ右をし逃げるように教室から去って行ったのだ。
廊下を慌ただしく姫子が駆けていく足音だけが響いてきていた。
おかげで教室には狐につままれたような朗太だけが残され、朗太は考えてしまっていた。
相手の額に唇を重ねる。その『意味』を。
――その意味は――
その行為が持つ可能性に行きつくと、そのあまりに非常識な可能性に、朗太の心臓は破裂せんばかりに拍動していた。
次話投稿は10/28(日)か10/29(月)投稿予定です。
少し遅れるかもしれないです……
宜しくお願いします!