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お嬢様は恋煩い  作者: 霧原善光
3/28

第1-2話 篠崎琴葉

 

 

 ご主人様と奥様を乗せた車が角を曲がるまでお見送りしてから、お嬢様と私は屋敷の中に戻ります。

 すると、お嬢様は何も言わずに再びご自分の部屋に閉じこもってしまわれました。

 私はその姿を見届けてから、キッチンに赴いて夕食の準備を始めます。

 ご主人様と奥様をお見送りするために部屋から出てきてくださったことには安心しましたが、やはり先日のことがまだ尾を引いているようで、お嬢様は食事や入浴の時を除いてはずっとご自分の部屋に引きこもっておられますし、夜も以前は私と一緒にご就寝なされていたのですが、ここ数日は一人でお眠りになられてしまいます。

 なので私は、お嬢様が熟睡なされているタイミングを見計らって起こさないようにひっそり部屋に忍び込み、こっそりお嬢様成分を補充しなければならないのでした。

 

 お初お目にかかります、私の名前は篠崎琴葉と申します。

 年齢は二十三歳。血液型はA型。趣味は麻夕お嬢様のお世話をすること。

 職業は一応家政婦ということになるのでしょうか。

 一般の家政婦とは異なり、企業や組合等から派遣されているわけではなく、個人的に親戚のお宅の家事全般及び御息女の養育を任されております。その親戚というのが御影家であり、その御息女というのが麻夕お嬢様というわけでございます。

 さて、先日麻夕お嬢様が家出をなされてから今日で二日が経ちました。

 本日は麻夕お嬢様のお見合いが予定されていた日でございます。

 誤解無きよう一言断らせていただきますと、私はお嬢様のお見合いには反対でした。

 お嬢様はまだ中学三年生で、私の知る限り、いまだ男性とお付き合いをしたことはおろか、男性を好きになったことすらないのです。

 私としましては、お嬢様にはせめて大学をご卒業なさるまでは恋愛などという俗事には関わることなく、今の純粋無垢なお嬢様のままでいていただきたいと思っておりました。

 しかし、聞き苦しい言い訳にはなってしまいますが、親戚とはいえ私はご主人様と奥様に雇われている身。

 どうにもご主人様の意向には逆らえず、私にはただただ空虚な言葉でお嬢様を慰め、励ますことしかできませんでした。

 そのためにお嬢様は私にも失望されて、家出などという大胆な行動を取られたのでございましょう。

 あの時のお嬢様の捨てられた仔犬のような目が、今でも私の心を苛んでいます。

 ああ、なんて可哀想なお嬢様。

 家出をなされている間、いったいどれほど心細かったことでございましょう。

 本当に、いくら悔やんでも悔やみきれません。もしこれでお嬢様の身に何かあった時には、私は潔く身を焼いて果てる所存でございました。

 幸いにも、お嬢様は家出をなされたその日のうちに、無事に帰ってこられました。

 ご主人様はお怒りでしたが、奥様のとりなしで頭ごなしにお嬢様をお叱りになるようなこともなく、結局本日のお見合いの話もお流れとなり、お嬢様にとっても私にとっても、何はともあれめでたしめでたしということになったはずなのですが――

 家にお戻りになられてからのお嬢様の様子が少々――いや、かなり変なのでございます。

 お嬢様は、家出をなされていた間のことについて頑なに何も話されようとはしません。

 もちろん、お嬢様とて誰にも言いたくないことはあるでしょう。まだ私たちに腹を立てておられるのもよく分かります。

 しかしよくよく考えれば、あれほど怒って家出までなされて、何度私たちが電話をかけても一向に繋がらなかったにもかかわらず、結局その後お嬢様の方から連絡があり、すんなりと家に帰ってこられたわけですから、その時に何かがあったことは間違いありません。

 これは推測ですが、どなたかが家に電話をかけるようお嬢様を諭してくださったのではないでしょうか。

 それに、お嬢様が今よりもまだずっと小さかった頃から一心に見守ってきた私ですから、お嬢様の些細な変化も見逃すはずがありません。

 あの日以来、お嬢様がずっとそわそわして落ち着かず、常に何かを気にしておられることに、この私が気づかぬはずがないのです。

 ご主人様と奥様の前では私もそのことについて言及するのは控えておりましたが、お二人はつい先ほど、お仕事のために再び家をご出発なされました。次に帰ってこられるのは、予定では一か月先でございます。

 さて、と私は気合を入れます。

 私はお嬢様のお世話を任された者として――いえ、世界で最もお嬢様を愛する者として、何としてもお嬢様の短い冒険の最中に起こったことを究明しなければなりません。

 たとえそれが、お嬢様の意に反することであったとしても。

 たとえそれで、お嬢様にさらに嫌われるようなことになったとしても。

 お嬢様のためであれば、喜んで汚れ役を引き受けようというものです。

 もう二度と、今回のような忸怩たる思いはしたくありませんから――

 

 

 ●

 

 

 あれから私は琴葉の運転する車で家に帰った。

 迎えには、ママと琴葉が来てくれた。パパも来ると言ってたみたいだけど、ママが置いてきたらしい。

 待ち合わせ場所のコンビニで、いきなりママと琴葉に抱きしめられたのにはびっくりした。慶太が見てるはずだったからとても恥ずかしかった。

 ――でも、とても安心した。

 家に電話して良かったと思った。

 車の中で、ママからお見合いのことで謝られて、皆に心配をかけたことでちょっとだけ怒られた。

 琴葉にもたくさん謝られた。すごく泣いてた。琴葉があんなに泣いたところは初めて見たから、とても申し訳ない気持ちになった。

 家に帰ると、門の前でパパが待っていた。

 あんまり心配させるんじゃないってパパにもちょっとだけ怒られた。もっと怒られると思って内心ビクビクしていたのだけど、それ以上は何も言われなかった。

 ただ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。

 私はされるがままにしておいた。

 それから、ママが電話で約束してくれた通り、お見合いの話はなくなった。

 パパとママは相手の家に謝ったりしなければならないみたいだったけど、そんなのは私の知るところじゃない。

 勝手にお見合いなんてセッティングしたパパが悪いのよ。

 意地悪かもしれないけど、これに懲りたら勝手なことはもうやめてほしいと思う。

 けれどまあ、これで私にとっては何はともあれめでたししめでたしって感じだった。

 あんまり怒られなかったし、お見合いの話もなくなったし。これをきっかけに、パパが私に無理やり何かをさせることも少なくなるかもしれないし。

 

 でも――お見合いのこととか、怒られることとか、そんなことは正直もうどうでもよかった。

 

 私の頭の中は、慶太のことでいっぱいだった――

 

 慶太と出会ったあの日から二日が経った。

 この二日間、私はずっと部屋で慶太とメールしたり電話したりしていた。

 パパもママも琴葉も、必要なこと以外ではあまり私に話しかけようとしなかった。

 今はそっとしておいた方がいいと思われてるみたいだった。

 本当は慶太のことで頭がいっぱいで、パパのこともママのことも琴葉のことも、別にもう怒ったりしてなかったんだけど、そっとしててくれることはありがたかった。誰に気を遣うこともなく、思う存分慶太とメールや電話をすることができたから――

 この二日間で、私は慶太のいろんなことを知った。

 年齢は二十一歳で、血液型はB型。大学を辞めて、今はアルバイトで生活をしているらしい。実家はここから遠いところにあって、今はあのお家で一人暮らしをしている。家族構成はご両親と妹が一人。だけどあんまり家族の仲は良くないらしい。実家では犬を二匹飼っていて、二匹ともミニチュアシュナウザーという犬種だそうだ(写真を見せてもらったけどとても可愛かった)。毎日ランニングをしていて、私を助けてくれた時もその途中だったんだって。あと私と同じで甘いものが大好きで、いつか一緒にケーキを食べる約束をした。

 他にもいろんな話をしたけれど、聞けば聞くほどもっと慶太のことを知りたくなって、今も慶太からのメールの返信を待ってるところだった。

「うぅー……」

 慶太のことを思い浮かべながら、頭まで布団にもぐりこむ。

 少し癖のある黒い髪は、男の人にしては結構長め。目は大きくて瞼が二重で、瞳が少し茶色っぽい。背はパパと同じくらいでちょっと痩せている。ジャージがよく似合っていて、とてもカッコ良かった。そしてなにより、困ってる人を見過ごせない、正義感が強くてとても優しい人――

 うん……私、慶太に惚れてる。私、恋をしている。

 こんな気持ち、生まれて初めてだった。

 慶太のことを考えるだけで胸がきゅっと苦しくなり、慶太のことを考えるだけでいてもたってもいられなくなった。

 慶太と出会うまでは、自分がこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。

 

 ――初恋だった。

 

 今では私が家出をして慶太と出会うきっかけをくれた、パパやあの気持ち悪い男たちにすら感謝したい気分だった。

 今日は日曜日で、明日からはまた学校があるから、昨日や今日ほど慶太と連絡は取れなくなってしまう。

 ああ、早くまた土曜日にならないかな……。

 週末はまた会えたりしないかな……。

 

 そんなことを考えていると、コンコンと、部屋にノックの音が聞こえてきた。

 

 

 ●

 

 

 夕食を召し上がり入浴を済まされると、お嬢様はまたご自分の部屋に引きこもってしまわれました。

 元々あまり外で遊ばれることの少ないお嬢様ですが、普段はこれほど部屋にこもっておられることはありません。リビングで本を読まれることもありますし、私と一緒にテレビや映画をご覧になることもあります。私はお嬢様の養育を任されている身でありますから、当然私の監督下で勉強もしていただきます。

 しかし、この二日間のお嬢様を見ている限り、やはりどうもそわそわしておいでですし、私から何かを隠そうとされているように思われてなりません。そしてもちろん、その隠し事というのは間違いなくお嬢様の短い冒険の最中に起こった出来事なのでしょう。

 あの日、お嬢様はどこで何をしておられたのか。

 お嬢様に家に連絡を入れるよう言い聞かせてくださった方はいったい誰なのか。

 お嬢様には申し訳ありませんが、私は意を決して、お嬢様の隠し事を見破らせていただくことにいたしました。

 これもすべて、お嬢様のためでございます。

 

「お嬢様、紅茶をお持ちしました」

 紅茶を持ってお嬢様の部屋に赴き、ドアをノックしながら声をかけます。

 ミルクと砂糖をたっぷり入れた、とても甘いミルクティーがお嬢様は大好きなのです。

「入って」

 お嬢様の許可を得て部屋の中に入ると、お嬢様はベッドの上でごろごろしながら、携帯電話をじっと見つめておられました。どなたかからの連絡を待っておられるのでしょうか。

 この年頃の女の子であれば大して珍しいことでもないのかもしれませんが、私はお嬢様がこんなに携帯電話を気にしておられるところなど、今まで見たことがありませんでした。

 お嬢様にお仕えする身でこのようなことを申し上げるのは憚られますが、お嬢様はあまり交友関係の広い方ではございません。

 お嬢様のご友人として真っ先に思い当たるのは私の妹のさゆりですが、少なくともあの日家出をなされた際、篠崎の家にいらっしゃっていないことは間違いありませんし、さゆり相手のメールであれば私たちから隠す必要もありません。

 しかし、さゆり以外でお嬢様が連絡を待ち焦がれる相手なんて、やはり私には思いつきません。

 ……おそらく、今お嬢様が連絡を待っている方というのが、先の家出の際にお世話になった方なのでしょう。

 私はとりあえず、何気ない会話から探りを入れてみることにします。

「そう言えばお嬢様、学校の宿題は終わりましたか? 確か明日英語の課題があったかと存じますが。それから火曜日に数学の提出物もあったと記憶しております」

 お嬢様は、ここから車で四十分ほどのところにある、私立白桜学園女子大学の附属中学校に通っておられます。

 白桜学園は幼稚園から大学まで一貫教育を行っておりまして、附属中学から高校へは自動的に進級できるのですが、当然学力が他の学校に比べて劣らないように、世間一般の受験生と同等かそれ以上の勉強を中学三年生は行わなければなりません。私もずっと白桜学園に通っていましたからよく存じております。

 ですのでお嬢様は、新学期始まって早々に大量の宿題を課せられて、とてもお嘆きなのでした。

 もっとも、頭は良い方なので、授業についていけなくなるようなことはないと思ってはいるのですが、他のことに気を取られているとなると話は別です。

「えっと……まだだけど……」

 やはりまだでしたか。

 連絡を待っている間に宿題を進めればと思うのですが、そんなことにも考えが至らないほどに、今のお嬢様はその方に夢中になっておられるようですね。

「早く終わらさないと、夜更かしすることになってしまいますよ?」

「今やろうと思ってたの」

 そう言いながら、お嬢様はベッドを抜け出して宿題を始められます。もちろん、携帯電話は机の上のすぐ手が届くところに置いて。

 すると、タイミングを計ったようにお嬢様の携帯電話からメールの受信音が鳴り響きました。

 そして、野生の獣のように素早い反応で携帯電話を手に取ると、食い入るようにメールの内容を確認されるのでした。

「どなたからのメールですか?」

 ストレートに訊いてみることにしました。

「え!? ええと……その……」

 面白いくらい素直に反応してくださるお嬢様。

 おろおろと言い訳を考えるその姿は本当に可愛らしく、思いきり抱きしめたくなる衝動に駆られますが、今はメールの相手を聞き出すことが先決ですので、ここはぐっと堪えます。

「学校のご友人ですか?」

 ひとまず助け舟を出しておきます。

「そう、そうなの」

「さゆり以外にもそんなに仲のいいご友人ができたのですね」

「うん、まあね」

 追及を逃れたと思ったのか、ホッとした様子のお嬢様。

 もちろん、これでは終わりません。

「それで、一昨日はその方の家にいらっしゃったのですか?」

「え?」

 お嬢様は、すぐには私の言葉の意味するところが分からなかったようで、きょとんとした表情を浮かべておられます。

 しかし、少し考えて私の言ったことが理解できたのか、たちまち再びあたふたし始めます。

「ちが――いや、うん、その、そうだけど……」

「そうですか。随分お世話になったようですから、一度お礼に伺わねばなりませんね」

「え!? そ、そんなのいいよ! その子もお礼とかいいって言ってたし!」

 胸の前で両手を振りながら、より一層慌てるお嬢様。

 相手の方に、お嬢様を匿ったことは黙っておいてくれとでも言われたのでしょうか。

 しかしこうも頑なに秘密にされてしまいますと、何か疾しいことがあるのではないかと逆に勘ぐってしまいます。

 お嬢様の立場は推察いたしますが、その方がいったいどのような方だったのかは是が非でも確かめさせていただかなければなりません。

「先方がそう仰っていても、こちらとしてはお礼を申し上げるのは当然です。もし家まで伺うのがご迷惑になるようであれば、せめてお電話だけでもさせていただかないと――」

「だ、ダメだって!」

「どうしてですか?」

「どうしてもこうしても……」

「何か後ろめたいことがあるのですか?」

「そんなことはないけど……」

 しゅんとして困り果てた様子のお嬢様。

 はぁ……本当に……なんて可愛らしいのでしょう。

 こんなお顔のお嬢様を見れば、いったい誰がこれ以上お嬢様を追い詰めようなどと思うでしょうか?

 ですが、お嬢様のためとあらば、妹以外のすべてを捨てると誓った私の心はもはや修羅と成り果てておりますが故に、本当にお嬢様には申し訳ありませんが、もう少しだけ、意地悪をさせていただきます。

「お嬢様。あの日お嬢様はどちらにいらっしゃったのですか? どちらで、どなたと一緒にいらっしゃったのですか?」

「……そんなの、琴葉に関係ない」

 お嬢様は口を尖らせ、拗ねたようにそっぽを向いてしまわれます。

「関係あります。お嬢様は御影家の一人娘なのですから、もしかしたらその方がお嬢様に近づかれたのは御影家の資産が目当てだったのかもしれませんよ。私もその方のことを知っておかないと、いざという時――」

 

「慶太はそんな人じゃない!」

 

「――――」

 ――え?

「けい……た……?」

「あ――」

 お嬢様は大きく口を開けたまま、しまったとばかりに顔を歪められます。

 しかし――”けいた”と仰りますのは、これは、どう考えても――

「まさか……男の人……ですか……?」

「いや、その、ええと、違う! 慶太はその――」

「男の人じゃないんですか?」

「え? いや……その……」

「男の人なんですね?」

 しばしの沈黙。そして――

「……うん……」

 そう言って俯くお嬢様。

 そのお嬢様の恥ずかしそうな表情は、私が今まで見たことのないものでした。

 お嬢様がお生まれになった日から今日に至るまで、私はありとあらゆるお嬢様のお顔を見てきたつもりです。

 笑った顔、泣いた顔、怒った顔、拗ねた顔。

 さゆりとじゃれ合ってるときの楽しそうな顔、勉強に集中しているときの真剣な顔、絵を描いてるときの穏やかな顔、眠っているときの幸せそうな顔。

 どのお嬢様も本当に素敵で、どのお嬢様も本当に愛らしく、私は心のアルバムに(一部は実物のアルバムに)お嬢様のいろいろなお顔をずっと記録してきたのですが――

 今のお嬢様のお顔は、私の心のアルバムのどのページを探しても見つけることができず――

 そして、私の目が幻覚を見ているのでなければ――むしろそうであればと願うのですが――お嬢様の白い頬にうっすら赤みが差していて――

「こ、琴葉!?」

 不意に私の体は浮遊感に包まれ、天地が逆さまになり、目の前が真っ白になりました。

 お嬢様の声が遠くに聞こえます。

 ああ、私のお嬢様が……私の麻夕お嬢様が……あのとろんとした表情は、まさしく、紛れもなく……

 

 

 ●

 

 

 麻夕ちゃんと出会った日から早くも二日が経った。

 この二日間は、バイトの時間以外はほぼずっと、ゲームをやる傍らで麻夕ちゃんと他愛のないメールのやり取りをしていた。たまに電話で声を聞いたりもした。

 あの日俺は眠りにつく前に、もう麻夕ちゃんと会うことはないだろうと思ったし、連絡先を教えはしたが、メールが来ることはないだろうなとも思った。麻夕ちゃんからメールが来て一時はテンションが上がったものの、一晩眠って冷静になってみると、お世話になったお礼に一報入れるのは常識だし、やっぱりあれきりだろうなと思った。

 が、昨日の朝、バイトに行く準備をしながらふと携帯を見てみると、再び麻夕ちゃんからメールが来ているではないか。

 内容を見てみると『昨日はよく眠れた? 私はちょっと寝不足気味』と書いてあった。

 朝は低血圧で中々上手く頭が回らない俺だったが、ボルテージは一気に最高潮に達し、すぐさま『俺はぐっすり眠れたよ! 麻夕ちゃん大丈夫? あんまり無理しないでね』と相手を気遣う優しいメールを送った。

 それから俺たちはずっとこんな感じで、本当に他愛のない、目的も意味も何もないメールのやり取りを続けていた。

 言うまでもなく、俺はこれまでの人生においてこんなに女の子と連絡を取り合ったことなんてなかったから、今の状況はめちゃくちゃ楽しい。

 ゲームをしながら女の子とメールのやり取りをするなんて、三日前までの俺であれば夢想だにしなかったことだ。

 これを皮切りにもっと麻夕ちゃんと仲良くなって、自分好みに育てつつ、あと三年くらいしたら本格的に付き合い始める……我ながらなんと素晴らしい計画だ。

 名付けて、石神慶太人生薔薇色化計画。

「…………」

 嘆息する。

 うん……まあ、分かってる。

 あんなに可愛い女の子が俺なんかのことを好きになるはずがないし、そのうち麻夕ちゃんは麻夕ちゃんにお似合いの嫌味なくらい爽やかなお坊ちゃんと付き合い始めて、幸せになることだろう。

 嫌われてるってことはさすがにないと思うけど、少なくとも中学生の頃みたいに、ちょっと女の子に親し気にされたからといって、あの子は俺に気があるんじゃないだろうかなどという痛い勘違いをするような俺じゃない。

 ちなみに、麻夕ちゃんが家出をしている間俺の家にいたということについては、麻夕ちゃんのご家族には知られたくなかったので秘密にしてもらっていた。。

 知られたら絶対に面倒なことになる。俺の第六感がそう告げている。

 いや、第六感を使わなくても普通に考えればわかることだろう。

 愛娘が、自分がセッティングしたお見合いをすっぽかしてどこの馬の骨とも分からぬ男のところに転がり込んでいたなんて知られたら、麻夕ちゃんのお父さんは発狂して、脳溢血で死んでしまうかもしれない。

 お会いしたことはないがなんとなく優しそうな印象の麻夕ちゃんのお母さんだって、俺の存在を知ればきっと寿司包丁を両手に持って殺りに来るに違いない。

 幸い、麻夕ちゃんのご両親は今夜にはまた仕事の都合で遠くに行かなければならないらしく、次に帰ってくるのは一か月くらい先だそうだ。

 だからまあ、今回の件はほとぼりの冷めるまで何とか内緒にできるだろう。

 

 ――と、

 この時まだ、“彼女”の存在にまったく気を留めていなかった俺は、楽観的にそう考えていた――

 

 

 ●

 

 

 お恥ずかしながら、あまりのショックに気を失ってしまいまして、お嬢様の介抱を受けておりました。

 お嬢様が私を心配してくださったことには大変胸が熱くなりましたが、これではお嬢様の使用人として失格です。内心ではどんなに動揺していても、主の前では常に冷静かつ毅然としているのが仕える者の在るべき姿というものです。私もまだまだ修行が足りませんね。

 しかし――何たることでしょう。

 家出の際にお嬢様がお世話になられた方は、きっと私の存じ上げない方なのだろうとは思っておりましたし、おそらくお嬢様も以前からその方とお知り合いだったわけではなくて、行きずりの人に親切にしていただいたのではないかと推測してはいましたが……。

 その方が男性である可能性を完全に失念しておりました。今にして思えば、全然ありうる話だったにもかかわらずです。これはやはり、私が深層的に怖れていることを無意識のうちに顕在化させまいとしていたのでしょうか。そしてまさに、これは私の最も怖れていた事態であります。

 しかしともかく、お嬢様ももはやこれ以上は隠し通せないと判断されたようで、お嬢様の短い冒険の間にあったことをすべて話していただきました。

 お嬢様が私たちの隙を突いて家をお出になり、遠くの公園まで歩いて行かれたこと。

 その公園で休んでいると、気色の悪いふざけた男たちに声をかけられたこと(この連中に関しては後ほど必ず制裁を加えておきます)。

 そこで慶太様という方に出会い、助けられたこと。

 家出したことを話し、慶太様の家に連れて行っていただいたこと。

 夕食をご馳走になり、家族に連絡を入れるように言われて、私に電話をなされたこと。

 家に戻ってこられてからも、ずっと慶太様と連絡を取り合っていたこと。

 そして――

 

「お嬢様は、慶太様のことがお好きなんですか?」

 

「…………うん」

 

 頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯くお嬢様。

 こんなお嬢様を見るのは初めてです。

 あんなに小さかったお嬢様が、私の目から離れた一瞬の隙に、ここまで大人になられてしまうとは。

 なんとも寂しいものですね……。

 ですが、恋をなされて一回り大人になられたお嬢様は、前にも増して可愛らしくて、その破壊力は私を七回殺して余りあります。

 お嬢様からこんな気持ちを向けられている慶太様が羨ましくて憎らしくて仕方ありませんが、しかし――まずは慶太様という方がいったいどのような方なのか、是が非でも一度この目で確かめなければなりませんね。

 お嬢様は恋愛のご経験がまったくありませんから、もしかしたら悪い男に騙されているという可能性もなくはありません。

 慶太様がもしもお嬢様に相応しくない輩であれば――まあ、お嬢様に相応しい男性なんてこの世界に存在するのかどうかも怪しいところですが――その時には、露と散っていただくことになるでしょう。

「とにかく一度、慶太様のご自宅へ赴き、お世話になったお礼を申し上げなければなりませんね」

 私がそう言うと、お嬢様はまた困ったように下を向いてしまわれます。

「だけど慶太からは、私が慶太の家にいたってことは内緒にしてって言われたから……」

「ですが、もう私は慶太様のことを知ってしまったのですから同じことですよ?」

「でも……」

 お嬢様は慶太さんの言いつけを守れなかったことで、嫌われてしまうのではないかと心配しておられるのですね。

 そのような心配はおそらく無用でしょうが、お嬢様も初めての恋愛故に、そもそもあまり他人とコミュニケーションを取るのが上手な性格ではないが故に、そういった人の感情の機微について、考えが及ばないのでしょう。

 かくいう私も、恋愛なんて人生で一度もしたことはありませんけれども(お嬢様とさゆりに対するこの気持ちを別にすればですが)。

「大丈夫ですよ。こんなことで慶太様は怒ったりしません」

 と言いますか、これでお嬢様を責めるようなことをなされた場合には、まず間違いなく自分の首から下に別れを告げていただきます。

「それよりも、私に知られてしまったことを隠さずにちゃんと話された方が、かえって良い印象を与えますよ」

「そうかな……?」

 お嬢様は私の言うことを頭では理解しておられるようですが、それでもやはり一抹の不安をぬぐいきれないでいる様子。

 ですのでもう一手、お嬢様の恋心を利用させていただきます。

「ええ。ですから一度、一緒に慶太様の家をお尋ねしませんか?」

「一緒に? それって……」

 私の言わんとすることを理解されるや否や、お嬢様の顔がぱあっと明るくなります。

「ええ。慶太様にお会いできるということです」

 私が答えると、お嬢様は堪えられないように、にやにやと頬を緩ませます。

 それを見た私の頬も、ついつい緩んでしまいます。

 ああ、本当に――なんて可愛らしい――

「うん……分かった。慶太に電話してみるね」

 そう言ってお嬢様は、机の上に置いてあった携帯電話をいそいそと手に取って、初恋の人に電話をかけられます。

 本当は、お嬢様には恋愛なんてしていただきたくはありませんでしたが――

 しかし、こんな幸せそうなお嬢様を見ていると、どうにかこの小さな淡い恋が上手くいきますようにと願わずにはいられないのでした。

 

 

 ●

 

 

 日曜日の夜というのは、休日もあと少しで終わりという、一週間で最もテンションの下がる時間帯である。

 人によっては胃がキリキリと痛んだり、上手く寝付けなかったりするかもしれない。

 何もやる気が起きず、部屋の隅で虚空を眺めて、明日を呪って世を憂いて、寝ている間に世界が滅びないかなーなどと思ったりすることもあるだろう。

 昔は俺もそうだったが、まあ、毎日が日曜日の今の俺にとってはあまり関係のないことだ。

 今日もバイトから帰ってきてから、俺は麻夕ちゃんとメールのやり取りをしつつ、ひたすらご贔屓のオンラインゲームをプレイしていた。

 “レグナス・オンライン”というMMORPGなのだが、ゲームバランスがとても良く、細かい部分も作りこまれていたりして、俺も今までいくつかのオンラインゲームをやったことがあるけれど、ダントツでやり込んでいる。

 現実世界での交友関係は概ね断絶されている俺だけど、このゲームの中にはそれなりに友達もいる。

 というか、このゲームを始めてから、現実世界で喋った回数よりもチャットで喋った回数の方が多いような気がしないでもない。

 俺は今、そのゲーム内の友達の中でも特に仲のいいヤツと二人でひたすら同じ敵を狩り続けている。

 欲しいアイテムがあるのだ。

 “サンクロットの槍”――邪竜を倒すために英雄サンクロットが用いた槍。人々の願いが織り込まれ、星によって鍛えられたこの槍は、あらゆる魔法の護りを突破する。

 そんな壮大な設定を有する武器なのだが、設定に見合うだけの強力な性能を有している。

 ここ数日は、その“サンクロットの槍”をドロップするという敵を暇さえあれば倒しまくっているのだが、レアアイテムというだけあってやはりそう簡単に手に入れられるものではないらしく、今日も今日とて俺たちは、終わりの見えない戦いに身を投じているのだった。

『やっぱり出ないね、慶次さん』

 長時間同じ敵を倒し続けて疲れたのか、付き合ってくれていた相棒が息抜きついでにチャットを始める。

 “慶次”というのは俺のキャラクターの名前だ。自分の本名の“慶太”と、戦国武将の前田慶次に掛けている。

『出ないね、しーなさん』

 そして“しーな”というのが、この友達のキャラクターネームだ。

 あざとさすら感じられる可愛い女の子のキャラクターだが、顔を見たことも声を聞いたこともないので、実際の性別は不明である。

 まあ、訊くのは野暮だし、正直どっちでもいいから訊いてはいない。

 けれど可愛い女の子のキャラクターとチャットしてるだけで、本当に可愛い女の子とお喋りしている気分になれるのだから不思議である。しーなさんはチャットの喋り方も丁寧で女の子っぽいし。

 もっとも俺には麻夕ちゃんがいるから、わざわざゲーム内で女性との交流を求める必要性は皆無ではある。

 ちなみにしーなさんはこのゲームが結構下手で、何人かで協力プレイしたりする時にはよくミスをする。

 自キャラの位置取りや敵のターゲッティング、回復や支援系の魔法を使うタイミング等、あんまり高度なことを求められるとすぐにキャパシティをオーバーしてしまうらしい。別に、そんな複雑な作業じゃないはずなんだけどな。

 けど、それで他のプレイヤーから心無いことを言われたりすることもあるらしく、俺と初めて出会った時もそうだった。それを俺が庇ってやったら、なんだか懐かれたのだけど。

 以来、同じギルド(ゲーム内のグループみたいなもの。英語で“組合”の意)に所属して、何かにつけては一緒に遊んでいるのである。

『ホントに出るのかなぁ……?』

『出るはずだけどな。ネットでこいつからドロップしたところがスクリーンショットで上がってたし』

『そっかぁ。それじゃあ、頑張るかぁ』

『しーなさん、別に無理して付き合わなくていいよ? しーなさんはこいつから欲しいアイテムがあるわけでもないんだし、経験値稼ぎならもっと効率の良いところ他にあるし』

『いいよ、慶次さんと一緒にのんびり狩ってる方が楽しいし。その代わり、あとでクエスト付き合って!』

『りょーかい』

 そんな感じで、ゆったりまったり俺たちの戦いは続く。

 そこへふと、俺の携帯電話からメールの受信音が鳴り響く。

 この厳かで幻想的ながらも胸を熱くさせるメロディは、メールが麻夕ちゃんからであることを告げるものだ。

 一時ゲームを中断して、メールの内容を確認する。

 メールの内容はとても簡潔で、単に今から電話してもいいかというものだった。

 俺はこんな身分だから夜遅くまで起きていてもまったく問題ないのだが、時計を見ると、麻夕ちゃんはもうそろそろ明日の学校に備えてベッドに入った方がいいのではないかと思われる時間だった。

 けれどまあ、俺にとっては寝る前に麻夕ちゃんの可愛い声を聞けるに越したことはない。

 俺はしーなさんに少し席を外す旨を告げ、麻夕ちゃんに大丈夫だよと返信した。

 返信するとすぐに、麻夕ちゃんから電話がかかってきた。

「もしもし、麻夕ちゃん?」

『うん、いきなり電話してごめんね』

 電話越しでも麻夕ちゃんの声は可愛い。

 わざわざメールで相手の都合を確認し、電話でも開口一番手間を取らせることを詫びるあたり、つくづく育ちがいいんだなぁと思う。

「俺は全然構わないけど、麻夕ちゃんはもう寝なくても大丈夫? 明日学校でしょ?」

『私もまだ大丈夫だよ』

「本当? それならいいけど」

 麻夕ちゃんくらいの年齢だと、特に睡眠は大切だ。

 心身の成長に欠かせないのはもちろんのこと、ちゃんと寝ておかないと翌日の授業に身が入らない。

 俺のせいで麻夕ちゃんの成績が下がったりはしてほしくないから、そのあたりは俺の方が気を使わないといけないところだ。

『あのね、慶太……私、慶太に言わないといけないことがあるの』

 言わないといけないことがある。いきなりそんなことを言われると、思わず身構えずにはいられない。

 少なくとも、そんなあらたまって言われないといけないようなことは、俺の方には心当たりがない。

 しかも、心なしか声も沈んでいるように聞こえるし、なんだろう……とりあえず、良い予感はしないな。

「何? どうかしたの?」

 恐る恐る聞き返してみると、麻夕ちゃんは言いにくそうに唸り声を上げる。

 なんだか俺もドキドキしてきたが、ここはじっと麻夕ちゃんの次の言葉を待つ。

『あのね慶太、実は……』

「うん」

『慶太のこと、琴葉に知られちゃった』

「――へ?」

 自分の口から、何とも間抜けな音が出た。

「……本当に?」

『うん……』

 “琴葉”という人物については、この二日間のメールのやり取りの中で何回か話題に上ることがあった。

 篠崎琴葉――歳は二十三歳で、一昨年大学を卒業したばかりらしい。

 麻夕ちゃんとは遠い親戚筋にあたり、昔からとても仲が良くて、小さい頃から(今でも小さいが)よく面倒を見てもらっていたそうだ。

 琴葉さんはまだ大学生の頃から忙しい麻夕ちゃんのご両親に代わって麻夕ちゃんの身の回りの世話をするようになり、大学を卒業してからもずっとそれを続けているということだった。

 言うなれば、麻夕ちゃん家のメイドさんだ。

 麻夕ちゃんにとって琴葉さんは、血の繋がらないお姉さんのような人で――多分、お父さんやお母さんよりも麻夕ちゃんに近しい存在なのだろう。

 そんな琴葉さんがお見合い騒動の時に味方をしてくれなかったことが、麻夕ちゃんにはとてもショックだったらしい。それで、最終的に家出を決意したのだそうだ。

 話を聞く限り、悪い人ではないのだろう。麻夕ちゃんはあの一件の後でも琴葉さんのことをとても信頼している。そのことは、ここ二日間の麻夕ちゃんとのメールのやり取りでよく分かった。

 琴葉さんも、麻夕ちゃんのことを本当に大切に思っているに違いない。

 しかし、だからこそ、俺の存在を知った琴葉さんが、俺のことをどう思っているのかが分からない。

 家出中の麻夕ちゃんを助けた恩人として認識してくれているのか、それとも可愛い麻夕ちゃんに近寄る害虫として敵視されているのか。

 琴葉さんは俺のことをどこまで知っているのだろうか。

 麻夕ちゃんには、俺が大学中退でフリーターをやってることとか、家ではゲームばかりやってることとかいろいろ情けないことまで言ってしまっているが、それもこれも全部知っているのだろうか。

『慶太……?』

「あ、うん、何?」

『怒ってる……?』

 麻夕ちゃんは俺を怒らせてしまったのではないかと心配しているみたいで、声が少し震えている。

「いや、そんなことないよ。ただ、どうしようかなって思っただけで」

 そう、本当にどうしようか。

 と言っても、こうなってしまってはもうどうしようもない。

 問題は琴葉さんの方がなんて言っているかだが……。

『それでね、琴葉が慶太と話したいって言ってるんだけど……』

 やはりそうきたか。

 正直、俺はあんまり話したくないな……。

 ただでさえ人と話すのは苦手だっていうのに、こんなふうに隠し事が露見するような形でお話しするのはとても心苦しい。

 ……けれどまあ、仕方ない。

 ここで話すことを断ったところで、良い方向に転ばないことだけは確実だ。

 それに、俺だって別に悪いことをしたわけではない。

 単にちょっと、麻夕ちゃんのことを可愛いなぁと思っただけだ。別に、取って食おうなんてつもりもない。

 ここは堂々としているに限る。

「ああ、いいよ」

『じゃあ、替わるね』

 そう言って、麻夕ちゃんは行ってしまった。

 話し手が替わっている間に、俺は大きく深呼吸をする。

 そして――

『お電話替わりました。初めまして、麻夕お嬢様のお世話をしております、篠崎琴葉と申します』

 ――清流のせせらぎのように静かで、けれどもはっきり耳に残る美しい声。こんなに滑らかで綺麗な日本語を聞いたのは生まれて初めてだ。アナウンサーだと言われても疑わなかったに違いない。

「どうも、初めまして。石神慶太です」

 一方で俺はというと、噛まないように挨拶をするだけで精一杯である。堂々としていようなどという決意は一瞬にして砕かれた。

『先日は当家のお嬢様が大変お世話になったそうで、本当にありがとうございました』

「いえいえ、私は特に何も……」

 あまりに畏まりすぎて、無意識のうちに一人称が他所行きになってしまう。

 自分でも緊張しすぎだと思うのだが、やっぱり俺は初対面の人と話すのは苦手だし、年上の人と話すのは苦手だし、若い女性と話すのも苦手なのだ。

 まさに三重苦、琴葉さんは俺の天敵と言っても過言ではない。

『つきましては一度慶太様のご自宅にお伺いして、直接お礼を申し上げたいと思っているのですが』

 ……え? 来る? 俺の家に?

 “慶太様”という呼ばれ方にこそばゆさを感じる暇もなく、俺の危険察知器が反応する。

 ……確かに琴葉さんの立場からすれば、自分の家のお嬢様が世話になったのだから、その相手に対して一度直接お礼を言いたいというのはごく自然な話だ。

 だが、俺としてはあんまりお会いしたくないな……。

 たとえ琴葉さんが絶世の美女だったとしても、会ってみたいという好奇心より面倒臭いという俺の魂に刻まれた行動理念が上を行く。

 まあ、麻夕ちゃんレベルの美少女ともなるとさすがの俺も少しは揺らいでくるかもしれないが、あんな美少女がそう何人もいてたまるものか。

「いえいえお構いなく。本当に、大したことはしておりませんので……」

 できるだけ失礼にならないよう、丁寧にお断りする。

 しかし――

『いえ、是非一度会ってお話をさせて頂きたいのです。お嬢様は慶太様のことを大変ご信頼なされているようですので、私も一度慶太様がどのような方なのか、会って確かめたいのです』

 ……うむ、これはもう断れなさそうだな。

 お礼という目的ならともかく、会って話をしたいとストレートに言われれば、拒否するのはちょっと失礼に過ぎる。

 無理に断れば、麻夕ちゃんとの今後はないものと思わなければならないだろう。

 それはちょっと寂しいしな……。

 別に、本当に麻夕ちゃんと付き合いたいとか考えているわけではないのだけど、でもやっぱり、せっかくこうして知り合えてそれなりに仲良くなれたのだから、わざわざこちらから関係を絶つようなことはしたくない。

 俺は渋々、琴葉さんの要望を承諾することにした。

「……分かりました。いついらっしゃいますか?」

『日時につきましては慶太様のご都合に合わせます。ただ平日であれば、お嬢様が学校からお戻りになられた後、午後五時以降でお願いしたく存じます』

「了解です。バイトが入ってなければいつでも大丈夫ですので。早い方がよろしければ明日の夕方とかでも構いませんよ」

 というか、俺は早い方がよろしい。

 面倒事はできる限り避ける。避け得なければ、可及的速やかに処理する。これが、俺の人生の大原則である。

『明日の夕方ですね? 分かりました。では、明日の午後五時頃に慶太様のご自宅へお伺いしても構いませんか? 道はお嬢様に案内していただきますので』

 麻夕ちゃんも来るのか……それは僥倖だな。

「分かりました。お待ちしています」

『では明日の夕方、午後五時に。お会いできるのを楽しみにしております。もう一度お嬢様に替わりますね』

 そうして琴葉さんは再び麻夕ちゃんに電話を替わる。

『もしもし慶太? ごめんね、急にこんなことになっちゃって』

 麻夕ちゃんがしゅんとした声で俺に謝る。

 こんな声を聞かされては、俺も空元気を発揮せざるを得ない。

「いや、全然構わないよ。むしろ明日麻夕ちゃんに会えるみたいで得した気分だよ」

 うむ、思ったよりも元気な声が出た。

『うん……私も得した気分』

 けど、麻夕ちゃんも大変だろうなぁ。

 俺と琴葉さんに板挟みにされて、家族に隠し事をさせられて。

 それがバレた挙句に明日学校が終わった後、わざわざ俺の家まで来ないといけないなんて面倒なことこの上ない。

 なのに麻夕ちゃん、俺のことを気遣ってくれて、本当に健気だ。

「……それじゃあ、もう遅いし寝よっか。おやすみ、また明日」

『うん、おやすみ』

 電話が切れると、俺は大きく息を吐いて、ベッドに身を投げ出した。

 明日、麻夕ちゃんがまた家に来る。メイドの琴葉さんを連れて。

 どうなることか、まったくもって見当もつかない。

 でも、考えても仕方のないことだ。

 お袋がよく言っている。人生何事もなるようになるし、なるようにしかならない。ならないものはならないんだ。

 まあ、そうやってうだうだ考えずにきっぱり物事を割り切れるような性格だったら、俺もこんなふうにはなってないわけで。

 俺はしばらくベッドの上で物思いに耽っていたが、ふとゲームの最中だったことを思い出して体を起こす。

 今日はとりあえずあと三十分くらいゲームをして早めに寝るとするかと思い、しーなさんに挨拶してから狩りを再開する。

 ――と、

『出た』

 なんと、ゲームを再開してからわずか二分足らずで“サンクロットの槍”がドロップした。

『ホント!? おめでとー!!』

 しーなさんも我が事のように喜んでくれる。

 なんか派手なエフェクトのスキルを連発しながら“慶次”の周りを飛び回っているし、俺に先駆けてギルドチャットでみんなに勝手に報告しているし。

 そのせいでチャットログがすさまじいことになっており、一々読むこともままならない。

『装備してみて!』

 しーなさんにそう言われて、早速手に入れたばかりの“サンクロットの槍”を装備してみると、めちゃくちゃカッコ良いし、めちゃくちゃ強い。

 今まで狩り続けていた敵に軽く試し切りしてみると、与えるダメージが大幅に増加しているのが分かる。

 これは琴葉さんとの対面を控えて幸先がいいな……。

 いや、逆の見方をすれば、これで俺の僅かな運をすべて使い切ったという考え方もできるけど。俺の今までの人生を振り返ると、むしろそちらの解釈の方が正しい気がする。

 まあいいや。“サンクロットの槍”を手に入れられたのは素直に嬉しいし、少なくとも明日また、麻夕ちゃんに会えるんだし。

 せっかく“サンクロットの槍”をゲットできたのだから、もうちょっとだけゲームをしてから寝ることにしよう。ずっと俺を手伝ってくれていた分、今度は俺がしーなさんに付き合わないといけないし。

 そうして夜はますます更けていくのだった。

 

 

 ●

 

 

 そして翌日。

 欲しかったアイテムを手に入れられた喜びから、何だかんだ昨日も遅くまでレグナス・オンラインをプレイしてしまったため、必然的に起きる時間も遅くなってしまった。

 しばらく微睡みを楽しんでから顔を洗って軽く食事を取り、ベランダに出て一服し、それから麻夕ちゃんと琴葉さんを招待する準備をしていると、あっという間に約束の時間が近づいていた。

 まあ、二人を招待する準備といっても、あんまり人を家に上げたことがないものだから(というかこの家に新聞の押し売りと宗教の勧誘以外の目的を持った人が来たことなんて、片手で数えるほどしかない)、いったいどうやっておもてなしすればいいのかもよく分からず、結局特に何もしていない。

 とりあえずシャワーを浴びて髭を剃り、部屋を綺麗に掃除して、お湯を沸かしてティーパックとクッキーを用意しておいた。

 あとは座して待つのみである。

 手持無沙汰になったので久々にお気に入りのマンガを読み返していると、麻夕ちゃんから『もうすぐ行くね。あと十五分くらいで着くから』というメールが届いた。

 俺は喉を潤しトイレを済ませて臨戦態勢を整える。

 ――そして、午後五時ジャスト。

 ピンポーンと、インターフォンの音が家の中に鳴り響いた。

 急いで玄関のドアを開けると、そこにはこの三日間ずっと脳裏に焼き付いていた姿のそれよりも、さらに数倍可憐な少女が立っていた。

「こんにちは、慶太」

 電話で声も聞いていたけど、でもやっぱり、こうして顔を見て、その桜色の形のいい唇から直接発せられるものを耳にすると、感動も一入というものである。

「こんにちは、麻夕ちゃん。久しぶり……っていうほどでもないか。昨日も結構メールとかしてたしね」

「うん」

 今日の麻夕ちゃんは学校の制服を着ていた。

 麻夕ちゃんは白桜学園という幼稚園から大学まで一貫教育を行っている学校の中等部に通っているらしい。

 そのことを聞いてから軽く白桜学園についてインターネットで調べてみたけれど、すぐに俺みたいなヤツがお関わりになれるようなところではないということがよく分かった。

 要するに、白桜学園というところは麻夕ちゃんが通うのに相応しい、尋常ではないお嬢様学校なのである。

 ついでに中等部の制服も一応学校のホームページで確認しておいたわけだが、さすがはお嬢様学校なだけあって、俺が通っていた中学や高校の制服とは比べ物にならないくらい華やかなものだった。

 そして今まさに、その制服を着た少女が目の前に立っている。しかも制服を身に纏っているのは、閉月羞花の美少女だ。是非、あとで一枚写真を撮らせてほしい。

 そして、その麻夕ちゃんの後ろに控えているのが――

「紹介するね。名前は篠崎琴葉。パパやママがいない間、私のお世話をしてくれてるの」

「初めまして、慶太様。篠崎琴葉と申します」

「――――」

 ――驚いた。

 麻夕ちゃんから琴葉さんの年齢は聞いていたし、美人だということも聞いていた。

 しかし――まさかこれほどとは思わなかった。

 麻夕ちゃんを無垢で可憐な天使と喩えるのなら、琴葉さんはまさに神話に出てくる女神のような趣きがある。

 麻夕ちゃんのようなあどけなさはなく、完成された大人の女性としての美しさを持ち、立ち振る舞いも優雅なことこの上ない。右目下にある小さな泣き黒子が、艶やかな魅力を際立たせている。

 そしてなにより、胸に麻夕ちゃんにはない大きな二つのお山が存在する(一応断っておくと、麻夕ちゃんの胸は真っ平らである。厚さはせいぜい饅頭一個分といったところだろう。まさしく貧者の極みといったところだが、そんなところも麻夕ちゃんの可愛さを引き立てていることに議論の余地はない)。

 ただ一つ残念なのは、服装がメイド服ではないという点だ。地味に本物のメイドを見られることを楽しみにしていたのに。メイドというものはいつどこにいてもメイド服を着ているものだと思っていた。

「どうも、初めまして。石神慶太です」

 俺が挨拶を返すと、琴葉さんは一歩前に進み出る。

 絶世の美女に間近に寄られて、俺の心臓が一際高く鼓動を鳴らす。

 琴葉さんはそんな男の純情なんて露とも知らず、手に持っていた紙袋をすっと俺に差し出した。

「これをどうぞ。先日お嬢様が大変お世話になったことへの、ささやかではありますがお礼でございます」

「どうも、ご丁寧に……」

 紙袋を受け取るときに俺の手が琴葉さんのしなやかな指先に触れて、俺の心臓がまた一段と大きな脈を打つ。

 ああ、なんだかさっきから心臓に悪いな。ただでさえ俺、心肺機能強くないのに。

 紙袋の中を見てみると、綺麗に包装された箱が入っている。

 箱の中身が何なのかは分からない。

「ベルギー製のチョコレートでございます。お嬢様から慶太様は甘いものがお好きだと伺いましたので、ご用意いたしました」

 ベルギー製だと……ベルギーといえばチョコレートの本場ではないか。

 いいのだろうか、こんなものもらって……。

「すみません。こんなにいいものをいただいてしまって……」

 まあ、琴葉さんの言う通り俺は甘いものが大好きだし、中でもチョコレートは大好物だから、正直この贈り物はとても嬉しい。

 こんな機会でもなければ、ベルギー製のチョコレートなんて一生口にすることないだろうし。折角のお礼の品を受け取らないのも失礼なので、ここはありがたくいただいておこう。

 チョコレート大好き。バレンタインに毎年いいチョコレートを贈ってくれるお袋とばあちゃんもまあまあ好きだよ。バレンタインは大嫌いだけどな。

「いえ、私どもが慶太様から受けたご恩に比べれば、これしきの品には何の価値もございませんが、せめて気持ちだけでもお受け取りください」

「そんな、大げさです。本当に私は、特別なことはしてませんので……」

 ……沈黙。

 会話が続かず、気まずい静寂に包まれる。

 麻夕ちゃんの方を見やると、麻夕ちゃんはもじもじしながら上目遣いでこっちを見ている。可愛い。

 ……ていうか、琴葉さんの眼差しが凄まじい。

 睨むわけでもなくじーっと俺の顔を見ているのだが、琴葉さんのような美女に真っ直ぐ見つめられると、なんだか全身がむずがゆくなって何もしていないのにいたたまれない気持ちになる。この人俺に一目惚れしたんじゃないかと現実逃避したくなるレベルだ。

「えーと……その……」

 何とかこの沈黙を打破しようと俺が口を開きかける。と、

「慶太様。この後何かご予定がございますか?」

 突然、琴葉さんがそんなことを訊いてきた。

「この後ですか? 今日は特に何もないですけど……」

 バイトを除けば俺に外せない用事なんて一切ない。

 俺ほど身の軽い男もそうそういないだろう。

「もしよろしければ、一度お嬢様の家にお出でくださいませんか?」

「え?」

 行くって、麻夕ちゃんの家に? 今から?

 うむむと顔を顰めて考え込む。

 麻夕ちゃんの家か……確かに行ってみたいとは思うけれども、行ったところでこの調子では気まずい雰囲気になるだけだしな……。

 今でさえ緊張してうまく言葉が出てこないのに、これで麻夕ちゃんの家に行ったりすれば、それこそまともに会話もできないことになりそうだ。

 ここは、丁重にお断りした方が無難かな。

「いえ、急にお尋ねしては悪いかなと……」

「家には今、私とお嬢様の他には誰もおりませんので、心配はご無用です」

 そういえば麻夕ちゃんのご両親は出張で家にいらっしゃらないんだったな。メイドさんも、住み込みで働いているのは琴葉さんだけらしいし。

「ですが、さすがに家まで行ったらお嬢様が嫌がりませんか?」

 ここで嫌がると言われればそれはそれで悲しいが、一応訊いてみる。

「私は全然気にしないよ!」

 むしろ私も慶太に家に来てほしい、と麻夕ちゃんは嬉しいことを言ってくれる。

「それに、もう三人分の食事を用意してしまっておりますので、もし慶太さんがいらっしゃらないということになりますと、お嬢様に二人分食べていただくことになります。それでは、お嬢様がお太りになられてしまいます」

 太った麻夕ちゃんか……それは嫌だな……って、そうじゃない。何ですでに食事が三人分用意されてるんだ、おかしいじゃないか。

 ……つまり俺は、最初からこの人の掌の上で踊らされていたのか。踊っていたのは多分タンゴだろう。

「ちょっと琴葉!」

 ヘンなこと言わないでよと、麻夕ちゃんはぷくっと頬をふくらます。うん、怒った顔もとっても可愛い。

「お嬢様からも言ってください。慶太様に、家にいらっしゃるようにと」

「う、うん……」

 お嬢様は一転怒りの矛を収めると、俺の方に向き直る。

「慶太、一回私の家に来てみたいって言ってたでしょ?」

 ……言った。メールのやり取りをしている時に、何の気なしに言ったのだ。

「ご飯も自分で作るのは大変だって」

 それも言った。『毎日ご飯作るの大変じゃない?』って訊かれたから、素直に大変だと答えたのだ。

「いつも一人でいると、たまには誰かと一緒にいたくなるって」

 言った、言ったが……。

「それとも、私の家に来るのがどうしても嫌?」

 目に涙を溜めて、上目遣いで俺の顔を見上げる麻夕ちゃん。

 まったく……それはさすがに反則だろう。

「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

「本当!?」

「うん」

 俺にできるのは、せめて麻夕ちゃんをがっかりさせないことだけだった。琴葉さんはにっこりと笑って頷くと、俺たちを表に停めてあった車まで先導する。

 二人が乗って来た車は、あの夜麻夕ちゃんを迎えに来た車と同じものだった。厳つい黒塗りの、俺なんかでは一生乗る機会もないはずだった高級車。

 琴葉さんが後部座席のドアを開けて、どうぞと俺と麻夕ちゃんを車内に入れてくれる。そんな琴葉さんの丁寧な振る舞いに、俺はもうどうにでもなれと思うのだった。

 

 

 ●

 

 

 慶太様の家から御影家の邸宅までは、車でおよそ二十分かかります。

 その間、車の中では大して会話もなく、静かに時間が過ぎ去っていきました。

 お嬢様は慶太様の隣で恥ずかしそうにもぞもぞしていて、たまに私や慶太様に話しかけたりもします。愛する人を前にどこか落ち着きのないお嬢様はやはり可愛らしく、慶太様にはこんなお嬢様を見せていただいて感謝するべきなのか、お嬢様の心を奪ったことに烈火の如き怒りを覚えるべきなのか、中々判断がつきません。

 一方でその慶太様はといえば、自分から話をされることはなく、お嬢様や私が話しかけても簡単に答えるだけでございます。ここ数日、お嬢様とひっきりなしにメールのやり取りをしておられたことからすると少し意外に感じられましたが、初対面の私を前に、少し緊張しておられるのでしょう。

 慶太様の第一印象は、とりあえずまあまあといったところでしょうか。

 少なくとも、目を見て少し話しただけで、慶太様が真面目な人であることはよく分かりましたし、お嬢様のことを大切に考えてくださっているようで、ひとまず安心できた次第ではございます。

 しかし、それだけではまだお嬢様を預けるに足るお方かどうかは判断できません。

 特に、慶太様が実際のところ、お嬢様に対してどのような気持ちを抱いておられるのか、そこのところだけでもしっかり見極めさせていただかないと、私としても今後の方針が立てられません。

 妹を想うような気持ちなのか、友達のような感覚なのか、それとも恋愛感情を抱いていらっしゃるのか――。

 このように慶太様を疑うことは、この上なく失礼であるということは重々承知しております。ですが、私の名誉や外聞などというものは、お嬢様の幸せのためであればいくらでも焼いて捨てる所存でございます。

 もし慶太様が邪な考えを持ってお嬢様に近づいておられるのであれば、それがお嬢様に知られる前に、私は慶太様を闇に葬らねばなりません。

 できればお嬢様には悲しみの涙を流すことなく永久に幸せでいてほしいとは思いますが、世の中には、私ごときにはどうにもできないことがたくさんあります。

 ――いいえ、むしろ私にできることなんてほんの僅かなものでしょう。

 そして色恋沙汰などというものは、私にはどうにもできないことの中でも最たるものでございましょう。

 いくらお嬢様が慶太様のことを愛されていても、慶太様がその気持ちをお受けにならなければそれ以上どうしようもありません。

 慶太様が、実はお嬢様の思っておられるような方ではない可能性もございます。むしろ、窮地を救っていただくというともすれば運命的な形でお会いしたのであれば、お嬢様の思う“慶太様”と本当の“慶太様”の間に大きな乖離があったとしても不思議ではありません。

 私にできるのは、お嬢様に僅かばかりの助言をして差し上げることと、もし慶太様がお嬢様の心を傷つけるようなことをなされた場合に、秘密裏に慶太様を始末することくらいのものです。

 できればお嬢様が涙することがありませぬよう、もし涙するようなことがあったとしても、その涙がお嬢様をさらに幸せにするものであるよう祈りつつ、私も、微力ながら身命を尽くすのでございます。

 

 

 ●

 

 

 琴葉さんが運転する車に揺られて、俺たちは麻夕ちゃんの家へと向かう。

 途中、ふと寒気がすることが何回かあったが、風邪でも引いたのかな。ここ最近、この時期にしてはちょっと寒かったからな……気を付けないといけない。麻夕ちゃんにうつったりしたら大変だ。

 俺の暮らすアパートは、俺が先月まで通っていた大学から国道と私鉄の線路を挟んで自転車で十五分ほどのところにあり、バイト先のお店やお世話になっているスーパー、本屋、牛丼屋やラーメン屋などは全部家から大学へ行く途上にあるので、ここで暮らしてもう三年になるものの、家から大学へ行く方向の反対側については、どんな様子になっているのかまったく知らないのだった。

 で、車はその大学とは反対の方向へと走っていった。

 俺は窓の外を眺めながら、こっちの方はこんな感じになっていたのかと、新たな発見に少し感動していた。

 あのラーメン屋美味そうだなとか、こんなところにゲームショップがあったのかなどと感慨深く思いながら目新しい町を走っていくと、辺りは徐々に閑静な住宅街といった風景になっていく。

 しかし、途中で俺はふと気づいた。一軒一軒の家が、少しばかり大きすぎることに。

 どの家も多分、俺の実家の倍くらいの大きさがあるし、外装も凝っていて、中世ヨーロッパのお屋敷を思わせるものや、現代建築学の粋を結集したような未来的な建物もあったりして、見ていて非常に飽きない。

 どうやらここら一帯は高級住宅地のようだった。

 麻夕ちゃんはこんなところに住んでるのか……。

 お見合いのことやメイドさんがいることから、麻夕ちゃんがお金持ちのお嬢様であることは確信していたが(琴葉さんもお嬢様って呼んでたし)、改めてそのことを思い知らされた感じだ。

 それからもう二、三分、車は高級住宅地の中を走り、そして――

「すご……」

 ――俺は、茫然と息を飲んだ。

 俺たちを乗せた車が停まった家は、居並ぶ高級住宅の中でも群を抜いて大きかった。

 家というよりもはや宮殿だ。

 本当にこんなところに住んでいるのかと一瞬疑ったが、玄関の脇にはしっかり“御影”と記された表札が飾ってある。

 麻夕ちゃんがお金持ちのお嬢様だということはもう十分分かってはいたのだが、それでもまさかここまでとは思わなかった。

 ……それじゃあ俺はあの夜、こんなお屋敷に住んでる子をあんなボロアパートに連れて行ったのか。思い出したら頭痛がしてきた。

 琴葉さんが車の中からリモコンを操作すると、厳めしい玄関門がゆっくり音を立てて開いた。そして車は俺たちを乗せたまま、家の敷地の中に入って行く。

 家の門を車で通り抜けるなんて、俺にとっては当然人生で初めての経験だ。

 それから琴葉さんは車を車庫に入れ、俺と麻夕ちゃんをお屋敷の中へと案内してくれる。

 途中、俺がきょろきょろ辺りを見回していると、ふと琴葉さんと目が合った。

 琴葉さんはにこりと微笑んだが、なんとなく馬鹿にされた気がして、俺は前を行く琴葉さんの後ろ姿を一心に見つめることにした。うむ、素晴らしい曲線美だ。

「どうぞお上がりください」

 琴葉さんはまた玄関扉を先に開けて俺たちを中に招き入れてくれる。

「お邪魔します」

 一言断って、家の中に入る。

 ――と、

「――――」

 家の中に入った途端、再び俺は圧倒された。

 広い。めちゃくちゃ広い。エントランスだけで、多分俺の住んでる部屋より広い。

 上を見上げると、無数のガラス細工を身に纏ったシャンデリアが、煌々と光を湛えている。

 床も当然のように大理石だし、白を基調とした内装はシミ一つなく、その清潔さはもはや病的と言っていいほどだ。

「いらっしゃい、慶太」

「ようこそいらっしゃいました、慶太様」

 麻夕ちゃんと琴葉さんは先に廊下に上がり、いまだに玄関で呆けている俺に歓迎の言葉をかけてくれる。

 こんなお屋敷に入れる日が来ようとは――なんだか、他人の人生に迷い込んだ気分だった。

「お邪魔します」

 もう一度そう言って、俺も廊下に上がらせてもらう。

 つい先ほどきょろきょろするのは止めようと思ったばかりだが、御影家邸宅のあまりの壮麗さに、ついまた目があちこちに奪われてしまう。

 元々俺は城とか寺社とか、そういった建物を見るのが好きなのだ。どれくらい好きかというと、外出嫌いの俺がたまに一人でぶらっと見に行くくらい好きだし、再来世は建築家になろうかと考えているほどである。ちなみに来世は検察官、今世は未定である。

 だから俺が落ち着かない子供のようにきょろきょろしてしまうのも、仕方のないことだと思って勘弁してほしい。

「では、私はお食事の支度をしてまいりますので、しばらくはお嬢様の部屋でごゆっくりお寛ぎください」

「分かりました」

 琴葉さんはぺこりと優雅にお辞儀をすると、そのまま家の奥へ行ってしまった。

 料理も当然メイドの仕事だ。今夜は俺にも、琴葉さんがお手製料理を振舞ってくださるらしい。夕食がとても楽しみだ。

「じゃあ、私の部屋に案内するね」

 そう言って、麻夕ちゃんはとたとたと俺を先導する。あの日とは立場が逆になったなと思うと、感慨深いものがある。

 麻夕ちゃんの部屋か……きっといい匂いがするんだろうな……。

 そういえば、とてつもない豪邸を前に完全に舞い上がってしまっていたが、ここは麻夕ちゃんの家だ。

 つまり俺は本日、人生で初めて、他所の女の子の家に入ったのである。

 そんな大事なことを忘れていたとは……なんだか、無性に感動してきた。

 しかも、今から麻夕ちゃんの部屋に案内してくれるらしい。

 いつも麻夕ちゃんが座っている椅子、いつも麻夕ちゃんが勉強している机、いつも麻夕ちゃんが寝ているベッド――

 ダメだ、俺の思考回路が暴走しかけている。

 けど、ここまで来たらすっぱり腹を切り――もとい、腹をくくり、せめて男らしく堂々としていよう。最近はそう思って実際に堂々とできていたことなんてないけれど、今度こそ。

 この歳になって女の子の部屋に入るくらいで動揺していてはさすがに恥ずかしい。

 たとえ部屋に麻夕ちゃんの下着が落ちていたとしても、俺は絶対に平静を保ってみせる。

 麻夕ちゃんの後ろで静かに呼吸を整える。

 さて、それでは見せていただこうか。麗しき御影麻夕ちゃんの、芳香に満ちたプライベートスペースを――

 

 

 ●

 

 

「すご……」

 再び口をついて出てしまう感嘆の声。

 麻夕ちゃんの部屋は、まさしく中世ヨーロッパのお姫様の部屋のようだった。

 まず部屋に入った瞬間、花のような香りが鼻腔を満たし、俺の意識を昇天させる。これがアロマやコロンの匂いなのか、それとも麻夕ちゃん自身の匂いなのか、俺には判別がつかなかった。

 広さは俺の住んでる部屋の倍以上ある。ベッドはダブルサイズくらいの大きさで、目に見えてふかふかで、当然のように天蓋付き。瀟洒な化粧棚に、ガラス張りの丸テーブルと座り心地よさそうな椅子が二脚。

 麻夕ちゃんでは半分くらいしか手が届きそうにないほど背が高い本棚にはびっしりと本が詰まっており、教科書や辞書が並べられている勉強机でさえ、極めて精巧な細工が施されている。

 部屋のあちこちに可愛らしい人形やぬいぐるみが並べられているところはいかにも麻夕ちゃんらしい感じがするけれど、部屋には埃一つなく(琴葉さんが毎日掃除しているのだろう)、正直俺の乱雑な部屋と同じ次元に存在している空間だとは思えない。麻夕ちゃんが俺の部屋で何の病気にも罹らなかったことが、なんだかとても不思議なことのように思えてきた。

「いい部屋だね」

 俺は素直にそう言った。

「ありがとう。ね、座って」

 俺はあのもふもふのベッドに頭から突っ込みたくなる衝動をなんとか堪えて、麻夕ちゃんに勧められたとおり椅子に腰をかける。

 そして改めて部屋を見渡すが――本当に、御伽噺の世界の中にいるような心地がした。

「俺の部屋覚えてる? 床に本とかゲームとか積んであってさ。ごめんね、あんな汚い部屋に連れて行ったりして」

 この部屋に比べたら、物置きよりもなお汚いと思われるような俺の住処。今日も二人が来るということで、念の為綺麗に掃除をしておいたのだけど、この家の清潔さに比べれば、あれでも家畜小屋のようなものだろう。

 まあ、何だかんだ言っても俺はあの部屋をとても気に入っているのだけど。

「そんなことないよ。とってもいい部屋だったと思う。暖かかったし、嬉しかった」

 そう言ってくれる麻夕ちゃんは、やっぱり優しい。

 確かにあの日は寒かったからなぁ。一晩中外にいたら、間違いなく風邪をひいたことだろう。

 けど――

「あれから三日か……まだ全然経ってないけど、なんだかもう懐かしいね。麻夕ちゃんとも、久しぶりに会った気がするし」

 本当にそんな感じだった。

 ずっとメールのやり取りをしていたからか、たった三日、しかも会うのはまだ二回目だというのに、仲のいい友人にしばらく会ってなかったような気がするのだ。もっとも、俺にそんな友人はいないけれども。

 それにあの夜、俺は思ったのだ。

 もう会うことなんてないだろうな、と。

 所詮は輝かしい未来のある少女と、未来など過去に置き忘れてきたフリーター男。

 普通であれば、絶対に交わらなかったであろう二人の人生。

 にもかかわらず、こうして今、俺が麻夕ちゃんの部屋にいて、机を挟んでお喋りしているというのは、なんだか奇跡のようにさえ感じられた。

「私もそんな気がする。初めて会ってからまだ三日しか経ってないし、毎日メールしたり電話したりしてたのにね」

 麻夕ちゃんはくすっと笑う。

 不思議な感覚だったけど――でもこうして麻夕ちゃんと一緒にいて、麻夕ちゃんの笑顔を見ていられるのは、とても幸せだと思った。

「えっと――この前は、本当にありがとう」

 唐突に、麻夕ちゃんが照れた調子でそんなことを言い出した。この前というのはもちろん麻夕ちゃんが家出したときのことだろう。

「いいよ。俺、特別なことは何もしてないし」

 そう、ただ単に、常識的な大人の行動を取ったまでだ。

 本当に、特別なことなんて何もしていない。

「でも、ヘンな男たちから助けてくれたし」

 ヘンな男と聞いて苦笑する。

 確かに変だった。あんな恰好や行動、俺には恥ずかしくて絶対にできない。

 けど俺としては、あの時のことはあんまり思い出したいものじゃない。本当に、まったくもって情けない限りだった。

「あれは運が良かっただけだよ」

「でも、焼きうどん作ってくれたし」

「元々作る予定だったんだ。感謝されるようなことじゃないよ」

 俺が今日琴葉さんからもらったベルギーチョコレートや、これからご馳走になるディナーに比べれば、全然大したものじゃない。

 まさか、今日の夕食があの焼きうどん以下ということはないだろう。

「でも、私のこと励ましてくれたし……その、みんな私のこと、大切に思ってくれてるからって。とっても嬉しかった」

「あれも思ったことを言ったまでだよ」

 ……そのこともできれば思い出したくない。

 あの時は調子に乗って、あれこれ恥ずかしいことを言ってしまった。

 完全に黒歴史だ。思い起こすだけで、顔から火が噴きそうになる。

「でも――」

 それでもなんとか食い下がろうとする麻夕ちゃん。

 その様子が少しおかしくて、俺は笑いながら、

「どういたしまして」

 と言った。

 麻夕ちゃんもそれで満足したようで、ふんわりと微笑んだ。

「あと、ごめんね。家の人には慶太の家に行ったこと、内緒にしててって言われてたのに」

 一転して、今度は謝り出す麻夕ちゃん。

 メールでも電話でも謝ってたし、メールでも電話でも気にしてないって言ったのに、本当に純粋というかなんというか。

「いいよ。内緒にするのは難しかっただろうし、琴葉さんは分かってくれてるみたいだし。俺の方こそ、無理言ってごめんね」

 そう、俺の方こそ自分の都合を優先して、麻夕ちゃんの立場をちゃんと考えていなかった。

 どちらが悪いかといえば、俺の方だ。

「ううん、そんなの……」

 麻夕ちゃんがまだ何か言おうとしたところで、コンコンと軽やかに扉が叩かれた。

 入ってという麻夕ちゃんの声に失礼しますと断って、琴葉さんがティーカップを二つ乗せたお盆を持って部屋に入ってきた。

 琴葉さんはどうぞと言いながら、ゆらゆらと湯気の立つカップを楚々とした所作でテーブルに置く。滑らかなキャラメル色をしたミルクティーの甘い香りが、麻夕ちゃんの部屋にふんわりと漂う。

 そして……なんと琴葉さんは、いつの間にかお着替えになられたようで、見事なまでにエプロンドレスを着こなしている。いわゆる、メイド服というヤツだ。シンプルなロングドレスなのだけど、そのクラシックな落ち着いた感じが琴葉さんの魅力を存分に引き立てていた。

 いや、いいものを見せてもらった。違和感なんて欠片もないから、着替えたことに一瞬気づかなかったほどだ。

「すみません、こんなにおもてなししていただいて」

 ベルギーチョコレートに始まり、高級車でのドライブ、さらにこんな豪邸にまで招いていただいて。

 百円貸したら百万円返されたような気分だ。さすがに気後れしてしまう。

「いいえ、慶太さんはお嬢様にとっても私にとっても大恩人でございますから」

 琴葉さんは柔らかくそう言うと、再び失礼しますと断って、麻夕ちゃんの部屋から出て行った。

 大恩人か……。

 まあ、確かにあの時、偶然俺が居合わせなければ麻夕ちゃんがどうなっていたかと考えると、少し怖いところではある。

 けれども、そんなことは麻夕ちゃんとお知り合いになれてこうしてお喋りできるだけで、十分お釣りがくるというものだ。さらに琴葉さんともお会いできて、いろいろおもてなししていただいて、俺からすれば大借金なんだけどな。

 紅茶に砂糖はついてなかったが、飲んでみると深い紅茶の風味の中にまろやかな甘みがあり、とてもおいしかった。

 麻夕ちゃんから俺が甘党だということは聞いていたらしいが、だから紅茶も甘めにしたのだろうか。

 いい茶葉を使っているというのもあるだろうが、それにしたってこんなに美味しい紅茶がこの世にあるとは思わなかった。この味に慣れたら、もう安いペットボトル飲料なんて飲めなくなってしまいそうだ。

「紅茶、おいしいね」

「うん、私も琴葉の入れてくれた紅茶が大好きなの。琴葉はね、勉強もできるし、ピアノやヴァイオリンも弾けるし、絵も上手だし。私、全部琴葉に教わってるの」

 胸を反らし、誇らしげに琴葉さんのことを語る麻夕ちゃん。

 なるほど、琴葉さんはただ麻夕ちゃんの身の回りの世話や家の管理をするだけじゃなくて、そういった麻夕ちゃんの家庭教師的な役割も担っているのか。

「それにお料理もお裁縫もとっても上手だし。とにかく琴葉はすごいんだよ」

「すごいね……」

 いや、もはやすごいとかいう次元を越えている。おまけに容姿も絶世の美人だし。

 天は二物を与えずというが、あれは嘘だ。琴葉さんには無数の長所や才能を与えておきながら、逆に俺には何も与えてくれなかったのだから。

 しかし、これだけ完璧となると、何か弱点を探したくなるものだが……。

「琴葉さんって、何か苦手なものないの?」

「琴葉の苦手なもの? うーん……なんだろう……。ピーマンも食べられるし、虫とかお化けとかも平気だし……」

 麻夕ちゃんは人差し指を顎にあて、思案顔で考え込む。

 けど、よく分かった。麻夕ちゃんはピーマンと虫とお化けが苦手なんだな。

「……あ」

 しばらくむむむと考えていた麻夕ちゃんが、ふと声を上げる。

「どうしたの?」

「琴葉はね、くすぐり攻撃に弱いの」

 …………。

「時々ね、いきなり私にこちょこちょしてきたりするんだけど、私がやり返すとすごいくすぐったがってすぐに降参するの」

 ……そうか、琴葉さんはくすぐり攻撃に弱いのか。

 使いどころの難しい情報だな。仮に俺がいきなり後ろから琴葉さんの脇腹をくすぐったりしたら、その場で切り捨てられたとしても文句が言えない。まあ、想像する分にはとても面白いけれど。

 でも――

「麻夕ちゃんもくすぐり攻撃弱いの?」

「え?」

 麻夕ちゃんは、ちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべる。

「うん、琴葉ほどじゃないけど、結構弱いかも……」

 ……くすぐりたい。麻夕ちゃんをくすぐりたい。俺の両手十本の指を全力で駆使して、麻夕ちゃんをくすぐり回したい。

「慶太は平気なの?」

「俺? へっちゃらだよ」

 嘘だ。本当は俺もくすぐられるのにはめちゃくちゃ弱い。脇腹をつつかれることを想像しただけで、電流が流れたように体がびくっとなる。けど、自ら弱点を明かすなんて愚の骨頂だ。これは秘密にしておこう。

「ホント?」

「本当」

「試していい?」

「ダメ」

「…………」

「…………」

 麻夕ちゃんは椅子から立ち上がると、俺の方に歩いてくる。

 そしておもむろに俺の脇腹に向けて指を伸ばす――

 反射的に、図らずとも麻夕ちゃんの手を握ってしまった。……本当に麻夕ちゃんの手、小さいな。腕もすごい細い。だけどとても柔らかくてすべすべしてて、気持ちいい。

「へっちゃらだったら大丈夫でしょ?」

 麻夕ちゃんは口を尖らせて、じとっと俺を見る。

「へっちゃらだけど、大丈夫じゃないの。俺に攻撃するんだったら、俺も麻夕ちゃんにくすぐり攻撃しちゃうけどいいの?」

「うぅ、それはダメ」

 潔く諦めると、麻夕ちゃんは自分の椅子に戻る。

 ……ちょっともったいなかったかな。うまくいけば、麻夕ちゃんとくすぐり合戦できたかもしれない。

 まあ、いいか。

 あんまり調子に乗ると本当にろくなことにならないから。こうやって楽しくお喋りできるだけで十分だ。

「麻夕ちゃんは小さい頃からずっと琴葉さんと一緒にいるんだよね?」

「うん、そうだよ。私が生まれた時からずっと傍にいてくれてるの」

 そう、それはメールでも聞いた話だ。

 麻夕ちゃんは幼い頃からずっと琴葉さんに面倒を見てもらってきたらしい。

 麻夕ちゃんと琴葉さんの関係は、今日少し見ただけで手に取るようによく分かった。

 本当に、仲良し姉妹みたいだ。

「じゃあ、琴葉さんのことは何でも知ってるんだね」

 多分、そうなんだろう。逆に琴葉さんも、麻夕ちゃんのことを誰よりも深く理解しているはずだ。

「何でもかどうかは分からないけど……でも、たくさん知ってるとは思う」

 たくさん、か。

 俺にはそんなふうに言える人はいないから、そういう互いに信頼しきった関係がちょっと羨ましく思えた。

 友達であれ、恋人であれ、家族であれ……いつか俺にも心の底から信頼し合える人ができるのだろうか。

 ……ダメだな、俺。

 一人で勝手にセンチメンタルになってしまったが、そんな思いを頭から払拭しようと再びぐるっと麻夕ちゃんの部屋を見渡すと、今度はあるものが俺の目に留まった。

 麻夕ちゃんの勉強机の上に飾ってある、二枚の写真立てだ。

「ねえ麻夕ちゃん、あれ見てもいい?」

「え?」

 俺は机の上の写真立てを指で示す。

「いいよ」

 麻夕ちゃんはそう言うと、わざわざ机の上から写真立てを持ってきてくれた。

「ありがとう」

「うん、どういたしまして」

 まず一枚目の写真を見る。

 それはまるで、天上の楽園を収めたかのような写真だった。

 写真には、満開の桜の木を背景に、二人のとてつもなく可愛らしい女の子と、一人の息を飲むほど美しい女性が写っている。

 三人の女性の真ん中に写っているのが麻夕ちゃんだ。今とあんまり変わらないから、この写真は比較的最近撮ったものなのだろう。

 写真を撮られるのが恥ずかしいのか、ちょっと顔が下を向いているけれど、とても幸せそうに笑っている。

 その麻夕ちゃんの右に写っているのが琴葉さんだ。

 琴葉さんは今日会ってみた感じでは美しすぎて近寄りがたい雰囲気があるけれど、この写真の琴葉さんはとても穏やかな笑みを浮かべている。

 そして麻夕ちゃんの左側に映っている女の子は、俺は会ったことはない。でも話には聞いていたから、この子が誰なのかはすぐに分かった。

 麻夕ちゃんの親友で、琴葉さんの妹のさゆりちゃんだ。

 なるほど、琴葉さんをそのまま幼くしたような顔をしていて、とてもよく似ている。

 さゆりちゃんは三人の中でも、一番の満面の笑顔をほころばせていて、周囲に幸せを振りまいていた。

 三人とも本当に幸せそうで、なんだか見ているこっちまで幸せになってくる、そんな写真だった。

 ――続いてもう一枚の写真。

 こちらは女性が二人に男性が一人で、一枚目の写真と同じように、中央に麻夕ちゃんが映っている。

 こっちの麻夕ちゃんは今よりもちょっと幼く、制服らしきものを着ているが、白桜学園中等部のものとは少し違う。小学生の時に撮ったものなのかな。

 でもやっぱり、恥ずかしそうな面持ちながらも幸せそうなその表情は、さっきの写真と変わらない。

 もう一人の女性は、年齢は三十代半ばくらいだろうか。麻夕ちゃんの肩に両手を置いて、こちらも幸せそうに微笑んでいる。

 多分、麻夕ちゃんのお母さんだろう。目元が麻夕ちゃんにそっくりだ。柔らかく穏やかな笑顔をしていて、俺がイメージしていた通り、とても優しそうな人である。

 ――となると、この男性は麻夕ちゃんのお父さんだろうか。

 うむ、こちらも俺のイメージ通り、渋くて整った顔立ちながら、頑固で厳しそうな顔をしている。

 けれど、写真のお父さんは何だか今にも泣き出しそうで、でも泣くまいと必死に堪えているようで、とても面白い顔になっていた。

 きっと、嬉しさの余り泣きそうになってるんだろうな……。

「フフッ」

「な、何よ?」

 つい堪えきれずに吹き出してしまった俺に、麻夕ちゃんはじとっと目を向ける。

 何でもないよ、何でも。

 でも、こんな写真を飾っているあたり、何だかんだで麻夕ちゃんも家族のことが大好きなんじゃないか。

「素敵な写真だね」

 俺は写真を返しながらそう言った。

「ありがとう。あんまり写真撮られるの好きじゃないんだけど、その二枚は私もとても気に入ってるの」

 麻夕ちゃん、写真を撮られるのは好きじゃないのか。

 俺もそうだから親近感が湧く一方で、麻夕ちゃんの写真を撮ることが困難になったことは少し残念だ。

「こっちの写真はこの前お花見に行った時ので――」

 琴葉さんとさゆりちゃんが写った写真。

「こっちは私が小学校を卒業した時に撮ったの」

 お父さんとお母さんが写った写真。

「麻夕ちゃん、家族のことがとても大切なんだね」

「うん……」

 麻夕ちゃんは照れたように頷く。

「ほら、写真のみんなもとても幸せそうだし、お父さんなんて、麻夕ちゃんが小学校卒業するってことに感極まって泣きそうになってるじゃん」

「うん……」

「やっぱりみんな、麻夕ちゃんのことがとても大切なんだよ」

 俺も言ったでしょ?

「うん……私もそう思う」

 麻夕ちゃんは手をもじもじさせながら、恥ずかしそうに、けれども幸せそうに頷いた。

 その表情に、俺はつい見惚れてしまう。

「……ありがとう、慶太」

 その言葉にどんな意味が込められていたのかは分からない。でも、考える前に言葉が自然と俺の中に入ってきて、すうっと溶けていった。

「どういたしまして」

 

 

 ●

 

 

 午後七時を過ぎた頃、俺と麻夕ちゃんは琴葉さんに呼ばれてダイニングに赴いた。

 ダイニングに入った途端、香しい匂いが俺の鼻腔を満たし、脳が胃に臨戦態勢への移行を命令する。

 テーブルには、すでに豪勢な料理が並べられていたのだが……いや、いくらなんでも豪勢すぎやしないか、これは。

 綺麗な焼き色のついたステーキに、魚の蒸し焼き、サラダ、スープ、ご自由にお取りくださいとばかりにテーブル中央に積まれたパン。挙句の果てには高そうなワインまで用意されており、麻夕ちゃん用なのか、ワインと見た目のまったく変わらない葡萄ジュースまで完備されている。

 明らかに一般家庭の夕食で出るものではない。王侯貴族の宮廷料理だと言われれば納得のメニューだ。

 俺がこんな豪華な料理を目にするのは、もう何年も前に両親の結婚記念日を祝って高級レストランに行ったとき以来のことだった。

「どうぞ、こちらにお座りください」

 料理が一流なら、ウエイトレスの配慮や物腰も一流である。

 もっとも、今日はコックもウエイトレスも同一人物で、コックでもウエイトレスでもなく、メイドさんなわけだけれども。

 俺は料理の豪勢さに呆気にとられながら、琴葉さんに勧められた席に座る。

 そして麻夕ちゃんが俺の向かい側に、琴葉さんは麻夕ちゃんの左隣にそれぞれ着席する。

「それでは、ごゆっくりお召し上がりください」

「いただきます」

 麻夕ちゃんが行儀良く挨拶し、慣れた手つきでナイフとフォークを操って、さっそく料理を食べ始める。

 それを見て俺も手を合わせ、いただきますと唱えてから、まずは目の前に鎮座するステーキを口に運ぶ――

「うますぎる――」

 ――心の底からの感想が漏れた。

 まさに絶品だ。肉はとろけるように柔らかく、油にはまろやかな甘みがある。お世辞でも過大評価でもなく、間違いなく今までに食べたステーキの中で一番うまい。

 いったいどんな肉を使っているのだろうか。きっとこの牛は、生前はさぞやいい暮らしをしてたんだろうな……。

 ふと顔を上げると、琴葉さんがくすくす笑っている。右手で口元を軽く押さえて、笑い方も上品なことこの上ない。

「どうかしました?」

「いえ、申し訳ありません。慶太様が本当においしそうにお召し上がりになるものですから、つい。お気に召しましたようで、何よりです」

 ……むむむ。

 なんだか少し馬鹿にされたような気もするが、麻夕ちゃんも笑っているし、何より料理がおいしいので、まあいいかと思い直して豪華なディナーを食べ進める。

 けど、本当においしい。ステーキももちろんだが、香ばしい魚の蒸し焼きも、旬の野菜をふんだんに使った彩鮮やかなサラダも、温かいオニオンスープも、全部本当においしい。

 なんだか、もう今死んでもいい気がしてきた。最期の晩餐がこんな贅を凝らした料理だったら、もはや何も思い残すことなく喜んであの世へ旅立つことができるだろう。

 それにしても……麻夕ちゃんはいつもこんな料理を食べていたのか。あの日、得意げに焼きうどんなんて振舞った自分をぶん殴ってやりたい。

「そう言えば、慶太様は一人暮らしなんですよね?」

 琴葉さんが、思い出したように口を開いた。

 それくらいのことは麻夕ちゃんから聞いているのか。いやまあ、あのアパートを見れば大方予想もつくだろうけど。

 でも、俺が甘い物好きなことも知ってたし、やっぱり麻夕ちゃんに言ったことは大体琴葉さんも知ってると考えた方がいいな……。

「ええ、そうですよ」

「お料理もなされますか?」

「しますけど、簡単なものしか作れませんね。味も大したことないですし」

 本当に、琴葉さんに比べたら料理ができるなんて恥ずかしくて口に出せない。

「けど、慶太の作ってくれた焼きうどん、とってもおいしかったよ」

「――――」

 感動して涙が出そうになった。

 ありがとう、麻夕ちゃん。琴葉さんの料理に比べたら豚の餌も同然だったかもしれないけれど、俺の焼きうどんをおいしそうに食べてくれた君の姿を、俺は忘れない。

「お料理が好きというわけではないのですか?」

「好きではあるんですけど、正直言うと面倒だと思う気持ちの方が強いですね」

 料理というより、その後の洗い物が面倒なんだよな。

 それに一人暮らしで自分の飯だけ作っていると、食べてくれる人もいないから、その分モチベーションを維持しづらい。琴葉さんも、麻夕ちゃんにもっとおいしい料理を食べてもらいたいと思って腕を磨いたんだろうし。

「そうですか? 手間をかければかけるほど料理はおいしくなりますし、楽しいと思いますけど」

「いやぁ、料理を食べてくれる人がいればそうかもしれませんけど、自分の分だけ作るんだったらできる限り簡単に作りたいですね」

 そう、俺の家の台所は、この家のように設備も整っていないし、食材も高いものを買うことはできない。

 俺が料理に際して考えることは、いかに安く、早く、多く作れるかということなのだ。味は二の次である。

 まあ、おいしく作れるのであればそれに越したことはないけれど。

「そうですね。確かに、私も食べていただく人がいなければここまで手の込んだものを作ろうとは思いませんものね」

 良かった。琴葉さんの認識でも、このメニューは手の込んだものなんだ。琴葉さんならこの程度、俺が適当にチャーハンを作るのと同じ感覚で作っているのかと思った。

「麻夕ちゃんも料理するの?」

 そう言えばと思って、麻夕ちゃんにも訊いてみる。

 すると、麻夕ちゃんは小さな口を尖らせて、しばらく間を開けた後、

「…………しない」

 拗ねたような感じでぼそっと答えた。

 ちょっと意外だった。

 琴葉さんからいろいろなことを教授されている麻夕ちゃんだから、当然料理も教えてもらっているものだと思っていた。

「お嬢様は美術や音楽などの芸術方面の才能が優れておいでですから、料理に関してもその独創性をいかんなく発揮されてしまうのです」

 琴葉さんはオブラートに言葉を包みながらも、どことなく疲れた面持ちを見せる。

 いったい麻夕ちゃんの独創性がどのように発揮されたのかとても気になるところだが、多分知らない方が幸せなんだろう。

「それに、危なっかしくて包丁なんて持たせられませんし、家が火事になりかねませんから火を使うのもご遠慮願いたいところです」

 ……そこまでのレベルなのか。

「だって仕方ないじゃん! 野菜切るの難しいし、フライパン重たいし!」

「ええ。ですから料理は私たちに任せて、お嬢様は食べていただくだけでいいのです」

 私たちって、俺もなのか。

 琴葉さんの作った料理を食べた後に俺の飯なんて食わせたら、クレームが来るどころかクーデターが起こっても仕方がない。

 麻夕ちゃんだって、下手したらまた家出してしまうんじゃないだろうか。

「ううん、でも……」

 麻夕ちゃんがちらっとこっちを見る。麻夕ちゃんも料理ができるようになりたいのだろうか。

 俺としては、別に麻夕ちゃんが料理をする必要なんてないと思うけどな。

 俺は必要に迫られたから自炊してるけど、そうじゃなかったら絶対自炊なんてしなかった。

 でも、女の子にとっては料理というのは重要なスキルだ。麻夕ちゃんもそういった認識は持ってるのかもしれない。

「別にしたいわけじゃないんだったら料理なんてしなくてもいいんじゃないかな?」

 そうかな……とまだ悩む麻夕ちゃん。

「……慶太は、女の子に料理作ってもらえたら、嬉しい?」

「俺? もちろん嬉しいけど」

 嬉しくないわけがない。

 男なら誰だって、女の子の手作り料理に憧れるものだろう。それが麻夕ちゃんみたいな美少女からだったらなおさらである。

 麻夕ちゃんが俺のために作ってくれた料理であれば、たとえ砂を固めたようなものだったとしても、俺は歓喜の涙を流しながら食べきって見せる自信がある。

「やっぱりそっか……」

 そう言って、麻夕ちゃんはしゅんとしてしまう。

 可愛いなぁ……誰か、料理を作ってあげたい相手でもいるのだろうか。

「琴葉、やっぱり私に料理教えて!」

「別にかまいませんが……」

 俺の方を意味あり気にみる琴葉さん。

 なんというか、面白い悪戯を思いついた子どものような目をしている。

「慶太様に教えていただいてはいかがですか?」

「え!?」

 変なことを言い出す琴葉さんと、何故か大げさに驚く麻夕ちゃん。

 麻夕ちゃんに料理を教えるというシチュエーションにはそそられないでもないが、麻夕ちゃんの立場から考えるとやっぱり微妙じゃないだろうか。

「いや、俺、炒め物とスープくらいしか作れませんよ? それに、ホント手軽なものしか作りませんから、麻夕ちゃんには向かないんじゃないですか?」

 男の立場からすれば、可愛い女の子からであればどんなものをもらっても嬉しいものだが、麻夕ちゃんからすると、好きな男の子にはフリーター野郎の節約料理なんかよりも手間暇かけた愛情を込めたものを贈りたいだろう。

 技術的な面でいえば、俺は琴葉さんの足元にも及ばないんだし、琴葉さんが教える方が妥当だと思うけどなぁ。

「そんなことないと思いますよ。私だけではなくいろんな方の味付けを学んだ方が、料理により奥深さが増すと思いますし。特に男の方であれば、私とは違った意見を出していただけそうです」

「意見であれば、それこそ食べるだけで十分じゃないですか?」

 食べて意見を言うだけならば俺にもできる。男の観点からの意見がほしいというのであれば、是非俺を頼ってほしい。

「では、とりあえず二人で教えるということにしましょう」

 結局俺の必要性が分からないまま、琴葉さんがそう結論付けた。

 まあ、麻夕ちゃんと一緒に料理をするなんて、考えただけで心が躍る。

 一緒にサンドイッチでも作って、この家の庭でランチなんてしたら、それはもう楽しいことだろう。

 そう思って麻夕ちゃんの方を見ると、麻夕ちゃんは頬を染めて恥ずかしそうに俯いていた。

 

 

 ●

 

 

 それからも取り留めのない会話を交えながら、俺たちはゆっくり料理を食べ進めた。

 俺もだんだんこの場違いな雰囲気に慣れてきて、純粋に食事を楽しむことができていた。人間の環境適応能力はやはり凄まじい。

 そうして楽しい時間も過ぎていき、最後にデザートのアップルタルトを食べ終わったところで、俺たちは揃ってごちそうさまの挨拶をする。

 食事が終わり、俺は椅子に座ったまま、ふーっと大きく息をついた。

 いやぁ、満足も満足、大満足だ。

 料理は全部この上なくおいしかったし、ものすごく高そうなワインも飲ませてもらった。

 麻夕ちゃんや琴葉さんとたくさん話せたし、二人についてまたいろいろなことを知ることができた。

 俺の全身、全内臓がかつてない幸福に打ち震えている。

 ただ一つ、満足していないのは肺だけだ。すまぬが愛しき我が肺よ、タバコは我慢しておくれ。

 麻夕ちゃんは俺の向かい側の席に、まだちょんと座っている。

 特に何をするでもなくまったりしているが、ふと俺と目が合うと、ちらっと笑ってキッチンの方に視線を移した。

 キッチンでは琴葉さんが、三人分の食器を素晴らしい手際で洗っている。

 俺も手伝いますと言ったのだが、にべもなく断られた。

 お客様なんですからと言われてしまえば、それ以上どうすることもできない。

 時計を見ると、もうすでに夜八時を回っていた。

 さて――夕食もご馳走になったことだし、そろそろお暇する時間かな。あんまり遅くまで居座っては迷惑だろうから。

 琴葉さんの洗い物が終わったら、申し訳ないけど家まで送ってもらうことにしよう。

 今日は本当に楽しかった。初めはとても緊張したけれど、麻夕ちゃんと話せて、琴葉さんと会えて、本当に良かった。

「慶太様、お飲み物はいかがですか?」

 ふと、キッチンから琴葉さんが俺に声をかける。

「えーと……では、水を」

 せっかくの厚意を断るのも悪いので、とりあえずお水を注文する。

「お水ですか? ワインもまだありますし、ビール、焼酎、日本酒、ウイスキーなどなど、なんでもございますが?」

 この人、まだ俺に酒を飲ませるつもりなのか。

 食事中もグラス三杯くらいワインをいただいてしまったが、これ以上飲み出したら止められなくなる。

 何と言ってもうまいのだ。ワインもすごくフルーティで飲みやすかった。

 正直、確かにもっと飲みたいという気持ちは強いのだが、ここは丁重にお断りして――

「どうぞ」

 俺が答える暇もなく、洒落たコースターの上になみなみとワインを湛えたグラスが音もなく置かれた。

「いただきます」

 結局飲んだ。

 俺がワインをちびちび飲んでいると、琴葉さんが麻夕ちゃんにも例の葡萄ジュースが注がれたグラスを持ってくる。

 それからもう一度キッチンに赴いて、グラスをもう一つと、チーズとチョコレートが乗ったお皿を持ってダイニングに戻ってきた。

 すると、琴葉さんはそのグラスに葡萄ジュースではなく赤ワインを注ぐ。

 琴葉さんも食事中はお酒を飲まず、麻夕ちゃんと同じ葡萄ジュースを飲んでいたのだが……

「琴葉さん、それワインですよ」

「ええ、存じておりますよ」

 ボトルを間違えたのかもしれないと思って一応言ってみたのだが、琴葉さんは事もなげにそう答える。よりにもよって、先に一口飲んでから。

「――――」

 ……仕方ない、歩いて帰るか。

 まあ、結構時間がかかるとはいえ歩けない距離じゃないし。高級住宅と星空を眺めながら帰るのも乙なものだろう。

「どうされました? お帰りのことですか?」

「あ……ええ、まあ……もう遅いですし、そろそろお暇しようかと……」

「あら、歩いて帰るには遠いですよ? 私も今日はお酒を飲んでしまいましたし……明日私が送りますからどうぞご心配なく」

 …………?

 それってつまり――

「では、今日は?」

「ここにお泊りになってください。慶太様には客室をご用意しますから」

 いやさすがにそれはダメだ。ダメ、絶対ダメ。何がダメって、こんなに可愛い女の子とこんなに美しい大人の女性と、別の部屋とはいえ同じ家の中で寝たりしたら、俺の精神がもちそうにない。

 しかもこんなに上等なお酒を飲ませてもらって、割と真剣に、酔っぱらった勢いで自分が何かしでかさないかが怖い。

「いやぁ、さすがにそれは申し訳ありませんので……お嬢様も、他所の男と同じ屋根の下で寝るのは怖いんじゃないですか?」

 ちらっと麻夕ちゃんの方を見やると、麻夕ちゃんはきょとんと首を傾げて、

「慶太だったら大丈夫だよ?」

 なんてことを言ってくる。よし、それじゃあ同じベッドで寝よう。あのふかふかのベッドの中で、麻夕ちゃんのほっぺをむにむにしまくってやる。

「ほら、お嬢様もこう言っておられますし。それとも慶太様、寝てる間にお嬢様に何かされるつもりなのですか?」

 そ、そんなつもりはない。そんなつもりはないのだが、人間なんて所詮弱い存在だから、いつ何が起こるか分からないというか……。

「大丈夫です。もし慶太様が変な気を起こされた場合は私が責任を持って始末して差し上げますし、ご不安であれば寝るときはベッドに縛り付けて差し上げても構いませんよ?」

 怖い単語が聞こえたが、気のせいか言い間違いであることを信じたい。そして俺は、縛られて喜ぶような性癖は持っていない。

「どちらも遠慮願いたいです」

「そうですか? それでは夜も長いことですし、引き続きごゆっくりお寛ぎください」

 ……今日の一番の教訓は、どうあっても琴葉さんには逆らえないということである。用意周到というか、勝負が始まった時にはすでに盤面は詰んでいる。俺の如き卑賤のものでは、逆立ちしたって琴葉さんには敵わないらしい。

 

 とまあこうして、俺はなし崩し的に麻夕ちゃんの家でディナーをご馳走になったかと思えば、そのまま一晩御厄介になることになったのである。

 今この家には、俺以外には麻夕ちゃんと琴葉さんしかいない。男一人に美女二人。

 もちろん、手を出そうなんてつもりは毛頭ない。据え膳喰わぬは男の恥? そんなのは獣の理論だ。我々高度な知能を持った人間は、どのような状況においても理性を保たなければならない。

 でも――何かが起こることを少し期待してしまう辺り、男というのは悲しい生き物だなぁと、思わずにはいられないのだった。

 

 

 ●

 

 

 くいっとお猪口を傾けて、中身を全部綺麗に飲み干す。

 今飲ませてもらったのは、結構有名な日本酒らしい。

 俺は日本酒のことはあんまり詳しくないので銘柄は知らなかったが、とりあえず大吟醸というだけで、そうそう飲める代物じゃないということはよく分かった。

 結局、あれから俺は琴葉さんに勧められるがまま、古今東西多種多様のお酒を楽しませてもらっていた。

 ああ、うまい。お酒おいしい。絶世の美女を肴にこんないいお酒を飲めるなんて――俺は今、もしかしたら人生で初めて、心底生まれてきてよかったと思っていた。

 麻夕ちゃんはダイニングから追放された。

 明日提出しなければならない学校の宿題が、どうやらまだ終わっていなかったらしい。

 先週出された課題らしいが、休日は家出の件でドタバタしていたし、今日もずっと俺の喋り相手になってくれていたから全然やってなかったそうだ。

 家出のことがあったにもかかわらず、ちゃんと麻夕ちゃんの宿題状況まで把握しているあたり、さすがは琴葉さんというべきだろうか。

 麻夕ちゃんの宿題が進んでいないのは俺のせいである部分も大きいから、手伝おうかと申し出たのだが、それは麻夕ちゃんに断られてしまった。

『宿題、手伝おうか?』

『いいよ、大丈夫。自分でやらないといけないことだから』

 本当に純粋でいい子だと思う。琴葉さんもよくあんないい子を育てたものだ。

 ここまでピュアなスウィートエンジェル、この世のどこを探したって二人といないだろう。

「いい飲みっぷりですね」

 またもやグラスを空けた俺に、琴葉さんが賞賛の言葉を贈る。

 その言葉が、ますます飲むスピードを加速させる。

 ああ――いい気持ち。やっぱりお酒がいいからなのか、今日はすごくいい酔っぱらい方ができている気がする。今の俺ならば、太平洋の水がすべてラム酒だったとしても飲み干してしまえるだろう。

 しかし、俺はともかく琴葉さんも相当飲んでるはずなんだけどな。気づいた時にはグラスが空になっていて、次の瞬間にはまたなみなみお酒を注いでいる。けど顔色は全く変わらないし、話しぶりもしっかりしている。酔っているふうには全然見えない。

「普段はあんまり飲まないんですけどね。でもアルコールには強い方なんで、飲むときは飲みます」

「なるほど、私と同じですね」

 言いながら、琴葉さんもぐいっとウイスキーを飲み干した。

 琴葉さんこそ、いい飲みっぷりである。今の琴葉さんには女神よりも女傑という言葉がよく似合う。

「慶太さんは今おいくつですか?」

 ふと、次のお酒を注ぎながら、琴葉さんがそんなことを訊いてきた。

「二十一ですね」

 琴葉さんより二つ下だ。

「二十一ですか……お嬢様より七つ上ですね」

 そう、麻夕ちゃんとは七つ違いだ。

 丁度、麻夕ちゃんの一.五倍の歳になる。

 ……やっぱり改めて考えると、俺と麻夕ちゃんって結構歳離れてるんだな。

「アルバイトをなされてるんですよね、大学生ですか?」

 ぐさりと俺の心の傷が抉られる。

 しかし今さら取り繕うようなことでもない。俺は正直に言うことにした。

「いえ、フリーターですね。大学は辞めちゃいました」

「そうでしたか」

 俺の内心を察してくれたのか、琴葉さんはそれ以上何も訊かず、再びウイスキーをちびっと飲んだ。

 やっぱり何だかんだ、琴葉さんって優しい人なんだな……。

「恋人はいらっしゃらないんですか?」

 ……前言撤回、別の角度から抉りに来ただけだった。

「いませんね……」

「できたことはございますか?」

 しかも今度は容赦がない。

「ありません……」

 見栄を張っても仕方ない――というか、見栄を張ったところですぐ見抜かれそうだったので、やっぱり正直に答える。

 だけど琴葉さん、さっきからこんなこと訊いて、まさか俺に気があるんじゃ……などという勘違いを、並みの男だったらするのかもしれない。まあ、俺ほどの者にもなると、そんな誤解をすることなんて一切ない。人間の最大の武器はその学習能力だ。これまで自分の歩んできた人生を振り返れば、自ずと答えは出てくる。

 でも、ちょっとくらいは夢を見てもいいのかもしれない。それが夢だと分かっていれば、醒めたところでいい夢だったと思えるはずだ。

「そうなんですか」

 しかし、いろいろ踏み込んだことを訊いておきながら、琴葉さんはそっけない。

 なんだろう、これならむしろ『えーこの歳で彼女できたことないとかありえなくなーい?』とか言ってくれた方がすっきりする。

 ……いや、琴葉さんにそんなことを言われたらこの場で号泣する自信があるから、やっぱり言われなくて本当に良かった。

「なんですか、いいお友達でも紹介してくださるんですか?」

 思い付きで、ちょっと冗談っぽく言ってみる。

 けど、我ながら良いアイデアだ。

 類は友を呼ぶという。

 琴葉さんの友人であれば、その人もきっととても綺麗で上品な人だろう。

「それはできかねますね。紹介できるような友人がいませんので」

 それは、琴葉さんにあまり友達がいないという意味なのか、それとも俺ごときに紹介してやれるような友達がいないという意味なのか。

 どちらにしろ、俺の淡い期待は一瞬にして打ち砕かれたのだった。

「では、琴葉さんは恋人がいらっしゃるんですか?」

「いませんよ」

 やっぱり今はいないのか。もちろんここまでは想定内だ。

「ではいらっしゃったことは?」

「ありませんね」

 俺は目を見開き、大きく息を飲んだ。

 ……なんということでしょう。

 今はいないということは想像がついた。これだけ麻夕ちゃんにつきっきりだったら、恋人といちゃいちゃするような時間なんてないだろう。

 だけど、今までにいたことがないというのは驚いた。

 これほどの美人が、学生時代に一切の恋愛沙汰がなかっただなんて信じられない。

 確かに琴葉さんが通ってたという白桜学園というのは、中等部から大学までは女子校らしいのだが、女子校にだって恋愛をする機会なんていくらでもあっただろう。

 にもかかわらず、そんな一時の酔いにも似た恋愛なんぞを無価値と断じ、清廉高潔に生きてきたその姿は、まさにこの俺に通ずるものがある。

 ……すみません、調子に乗りました。俺は単にしたかったけどできなかっただけで、琴葉さんのように自らの意志でしなかったわけではありません。

「すごく意外そうな顔をしていますね」

 どうやら考えていることが顔に表れていたらしく、琴葉さんは俺の顔を見てくすっと笑う。

「はい。意外でした」

 俺は正直に答える。

「そうでもないと思いますよ? ずっと女子校でしたし、クラブ活動のようなことも一切やっておりませんでしたし」

「それでも、男の人から告白されることは多かったんじゃないですか」

「そうですね。違う学校の方から告白されたことも何度もありましたし、父やご主人様にお供してパーティに行った時にも、よく言い寄られたりしたものです。あと、女の子から告白されたこともありますね」

 やっぱりそうか。どんなに性格が悪くったって(別に琴葉さんの性格が悪いと言っているのではない)、この容姿でモテないわけがない。けれどこの人は、そういった有象無象の愚かな男どもを、あと若干のゆりゆりした女の子たちを、押しなべて切り捨ててきたというのか。

「全部断っちゃったんですか?」

「ええ、そうですね」

 琴葉さんはさらりと答える。

「中にはいいなと思えるような人、いなかったんですか?」

 さすがにそれだけ告白された経験があるのであれば、一人くらいイイ男がいたんじゃないだろうか。並大抵の男では、白桜学園に通う美少女に告白なんてできないだろうし。

「いませんでしたね」

 即答。

「私は昔から、お嬢様と妹一筋でしたから」

 これでは一筋ではなくて二筋ですね、と琴葉さんは笑う。

 それって……

「麻夕ちゃんと妹さんを自分好みに育てつつ、許される歳になったら嫁に迎えようとか、そういう算段ですか?」

 どこかの誰かが同じような人生薔薇色化計画を立ててたな。

「慶太さんじゃないんですから、そんなことは考えてませんよ」

 見透かされていた。

「そんなあからさまに“バレた”って顔をしないでください。ちょっと言ってみただけなんですから」

 ……まさか、カマをかけられたのか。

 そして、俺はそんな分かりやすい顔をしていたのか。

 いや違うんですこれは。

 ちょっと妄想してみただけで、実行に移す気なんかこれっぽっちもないんです。

「慶太さんって思ってたよりいい加減な人ですね」

 俺の繊細な心にひびが入る。

「けど、悪い人ではなさそうで安心しました」

 一瞬でひびが直った。

 安心した――か。

 やっぱり琴葉さん、あの件で麻夕ちゃんと急激に親しくなった俺のことを、警戒してたんだろうな。

 そりゃあ無理もない。

 あんなに可愛くて純粋で、しかも名家のお嬢様。

 過保護になるなという方が無理な話だろう。俺が父親だったら、それこそ年がら年中娘の心配ばかりしているに違いない。

 でも――

 琴葉さんの、今この場にいないお嬢様に向けられた優しい眼差しを見て、俺は一つだけ、失礼かもしれないけど訊いてみたくなった。

「琴葉さんは、麻夕ちゃんのお見合いに賛成だったんですか?」

 こんなに麻夕ちゃんのことを想っている琴葉さんが、あんなにお見合いを嫌がっていた麻夕ちゃんを庇わなかったことが、俺には不思議だった。

 麻夕ちゃんは、琴葉さんも助けてくれなかったと言っていた。

「賛成だったわけではありません。むしろ、本心を言えば、反対でした」

「だったら……」

 助けてあげれば良かったじゃないですかと言いかけて、止めた。

 それは勝手な言い分だ。琴葉さんには、琴葉さんの事情がある。

「そうですね、とても後悔しております」

 上品な笑みの中に、ちらっと影がよぎるのを見た気がした。

「私の雇い主はご主人様――お嬢様のお父様ですから、ご主人様のご意向にはどうしても逆らえなくて……いえ、保身を図って、お嬢様も自分も騙すようなことをしてしまったのですね。お恥ずかしい限りです」

 琴葉さんはまだ、主のいない右隣の席を眺めている。

 そうだったのか……。

 琴葉さんにも立場というものがある。麻夕ちゃんのお父さんから雇われているという立場が。その立場を度外視して物を言うことがどれだけ難しいことか、こんな俺でも想像がつく。少しでも社会を経験したことのある人間だったら、誰だって理解できるだろう。

 だけど、それでもその時のことを後悔しているだなんて、琴葉さんは本当に麻夕ちゃんのことを大切に思ってるんだな……。

「お嬢様は昔から人見知りの激しい子で、特に男の人は苦手でした。でも、慶太様のことはとても信頼されているみたいです」

 麻夕ちゃんから一番信頼されているであろう琴葉さんからそう言ってもらえるのは、とても光栄だ。

「ですから、これからもお嬢様のこと、よろしくお願いしますね」

 そう言って、琴葉さんは柔らかく微笑む。

 その笑顔に、危うく俺はかつて女神の前に散っていった数々の愚か者たちと同じ運命を辿るところだった。

 もう少し酔いが回っていたら、本当にそうなっていたかもしれない。

 

 

 ●

 

 

 それからも俺たちは二人でしこたま飲み続けた。

 麻夕ちゃんが宿題を終わらせてリビングに戻ってきた頃には、俺はすっかり出来上がっていて、呂律も回らない有様だった。

 にもかかわらず、俺より飲んでいたと思われる琴葉さんは、まったく酔っている様子がない。

 しっかりとした足取りでキッチンに赴き、俺のために水を汲んできてくれた。

 俺は一気に水を飲み干す。

 いやぁ――それにしてもいい気分だ。こんなに酒を飲んだのは生まれて初めてだった。普段はまずそんなに酒を飲める金がないし、一緒に飲むような友達もいない。

 もうそろそろお開きの時間かと思って、立ち上がってみると予想外に足元がふらふらした。

「大丈夫?」

 足取りのおぼつかない俺を、麻夕ちゃんが横で支えてくれる。

 俺を心配してくれる麻夕ちゃんは、やっぱり可愛い。

 ただでさえ可愛いのに、俺の身を案じてくれているということで可愛さ百倍だ。

 よろけたふりをして麻夕ちゃんの方に倒れこんで抱きついてしまっても許してくれるかな。

 明日起きて覚えてないふりをすれば――

「ほら慶太さん、客室に案内いたしますね」

 そう言って、琴葉さんは些か乱暴に麻夕ちゃんから俺を引き剥がした。

 こういった扱いを受けるのも、琴葉さんとそれなりに打ち解けることができたからかと思い、内心少し嬉しかった。

 客室に案内してもらった後、琴葉さんからローブとバスタオルを受け取り、今度は風呂場に連れて行ってもらう。

 俺は麻夕ちゃんと琴葉さんの後でいいと言ったのだが、(心の中ではむしろそうしてくれと懇願したのだが)、結局先に入らされてしまった。

「けど、俺の入った後のお風呂なんて、麻夕ちゃん嫌がるんじゃないですか?」

 パパ、先にお風呂入らないでっていつも言ってるでしょ! なんて、年頃の女の子なら言うものなんだろうし。

「この家にはいくつかバスルームがありますから、そんな気を使っていただかなくて構いませんよ」

 ――俺の淡い目論見は、常軌を逸した豪邸の前に潰えたのだった。

 バスルームも清潔感のある白一色の内装で、洗い場も湯船も俺が大の字になって寝転べるほど広かった。

 いつもより入念に体を洗い、ほどよい熱さの湯に浸かりながら、麻夕ちゃんか琴葉さんが『お背中お流ししましょうか』と言って入ってくるのをしばらくの間待ったけど、当然そんなことはなかった。

 風呂を堪能した俺は、体を拭いて髪を乾かし、貸してもらったローブに身を包む。

 下着の替えを持ってきていないのが痛恨の極みだ。

 一日くらい下着を替えないからといって病気に罹るわけでもないけれど、いかんせんこの建物というか空間そのものが清潔なので、その中で一人不潔な恰好でいるのは、グループ行動で一人だけ蚊帳の外に置かれている時のように居心地が悪い。

 けれどないものは仕方ない。

 まさか泊まることになるとは思いもしなかったのだ。

 今度からはしっかり、宿泊道具を一式持ってくることにしよう。まあ、今度があればの話だけれど。

 バスルームから出て用意された客室に戻ると、机の上にキンキンに冷えたコーヒー牛乳が置いてあった。

 まったくもって、どこまでも気の利く人である。

 腰に手を当てて一気に飲み干すと、俺はそのままベッドに倒れこんだ。

 うん、とっても気持ちいい……。

 大きくてふかふかでもふもふ。

 布団に包まれる感覚を堪能していると、急速に意識が遠のいて行くのを感じた。

 最後に麻夕ちゃんと琴葉さんにおやすみの挨拶をしに行こうと思ったけど、もはや俺には眠気に抗うだけの力は残されていなかった。

 だから、心の中で言った。

 おやすみなさい、麻夕ちゃん、琴葉さん。

 今日は本当にありがとうございました。

 こんな人間のクズみたいな俺ですけど、できればどうかこれからも、よろしくお願いします。

 今夜はいい夢が見られそうだという確信めいた思いを胸に、俺の意識は完全に断たれた。

 

 

 ●

 

 

 お嬢様に伴って慶太様にお貸ししたお部屋に行ってみると、慶太様はもうすでにベッドで爆睡しておられました。

 特に用件があったわけではなく、明日の朝食についてお知らせしようと思ったのと、お嬢様がおやすみを言いたいと仰るので一緒に来ただけなのですが。まあ、お酒を飲んでいる時から少し眠たそうな顔をしていましたし、仕方ないでしょう。

 お嬢様は挨拶ができなくて残念そうでしたけど、耳元でおやすみと囁くだけでとりあえず満足していただきました。

 しかしそんなお嬢様の、好きな人を照れながらも優しく見つめるお姿に、私はまたまた見入ってしまいました。

 お嬢様、こんなお顔もされるのですね……。

 今日は慶太様について、いろいろなことを知ることができました。

 慶太様の年齢や職業、趣味嗜好などはもちろんのこと、それ以上に会話の中から慶太さんの人となりというものをよく理解することができました。

 真面目で優しく、賢くて気配りができ、繊細で思いやりがあり――お嬢様がお好きになられたのも、あながち分からないでもない気がしました。

 少なくとも、私が手を下す必要がなさそうで、とても安心した次第でございます。

 ですが今のところはまだ、お世辞にも嬢様に相応しいとは申せませんね。

 良いところがたくさんある一方で、意志が弱く、自信がなく、根気や行動力に欠けるようなところも垣間見えました。

 お嬢様の伴侶となるには、まだまだ修行が足りません。

 お嬢様がこれほどまでに慶太様のことを愛されている以上、私の取ることのできる道は慶太様をお嬢様に相応しいレベルまで引きずり上げることしかありませんから、慶太様には相応の覚悟をしていただきとうございます。

 そして――それは私も同じこと。御影家のメイドとして、私もまだまだ修行中の身です。

 御影家に、そしてお嬢様に相応しい者であれるよう、私も日々精進していかなければなりません。

 しかし、焦る必要はないと思うのです。私も慶太様も。

 お嬢様が大人になられるまでにまだまだ時間はあります。

 お嬢様の成長に伴い、私たちも少しずつ、成長していけばいいのです。

 大好きな人の顔を見つめる幸せそうなお嬢様。

 お嬢様がずっとこんな顔をしていられるように、私も頑張らねばと思うのでした。

 

 

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