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お嬢様は恋煩い  作者: 霧原善光
4/28

第1-3話 初デート

 

 

 

 月曜日に慶太に会えたことは、本当にラッキーだった。まさかこんなに早く、また慶太に会えるなんて思ってなかったし、一緒にご飯を食べて、家に泊まって行ってもらえるなんて、夢にも思わなかった。

 それに、あの日からは琴葉の目を気にすることなく、堂々と慶太と連絡を取れるようになった。琴葉に慶太のことを知られちゃったときはどうしようかと思ったけど、良い方向に転んでくれて本当に良かった。

 琴葉は、ひとまず慶太のことはパパとママには内緒にしてるって約束してくれたし、それに……その……私の恋を応援してるって……言ってくれたし……うう、やっぱり自分で恋とか言うのって、まだ恥ずかしいな……。

 でも、琴葉が応援してくれるなら百人力だ。琴葉は何でも知ってるし、とっても頼りになるんだから。

 慶太、今週の休みとか空いてないかな……せめて土曜日か日曜日のどっちかだけでも会えないかな……。

 初めて会った日に、メールで『今度遊びに行こうね』って言ってくれたけど、覚えてるかな……もう忘れちゃったのかな……。

「うぅー」

 頭まで布団をかぶって、答えの出ない問いに想いを巡らせる。

 悩むくらいなら直接聞けばいいんだろうけど、もしそれで面倒臭い子とか思われたりしたらイヤだし、万が一にも嫌われちゃったりしたらもう生きていけなくなる。

 どうしようかな……メールのことは別にして、今週会えるかどうかだけ聞いてみようかな……。

 そんなふうに私がうーうー言いながらベッドの中で転がっていると、トントンとノックの音が鳴り響いた。

「お嬢様、紅茶をお持ちしました」

「入って」

 琴葉は私の部屋に入ると、テーブルに柔らかな湯気を湛えた紅茶をそっと置いてくれた。砂糖とミルクたっぷりの、甘くておいしいミルクティーだ。

 そう言えば、慶太が家に来てくれた時、琴葉の紅茶を絶賛してたっけ。

 あの時慶太が飲んだ紅茶も、砂糖とミルクたっぷりで、私と同じだった。男の人は甘いの苦手な人が多いと思ってたんだけど(パパがそうなの)、慶太は私と味覚が似てるのかな。

「お嬢様、今週末はどうされるのですか?」

 ふと、琴葉がそんなことを訊いてきた。

「え?」

 それは、ちょうど私が今悩んでることだった。

 もちろん私は、できることなら慶太に会いたいけれど、まだ会えるかどうかは分からない。

「慶太様とお会いになるのですか?」

 さすがは琴葉、私の考えてることなんてお見通しだ。

「会いたいけど……」

「どうかされたのですか?」

 うーん……慶太からもらったメールのこと、言ってみようかな。慶太から遊びに行こうってメールをもらったけど、慶太は覚えてるだろうかって。別に今週末じゃなくてもいいんだけど、いつか慶太と一緒にどこかお出かけできたらいいな……。

 ちょっと考えてから、結局私は琴葉に相談してみることにした。

「実はね、慶太から今度遊びに行こうってメールがあったんだけど――」

「デートのお誘いですか!?」

 突然、琴葉が素っ頓狂な声を上げた。

 一方で私も、琴葉の言葉に顔が熱くなるのを感じた。

 “デート”って……でもそっか……男の人と女の人が二人でどこかに遊びに行くんだったら、それは付き合っていなくてもやっぱりデートになるなのか……。

 ということは、あのメールは慶太からのデートのお誘いだったってことなのかな。そうだとしたら、すごく嬉しいな……。

「分からないけど……」

「でも、遊びに行こうって誘われたわけですよね?」

「うん。でもね、今度って言うだけでいつとは言ってなかったし、なんだか成り行きで言ってみただけっていう気もするし……」

「そういうことですか……」

 琴葉もうーんと思案顔になる。

「どうすればいいと思う?」

「そうですね……とりあえず、もう少し待ってみてはどうですか? 今頃慶太様、お嬢様をどこに連れて行こうか考えておられる最中かもしれませんよ? もしそうでしたら、急かすのも悪いですから」

 なるほど、確かに琴葉の言うことももっともだ。私はちょっと焦ってたのかもしれない。果報は寝て待てって言うし、もうちょっとだけ我慢してみようかな。

「そうね……」

「ええ、ですから今日のところは待ってみましょう。もし、明日になってもその件について何も言ってこられないようでしたら、こちらから尋ねてみるというのでいかがですか?」

「分かった、そうする」

 うん、琴葉の言う通りにしよう。

 今日は我慢して、明日もデートのことでメールが来ないようであれば、そのことは別にして週末会えるかどうかだけ訊いてみよう。

 やっぱり琴葉は頼りになる。

「ええ。では失礼しますね」

「うん、ありがとう、琴葉」

 琴葉はニコッと笑うと、私の頭をなでなでしてから部屋を出て行った。

 そう言えば、最近琴葉ともお出かけしてないな。

 昔はよく篠崎の家の人に混ざって遊園地とかピクニックとか、いろんなところに連れて行ってもらったものだけど、ここのところは篠崎の小父さんや小母さんも忙しいみたいだから、そうやってお出かけする機会も減ってしまった。

 まあ、私は元々外で遊ぶより家の中でゆっくりしてる方が好きなんだけど、でも好きな人たちと一緒にお出かけするのはとても楽しい。

 そのうち琴葉とさゆと、そして慶太も一緒にみんなでどこかにお出かけできたらいいな……。

 

 

 ●

 

 

 お嬢様成分をしっかり補充して、私は部屋を後にします。

 恋するお嬢様はやはり新鮮でとても愛らしく、なんだか私もお嬢様に対して恋煩いを起こしてしまいそうです。

 ですが、お嬢様成分はしっかり補充できましたが、今度は妹成分が足りていないような気がします。

 普通の人でもホルモンバランスが崩れると体調不良を起こすように、私はお嬢様と妹の二人の成分バランスが崩れると、上手く頭が働かなくなったり、体が思うように動かなくなったりするのです。

 私には“さゆり”という妹がおりますが、我が妹ながらそれは可愛らしい女の子で、世が世ならあの子の為に幾つもの国が亡ぶところだったしょう。

 その愛らしさは麻夕お嬢様に勝るとも劣らず、私はこの二人のためだけに生きていると言っても過言ではありません。

 さゆりは両親と一緒に実家で暮らしております。

 私の実家はこの御影家の邸宅からそう遠くないところにあるのですが、最近はさすがにバタバタしておりましたし、お嬢様のことが気がかりで、学校の送り迎えの時くらいしかさゆりに会えずにいるのでした(お嬢様とさゆりは同じ中学校に通っておりまして、毎日私が二人を送迎しているのです)。

 今週末は久々に、一日中さゆりと一緒に料理をしたり本を読んだりして過ごしたいものですね……。

 さて、さゆりのことは心配ありません。その気になればいつでも会いに行くことができますから。

 問題はお嬢様です。

 まさかあの慶太様が、もう既にお嬢様をデートに誘われていたとは驚きました。

 この前お会いした時には、もう少し奥手な印象を受けたのですけれども。

 しかし、お嬢様の仰り方から察するに、それほどはっきりした約束というわけでもなかったようですし、お嬢様が仰ったようにおそらく成り行きで言ってみただけなのでしょう。

 ですが、あれほどまでに期待されているお嬢様を失望させるわけにはいきません。

 ここは私が裏から手を回し、慶太様にはちゃんと正式にお嬢様をデートに誘っていただくことにいたしましょう。

 それにしても……。

 デート……まさか、お嬢様が私よりも早く男の方とデートなんてなさるとは夢にも思いませんでした……。

 

 

 ●

 

 

 麻夕ちゃんの家に招かれた日から三日が過ぎ、麻夕ちゃんと出会ってからもう一週間が経とうとしていた。

 相変わらず俺は、飽きることなく毎日麻夕ちゃんとメールのやり取りを続けていた。

 あれほど早く琴葉さんに俺のことがバレてしまったのは予想外だったが、結果的には良かったのかもしれない。

 麻夕ちゃんも身近な人に隠しておくのは大変だっただろうし、俺たち当事者以外にも、麻夕ちゃんが家出した日のことを知ってる人がいるというのはいろいろな面で頼りになる。麻夕ちゃんのご両親に対しても、麻夕ちゃんにとっていいようにしてくれることだろう。

 麻夕ちゃん、今週末は何か予定とか入ってるのかな。もし暇だったら会えたりしないだろうか。

 土曜日はバイトが入ってるから難しいけど、日曜日は完全フリーだ。

 麻夕ちゃんと会えなければ、俺はいつも通り一日中ゲームに時間を費やすのみである。気持ち求人誌を確認したりもするかもしれない。

 それはそれで楽しいのだが、やっぱり麻夕ちゃんに会えるものなら会いたい。

 まあ、別に会って何をするってわけでもないけど、一緒にゲームしたり、ちょっとお喋りをして、麻夕ちゃんの香りを肺に吸い込めたならば来週も何だか頑張れそうな気がする。

 用意周到な俺は、すでに麻夕ちゃん用にゲームのコントローラーを一つ新しく準備しておいたし、ゲームとかあんまりやったことがないだろうから、複雑な操作を必要としない簡単なパーティゲームも購入しておいた。

 あとはタイミングを見計らってお誘いするだけ。

『もしもし、麻夕ちゃん? 今度の日曜日、俺ん家来ない?』

 飾り気も何もない、極めて平凡な文句だと思うのだが、相手を想像すると途端に変態じみて聞こえてくる。

 これは、俺が悪いのか。誘うのが俺じゃなかったらもっと普通に聞こえるのだろうか。

 それとも、相手が悪いのか。麻夕ちゃんがまだ中学生だから、気持ち悪く思えるだけなのだろうか。

 ……どっちもか。

 まあ、まだ出会って一週間だし、それでいきなり遊びに誘うのもちょっとな。今まで通りメールのやり取りを続けつつ、週末暇だというような話にでもなれば誘ってみることにしよう。

 そんなふうに俺が今後の方針を立てていると、ふと携帯電話の着信音が鳴り出した。

 このメロディは俺の携帯電話にデフォルトで設定されてあるもので、着信名を見ても見慣れない電話番号が表示されているだけだった。

 いったいどこの誰だろうか。

 電話番号は明らかに携帯電話のものなので、面倒な業者やなんやらではなさそうだが、極めて交流範囲の狭い俺にはまったく心当たりがない。

 けど、とりあえず出ておくか。

 あんまり面倒なことにならなければいいなぁと思いつつ、俺は携帯電話の応答ボタンを押した。

「もしもし、石神です」

『夜分に失礼します、篠崎です』

 篠崎……と少し考えて、聞き覚えのある声と併せてようやく相手が琴葉さんであることに思い至る。

 琴葉さんはいつの間に俺の電話番号を知ったのだろうか。少なくとも、この前お会いしたときは連絡先を交換するようなことはなかったが。

 まあ、麻夕ちゃんから聞いたのだろう。あとでこの番号を俺のアドレス帳に登録しておこう。人生で三人目の女性の連絡先ゲットだ。

『今、お時間大丈夫ですか?』

 電話というものは当然用があるからかけるわけで。

 俺と麻夕ちゃんみたいに、雑談するために電話するなんてことはほとんどないわけで。

 琴葉さんも、俺に何か用件があってわざわざ電話したはずだ。

 その用件に思い当たる節はないけれど、十中八九麻夕ちゃんに関係のあることだろうし、時間もあることだからとりあえず了承しておく。

『では一つお訊きしたいのですが、慶太様、この前お嬢様に、今度遊びに行こうという趣旨のメールを送られましたよね?』

 予想外の質問に、俺は眉根を寄せて頭を捻る。

 心当たりはあった。

 麻夕ちゃんと出会ったあの日、麻夕ちゃんからメールが来てついテンションが上がって送ってしまったあのメールのことだろう。

「ええ、送りましたよ」

『それで、どうなってるんですか?』

 いや、いきなりどうなってるんですかと言われましても……。

 丁度俺は、あんまり性急に麻夕ちゃんを遊びに誘ったりしない方がいいんじゃないかと思っていたところだ。特にどうともなっていないのだけど……。

『もしかして、忘れてましたか?』

「いえ、もちろん忘れてはいないんですけど……いきなり遊びに誘うのもどうなのかなぁと思いまして」

 麻夕ちゃんも、出会ったばかりのお兄さんに突然遊園地でも行こうかなんて言われたら引くんじゃないだろうか。仮に麻夕ちゃんがよかったとしても、むしろ琴葉さんが止めるんじゃないかと思ったのだけど。

『お嬢様は慶太様と遊びに行くの、楽しみにしていらっしゃいますよ』

 ……そうなのか。

 いや、あんなメール、麻夕ちゃんはてっきり忘れてしまっているものだと思っていたから、覚えていてしかも楽しみにしてくれているというのは素直に嬉しい。

 しかしどうしたものかな……。

 女の子と遊びに行ったことなんてないし、どこへ連れて行ってどんなことをすれば喜ぶのかなんて皆目見当もつかないし。

「そうでしたか……それは麻夕ちゃんに悪いことをしちゃいましたね」

 あの年頃の女の子って何が好きなんだろう。

 ファッションとかアイドルとか、そういうのに興味を惹かれるものなのだろうか。

 もちろん俺はそれらのことに関して一切の知識を持っていないのだけれど、麻夕ちゃんもそういうものには大して関心があるようには思えない。

『いえいえ、あらためて誘っていただければいいだけの話です。それで、具体的にはどちらへいらっしゃるおつもりなんですか?』

「えっと――」

 ……いかん。

 普段バイト以外ではずっと家に引きこもっている俺が咄嗟に遊びに行く先なんて思いつくはずもない。遊園地とか映画館とか、それらしきものは思い浮かぶけれど具体的に実行するだけの計画はない。

 だから、とりあえず正直に、ここ数日ぼんやりと考えていたことを口にした。

「俺ん家で、まあゲームでもしようかと――」

 うむ、とりあえずそこからかな。

 しかし、このプランは琴葉さんには受け入れてもらえなかったようで、電話越しに大きなため息の声が聞こえてきた。

『慶太様』

「な、なんでしょう……」

『先ほども申しあげたように、お嬢様は慶太様と遊びに行くのをとても楽しみにしておられます。何せお嬢様にとっては男の方と二人でどこかへお出かけするなんていうことは初めてのことですから。ですがそのことについて中々慶太様の方から連絡がなく、お嬢様は慶太様が忘れてしまったのではないかと随分ご心配なされています。その挙句の果てに遊びに行く先を思いつかず、適当に自分の家に招こうというのは、少々人間としての常識を疑わずにはいられませんね……』

「す、すいません……」

 思わず謝ってしまう。っていうか琴葉さん、俺の頭の中を読みすぎだ。

 でも行き先を思いつかなかったのは事実だけど、別に適当なつもりはなかったんだけどな……。

 家でのんびりゲームするの、楽しいと思ったのだけど……。

『それともいきなりお嬢様を家に連れ込もうと思われたのですか?』

「いえ、そういうわけでは……」

『まあ、お嬢様と遊びに行くことについては認めますので、次の日曜日までに必ずお嬢様が喜ぶプランを考えておいてくださいね』

「次の日曜日までですか!?」

 それはいくらなんでも急すぎやしないだろうか?

『そうです。あんなに楽しみにしておられるお嬢様をがっかりさせられませんからね』

「分かりました……」

『では失礼します』

 電話が切れた。

 ふう、やっぱり琴葉さんと話すの緊張するな……。

 この前お会いしたときは一緒にお酒も飲んでそれなりに打ち解けたつもりだったけれど、まあそう簡単に気の置けない仲にはなれないか。

 けど、よく考えればこれで麻夕ちゃんを遊びに誘う際に琴葉さんの了承を得る必要がなくなったわけだし、結果的には俺の望む方向に物事が進んでいるのではないだろうか。

 まあ、俺の家でゲームなんて、やろうと思えば平日だって学校帰ってからできるわけで。

 今週末に遊びに行くとなると些か準備の時間が少ないが、仕方あるまい。

 麻夕ちゃんが俺と遊びに行くのを楽しみにしてくれているとあらば、是が非でもなんとかしなければ。

 しかし、ここで俺は少し思ったことがある。いや、これまでその単語が頭を過ぎらなかったのが不思議なくらいなんだけど――俺と麻夕ちゃんが二人でどこかに遊びに行く。これはもしかして、“デート”というんじゃなかろうか。

 デート……デート……ああ、なんて甘美な響きなんだろう。

 まさかこの俺が現実にデートをすることになろうとは、いったい誰が想像し得たであろう。神様だってお茶を吹くほど驚いているに違いない。

 だが、果たしてどうしたものか……。

 デートといえば、映画館とか遊園地とか、思い浮かべるものはいろいろある。

 しかし、俺にとっても人生で初めてのデートで、相手は中学生の女の子。

 そういった特性を考慮しながら計画を立てなければならない。

 こんな時、誰か気軽に相談できる相手がいればと思うのだが、そんな相手がいるはずもない。さすがに琴葉さんに一から十まで決めてもらうわけにもいかないし。

 結局、頼りにできるのはインターネットのみか。

 麻夕ちゃんが喜んでくれそうで、俺の資金で行けるところ。

 中々難しい問題だが、不思議と面倒だと感じることもなく、嬉しい悩みに思考を巡らせるのだった。

 

 

 ●

 

 

 次の日の夜。

 私は昨日に引き続き、慶太からの連絡を待ちわびていた。

 慶太、今何してるかな。

 本当に琴葉の言ってた通り、私をどこに連れて行こうかって考えてくれてるのかな。

 別に、遠くに遊びに行けなくてもいいんだ。

 忙しければ、また晩御飯を一緒に食べるだけでもいいし。慶太、琴葉の料理とっても美味しいって言ってたから、喜んでくれると思う。

 もちろん、その分琴葉の負担が増えるわけだから琴葉の了承を得ないとダメだけれど、でも琴葉は応援するって言ってくれたし大丈夫だと思う。

 また、家に泊まっていってくれたらいいのに。

 そしたら、今度は私のベッドで一緒に寝てくれないかな……。ううんダメ! 慶太と一緒に寝たりなんかしたら、ドキドキしすぎて死んでしまう。

 お休みって言って、頭を撫でてもらうだけで充分だ。それで、夢の中でぎゅって抱きしめてくれたらこれ以上幸せなことなんてないんだけどな……。

 そんなことを取り留めもなく考えていたら、ふと、電話が鳴り出した。

 画面を見ると、そこに映るのは“慶太”の文字――

「もしもし!」

 慌てて電話に出ると、電話越しに慶太の優しい声が聞こえてきた。

『もしもし、麻夕ちゃん? 今大丈夫?』

「うん、大丈夫だよ!」

 大丈夫じゃないはずがない。

 慶太は『えっと――』と、言葉をまとめるための間を空ける。私は慶太の言葉をじっと待つ。

『麻夕ちゃん、今週の日曜日空いてない?』

 やった――!

 思わず歓声を上げそうになったけど、そこは何とかこらえた。

 今週の日曜日――考えるまでもない。たとえものすごく大切な用事が入っていたとしても、私は慶太のお誘いを優先する。

「空いてるよ!」

『本当? じゃあ、俺と遊びに行かない? 初めて会った日に約束したし……』

 慶太、やっぱり覚えててくれたんだ!

「うん、行く!」

『良かった。じゃあ今週の日曜日ね……どこか行きたいところとかある?』

「どこでもいいよ。慶太の行きたいところで」

 慶太と一緒なら、本当にどこだっていい。どこにでも行きたい。

『了解。それじゃあ考えておくね。おやすみ』

「おやすみ!」

 切れた携帯電話を胸に抱いて、ごろんとベッドに転がる。

 ちょうどそのタイミングで、部屋に琴葉がやって来た。

 私は嬉しさの余り、勢いよく琴葉に突進する。そんな私を琴葉はぎゅっと抱き留めてくれる。

 私は早速、今あったことを琴葉に報告する。

「琴葉、今慶太から電話があって、日曜日遊びに行こうって!」

「良かったですね、お嬢様」

「うん、良かった!」

 琴葉の言うことに従ってよかった。やっぱり慶太、メールのこと覚えててくれたし、ちゃんと考えてくれてたんだ。

「ではお嬢様、日曜日はどんな服を着て行かれますか?」

「え?」

 服か……どうしよっか。

 私の持ってる服は、全部琴葉が選んで買ってきてくれたものだ。私はどんな服がいいかとか、そんなのはよく分からない。

 でも、せっかく慶太と遊びに行くなら、やっぱり可愛い服を着て行きたい。

「えっと……やっぱり琴葉が選んでよ」

「分かりましたお嬢様。ではこちらへ」

 それから衣裳部屋で、琴葉は私にいろんな服を着せた。

 琴葉の服選びは、私が眠たくてふらふらしてくるまで一時間以上続いた。

 

 

 ●

 

 

 その日、俺はまだ日が昇りきらないうちに目が覚めた。

 とうとうこの日が来たのだ。人生で初めてのデート。しかも相手は天使のように愛くるしい、閉月羞花の美少女だ。長年夢に描いてきた妄想が、ついに現実と化す時が来た。

 昨夜はあまりにドキドキして、遅くまで眠りにつけなかった。

 遠足前の小学生のようだとも思うが、小学生時代の俺は遠足前だろうがなんだろうが、夜十時には眠っていた。夜更かしするようになったのは、中学生になってからだ。

 早朝、麻夕ちゃんとの約束の時刻まで中途半端に時間ができてしまった俺は、遠見が丘中央公園まで行って、缶コーヒーを片手に精神統一がてらタバコを吸っていた。

 ――この公園で、俺と麻夕ちゃんは出会ったのだ。

 そう思うと、普段気にも留めていなかった公園の木々やベンチ、遊具や街灯などが何だか特別なものに感じてくる。

 内心ビクビクしながらなけなしの勇気を振り絞った結果、俺は麻夕ちゃんと知り合うことができた。

 そして紆余曲折を経て、ついに人生で初めて女の子と二人きりで遊びに行くことになったのである。

 まったく、人生万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。本当に、何が起こるか分からない。

 ――もちろん、重々承知をしているつもりではある。今日のデートは、別に“デート”ではない。

 ただ、社会人のお兄さんが(もう学生ではない、畜生)中学生の女の子を気晴らしに遊びに連れて行ってあげるだけ。

 特にその女の子はただでさえ難しい年頃な上、最近は家出などという大胆な行動を取ったばかりだ。

 表面上は普段と変わりなかったとしても、内心はまだ不安定だろうから、こうして遊びに連れて行ってやって、気分転換させて落ち着かせてやろうということだ。琴葉さんも言っていたが、麻夕ちゃんは俺にかなり懐いてくれているみたいだし。

 まあ、麻夕ちゃんのためなら、一肌でも二肌でも脱いでやろうというものだ。

 こんな俺でも誰かの役に立てるのであれば、それだけで純粋に嬉しい。

 でも――俺が人生で初めて、女の子と遊びに行くという事実は変わらない。

 だからやっぱり、俺の中では“デート”なのだ。

 別にこのデートがどういう意味合いを持とうが結局のところ何も変わりはしない。

 麻夕ちゃんが楽しめるように全力を尽くす。

 そのことについては、お題目がなんであろうと同じ事なんだから。

 ああ、人生で初めてのデートか……。

 長年他人とのコミュニケーションを放棄し、怠惰を極めてきた俺がどこまでやれるかは分からないが、石神慶太一世一代の大勝負である。

 絶対に、麻夕ちゃんにいい思い出を作ってあげる。

 決意を新たに、俺はとっくに火の消えたタバコの吸い殻を煙管に捨てた。

 

 

 ●

 

 

 デート当日。

 昨日は緊張して中々寝つけなかった様子のお嬢様ですが(慶太様が家に来て下さった日から、お嬢様はまた私と一緒にお眠りになるようになりました)、今朝はいつもより早くにお目覚めになられました。

 朝食を摂られ、入念に身支度をし、いよいよ慶太様との待ち合わせ場所である遠見が丘駅に向けて、私の運転する車で出発なされます。

 車の中でのお嬢様はやはり落ち着かないようで、身をよじらせたり深呼吸なさったりしてずっとそわそわしておられます。

 そんな様子も、やはり可愛くて可愛くて仕方ありません。

「ねえ、琴葉……」

 ふとお嬢様が、私に声をかけられました。

「なんですか? お嬢様」

「慶太に……告白とかした方がいいのかな……」

「――――」

 いきなりそのようなことを言われて、私は危うくアクセルとブレーキを踏みちがえるところでした。

 告白――まさかお嬢様がそこまで考えておられたとは……。

 いえ、それも当然かもしれません。何と言っても、お嬢様は慶太様のことが大好きなのですから。

「そうですね……お嬢様は、お気持ちをお伝えになりたいのですか?」

「分かんない……」

 お嬢様は顔を伏せて、恥ずかしそうに言葉を紡がれます。

「慶太と付き合えたらすごい嬉しいけど、でも、もし振られたらって思うと、今のままの方がいいのかなって思うし……」

 私の主観で申し上げますと……正直、仮にお嬢様が告白なされたとしても、慶太様がお受けになる可能性は低いように思われます。

 一応慶太様は、花のように愛らしいお嬢様を前にしても分別を失わない程度の常識は備えておられますから、お嬢様がその無垢な想いを伝えられたとしても、歳の差や身分の差、まだ知り合って日数が経ってないことなどを理由に、やんわりと断られるのではないでしょうか。

 そうなるとお嬢様と慶太様の仲がぎくしゃくしないか心配です。

 お二人とも純粋ですが、対人関係能力に欠けるところがありますから。

「私は、やめておいた方がいいと思います」

「……そうかな?」

「ええ、まだお嬢様が慶太様と知り合って間もありませんから、もう少しお互いをよく知ってからにしてはいかがですか? 慶太様は、お嬢様のことをきっと好いておられるとは思いますが、お付き合いするとなると、いろいろと難しく考えられるでしょうから。もし振られたらこれから会いづらくなるでしょうし、今はお気持ちは胸にしまっておいた方がよろしゅうございます。お付き合いしていなくても、こうして二人で遊びに行ったり、家に来ていただいたりはできますし」

「なるほど……」

 お嬢様はうーんと顔を顰めたまま、どこか一点を見つめておられます。そして、

「難しいんだね」

 一言、この世の心理を言い当てるように呟かれました。

「ええ」

 私もこの手のことにそれほど通じているわけではないので、何が分かるとも申し上げにくいのですが、それでもお嬢様の仰った難しいというのは、その通りなのでしょう。

「でも大丈夫です。いずれ、想いが届く時は来ますから。その時までに、もっともっと慶太様のことを知って、慶太様と仲良くなっておきましょう」

「うん、そうする」

 私の言葉にとりあえずお嬢様は納得されたようです。

 ですが、やはり私は自身の経験がない故に、いまだお嬢様の気持ちの強さを推し量れていないようですね……。申し訳ありません、お嬢様。やはり恋愛事においては、大してお役に立てそうもありません。

 今回のデートは、いったいどのような結末を迎えるのでしょうか。

 一抹の不安を抱きながら、車は目的地へと近づいていきます。

 

 

 ●

 

 

 麻夕ちゃんとの待ち合わせは、朝十時に遠見が丘駅前のロータリーでという約束だ。

 現在時刻は九時四二分。

 家にいてもやることはないので、麻夕ちゃんよりも先に待ち合わせ場所に来ておこうと思い、ここに着いたのは九時二〇分頃である。

 ……ちょっと、早く来すぎたかもしれない。

 手持無沙汰になると、やっぱりタバコを吸いたくなる。けどダメだ、我慢だ。一本吸っただけでも体に臭いがつく。

 そんなことで麻夕ちゃんに嫌われたくはない(ちなみに俺が喫煙者であることは、麻夕ちゃんにも琴葉さんにもいまだ内緒にしている)。

 仕方なしに俺は携帯を弄りながら、今日のデートプランのおさらいをしておく。

 昨日から何回も確認したけど、万が一にも今日行く予定のところが休みだったりしたら泣くに泣けないし、予算についても、念のために虎の子の貯金を引っ張り出してきたけれど、間に合うかどうか……。

 そんなことを考えていると、ふと、見覚えのある黒塗りの厳つい車が視界の隅に映った。

 目を細めてよく見ると、やっぱり運転しているのは琴葉さんだ。

 そしてその隣、助手席に座っているのが、俺の人生初デートのお相手、御影麻夕ちゃんである。

 麻夕ちゃんも俺の姿を見つけたようで、車の中から小さく手を振ってくる。俺も微笑みながら、手を振りかえす。

 車はロータリーの隅の邪魔にならない位置に停まった。

 車が停まるや否や、中から麻夕ちゃんが勢いよく飛び出してきて、小走りで俺の方に駆け寄ってきた。

「おはよう、慶太!」

「おはよう――」

 元気よく挨拶をしてくれる麻夕ちゃんだが、それに対して俺は上手く言葉が出てこない。汚れた人界に舞い降りた穢れ無き天使の姿に、俺は完全に心を奪われてしまっていた。

 今日の麻夕ちゃんも、いつも通り(と言っても会うのはまだ三回目だが)めちゃくちゃ可愛かったが、しかし今日は何というか、気合の入りようが違っていた。

 女の子の服のことなんてまったく分からないけれど、白くてひらひらしたブラウスに(“ブラウス”で合ってるのかは分からん)、黒くてひらひらしたキュロットに(“キュロット”で合ってるのか以下略)、ピンクのひらひらしたカーディガンを(“カーディガン”で以下略)羽織り、黒くて眩しいニーソックスを(これは“ニーソックス”に間違いない)履いていて、可愛い猫のポーチを肩から掛けている。今日の麻夕ちゃんの衣装は、何というかとても華やかで、それでいてとても淑やかで――麻夕ちゃんにとても似合っていた。

 対して俺の服装はというと、黒の長袖シャツにグレーのパーカーを羽織り、下は紺のジーンズといった出で立ちである。

 ……分かってる。分かっている。麻夕ちゃんのすごくお洒落な恰好に対して、俺の服装のなんと地味なことか。

 俺だって、できることならこの日のために服を新調したかった。馬子にも衣装という言葉もある。せめてジャケットの一着くらい買おうと思ったのだ。

 ――だがそれは、今の俺には望むべくもないことだった。つまるところ、単にお金がなかったのである。

 俺は胃が捩れる思いで服を諦め、デート当日にすべての資金を投入することを決した。まあ、俺が自分のセンスで服を買ったところで大したものにはならないし。なにより中途半端な戦力の逐次投入は最大の悪手である。

「待った?」

 麻夕ちゃんは少し頬を上気させながら訊いてくる。

「いや、今来たところだよ」

 ……こんな、男女の待ち合わせのテンプレート的なやり取りができる日が来ようとは。やはり人生何が起こるかまったく分かったものではない。

 車をロータリーの隅に停めて、琴葉さんがこちらに歩いてくる。琴葉さんも、シンプルながらどことなく華やかな装いで、今日もとてもお美しい。

「おはようございます、慶太様」

 挨拶しながら、嫋やかにお辞儀をする琴葉さん。琴葉さんの優美な口調や仕草は今日もまったく変わりない。

「おはようございます」

「今日は一日、お嬢様をよろしくお願いしますね」

「はい、お任せください」

 何とかそう言ってみせる。

 正直、俺もかなり緊張している。何せ女の子と二人きりでお出かけするのは初めてなのだ。緊張せずにはいられない。

 麻夕ちゃんも緊張したりしているのだろうか。そう思って麻夕ちゃんを見てみると、麻夕ちゃんも少し顔を赤らめて、体をもじもじと捩じらせている。

 やっぱり麻夕ちゃんもちょっと緊張してるんだな……そう思うと、ふと肩から力が抜けた。やっぱりここは年上の俺が、麻夕ちゃんの緊張をほぐしてやらないと。

 そんなことを考えていると、ふと麻夕ちゃんと視線が重なった。

 麻夕ちゃん、睫毛長いな――なんて今さらのように思いながら、何か話さなければと思考を巡らせ――

「あ――麻夕ちゃん、その――服、可愛いね」

 思っていたことを率直に言ってしまった。

 ……ヤバい、異様に恥ずかしい。

 顔から火を噴くとはまさにこのことだ。耳が熱くてたまらない。

「え!?」

 けど、麻夕ちゃんの顔も真っ赤だ。

 あんまり異性から褒められることに慣れていないのかもしれない。琴葉さんから聞いた限りでは、男の子とこんなふうにお出かけするのは初めてらしいし。

「これはその……琴葉が選んでくれて……」

 なるほど、琴葉さんのチョイスか。さすがは琴葉さん、麻夕ちゃんの魅力を存分に引き立てる術をしっかり心得ている。

 まあ、琴葉さんの麻夕ちゃんの服選びは、多分に趣味が入っているだろうけれど。鼻血を噴きながら麻夕ちゃんを着せ替え人形にして弄ぶ琴葉さんの姿が容易に想像できる。

 俺も着せ替え麻夕ちゃんやってみたいなぁ。ネコ耳とかメイド服とかナース服とかミニスカポリスとかスク水とか……。

「慶太?」

 ――っと危なかった。

 危うく精神がモモイロセカイにトリップするところだった。

「ああ、うん。すごく似合ってるよ」

「――ありがとう」

 そう言って照れて俯く麻夕ちゃんを見ていると、本当に幸せな気分になる。

 麻夕ちゃんと出会ってから、生きてて良かったと思うことが多くなった。

「あ――慶太も、すごく似合ってると思う」

 似合ってるか――正直、麻夕ちゃんのお洒落な服装に比べると滑稽なくらいだろうけど、麻夕ちゃんは自分が褒めてもらったのだから、自分も褒め返さなきゃと思ったのだろう。

 優しい子だなぁ、ホントに。

「ありがとう」

 あんまり自分では似合っているとは思ってないし、こんな地味な格好が似合っていると言われても正直そんなに嬉しくはないけれど、割と自然にお礼を言えた。

 まあ、褒められる内容はともかく、麻夕ちゃんに褒められるというのは純粋に嬉しい。

 これが他の女だったら、皮肉ってるのかそれとも嘲ってるのかと裏を勘繰るところだけど、麻夕ちゃんに限ってはそんなこともないだろうし。

「じゃあ……行こうか」

「うん」

 そうして、俺たちは揃って、琴葉さんに行ってきますと告げる。

「お嬢様のことをくれぐれもよろしくお願いしますね」

「はい」

 よろしくお願いしますとか言っておきながら、この人なら俺たちを尾行しかねないよな……。

 そんなことを思いながら、さすがに手をとることはできなかったけど、二人並んで駅の階段を上っていくのだった。

 

 

 ●

 

 

 目的地までの切符を二枚買って、一枚を麻夕ちゃんに渡す。

 麻夕ちゃんはありがとうと言って、切符を受け取ってくれる。

 こういうふうにさり気なく奢るところがポイントなのだ。

 たとえ懐がチクチク痛む感覚に襲われたとしても、男子たるもの常に気丈であらねばならぬ。

「あ、慶太。お金払うよ」

 言いながら、麻夕ちゃんはいそいそと猫ちゃんポーチから財布を取りだそうとする。

「いいよ、俺もう社会人なんだから。電車賃くらい出すって」

 そう、もう大学生ではない、ド畜生。

 でも大学生であろうと社会人であろうと、中学生の女の子にお金を払わせるなんて男の恥だ。それくらいのプライドは、まだ俺の中にも残ってる。

「でも……」

「いいの。今日は俺が麻夕ちゃんをエスコートするんだから」

 うぅ……自分で言っておいて何だが、こういう言葉は一々口にするのが恥ずかしい。

 青春を謳歌している部類の人間は、こんな台詞を事もなげに言ってしまうものなんだろうな……。

 けど、中途半端に照れる方がよっぽど滑稽に見えることだろう。だから俺は、精いっぱい強がって、カッコつけてみせる。

「うん……じゃあ、ありがとう」

「どういたしまして」

 切符を改札に通して、二人ホームに降りていく。

 次の電車が来るまで、あと五分くらいあるようだった。

「今日はどこ行くの?」

 麻夕ちゃんが上目遣いで聞いてくる。

 別に狙ってやってるわけじゃないんだろう。俺と麻夕ちゃんの身長差だと、麻夕ちゃんは必然的に俺を見上げなければならなくなるし、麻夕ちゃんは人見知りで恥ずかしがり屋だから、顔もちょっとうつむきがちになるのはよく分かる。

 だが、その物理的な身長差と麻夕ちゃんの奥ゆかしさが融合した結果、それが上目遣いという形で顕現されると、俺の精神を破壊しつくす兵器となるのである。

 つまり何が言いたいのかというと、麻夕ちゃんは可愛い。上目遣いは卑怯だ。

「今日はね、水族館に行こうと思ったんだ」

 そう、俺が麻夕ちゃんとの、そして俺自身の人生で初めてのデートの場所として選んだのは、遠見が丘駅から電車で三十分くらいのところにある、世界最大規模(自称)の水族館だった。

 水族館を選んだことに特別な理由はあまりない。

 インターネットを駆使して俺の家から行ける範囲でデートスポットを探した結果、たまたま見つけていいなと思って決めたんだ。

 水族館の近くには大きなショッピングモールもあるらしいし、観覧車なんかもあるそうだ。

 水族館を回り終えたらそのショッピングモールで買い物でもして、最後に観覧車に乗って帰ろうかと考えている。

 まあ、ありきたりなプランかもしれないが、俺も麻夕ちゃんもデートなんて初めてなんだし、ありきたりなくらいがちょうどいいだろう。

 ちなみに、俺のこのプランは前もって琴葉さんに相談済みである。

 伝えるときはまず間違いなくダメ出しをくらうだろうと覚悟していたのだが、案外評価は高かったようだ。

『素敵なプランだと思いますよ。お嬢様、水族館には小さい頃に行ったきりですし、でも好きだと思いますから。……正直、慶太さんがこんなにまともなプランを考えられるとは思ってませんでした』

 まったくもって失礼な話だ。デートをしたことがなくったって、そのシミュレーションなら幾度も重ねてきた。

 ちなみに、俺が何も考えつかなかった時のために琴葉さんもデートプランを作っておいてくれたそうだが、その琴葉さんのプランというのが極めておぞましいもので、おそらく俺が三年にわたって汗水垂らし血反吐を吐きながら働いて、ようやく実行できるかどうかというものだった。本当に、妄想という名の愚かなシミュレーションを重ねておいて良かったと思う。

 俺たちはしばらくホームで待った後、ようやくやって来た電車に乗り込んだ。

 電車の中にはそこそこ人がいるが、混んでいるというほどでもない。

 俺は二つ空いた席を見つけると、そこに麻夕ちゃんと並んで腰を掛ける。

 麻夕ちゃんと肩がぶつかりそうになって、嬉しいような恥ずかしいような。

 電車が動き出すと慣性の法則に従って、麻夕ちゃんが俺にもたれかかる感じになって、無闇に鼓動が跳ね上がる。物理法則万歳。

 ふと隣の麻夕ちゃんを見る。麻夕ちゃんは先ほどからそわそわした様子で何だか落ち着かない。

「どうかしたの?」

「え? ううん、別に……。ただ、電車ってあんまり乗ったことないから。この前乗ったやつは座席が部屋ごとに分かれてて」

 座席が部屋ごとに分かれているようなものが電車の基準になってるあたり、やっぱり麻夕ちゃんは住む世界が違う。

「そういうのは乗ったことないなぁ。遠くに行くときはだいたい車?」

「うん。琴葉が運転してくれるの」

 車か……。

 俺も一応免許は持っているが、教習所を出て以来、運転したのは二、三回程度しかない。それも実家に帰った時に親父の車を運転させてもらったくらいで、自分の車は持っていない。

 麻夕ちゃんとドライブデートだなんて考えただけで心が躍るが、断念せざるを得ないようだった。

 麻夕ちゃんは物珍しそうに、電車の外の流れゆく風景を眺めている。

 その様子を見て、俺はくすりと笑ってしまう。

 俺も昔は、電車に乗る度にああやって外の景色を眺めていたっけな……。お袋に、靴を脱ぎなさいって怒られて、ぽいって靴を脱ぎ散らかして。特に面白味のない風景を、食い入るように見つめていた。今の麻夕ちゃんと同じように。

 

 電車に乗ってしばらくすると、かなり長いトンネルに入り、それを抜けると遠くに海が見えてくる。

 そうすれば、目的地までもうすぐだ。

 

 

 ●

 

 

 目的地に着き、俺と麻夕ちゃんは揃ってうんと伸びをする。

 ホームに吹き抜ける風は、さっぱりとしていてとても気持ちいい。陽射しも穏やかで、まさに春の日和といった感じだ。もしくは、絶好のデート日和――

 水族館は駅から歩いて十分ほどのところにある。このホームからも建物が見えているし、何ならその背後のショッピングモールや観覧車だって視認できる。

 バスもあるが、この距離なら歩いても問題ないだろう。特に急ぐわけでもなし、この春の陽気な空の下を、のんびりと二人並んで歩くのも乙なものじゃないだろうか。

「ほら、あそこ見える? あの建物が、今から行く水族館」

 俺がそう言うと、麻夕ちゃんは不用意に俺に顔を寄せて、俺が指差す方向に目を向ける。今日も麻夕ちゃんはいい匂いだ。春の香りと相まって、いい匂いが二割増し。

「すごい、大きいね!」

 そりゃあ、一応世界最大級を自称しているくらいだからな。

 でも確かに、あの大きな建物の中に水生生物がひしめいているのかと思うと、少しわくわくしてくる。

 世界中からいろんな水棲生物を連れてきて、あの建物に閉じ込めて飼育するのは、きっとかなりのコストと技術が必要なはずだ。そもそも、あの水圧に耐えるための施設を作るのだって、並大抵のことじゃないのだろう。

 そう考えると、水族館ってすごいんだな……。

「麻夕ちゃんは水族館来たことあるの?」

 琴葉さんからの情報によると、幼い頃に何回か来たことがあるということだったが。

「あるよ。ここじゃないけど、小学生の時にパパとママと旅行に行った時に連れて行ってもらったの」

 なるほど、いい思い出じゃないか。

 それならなおさら水族館を選んでよかったかもしれないな。思い出というスパイスがあれば、より一層楽しめるはずだ。

「慶太は水族館来たことあるの?」

「俺? 小学生の時に遠足で行ったっきりかな。行ったのは俺もここじゃなくて、実家の近くのヤツなんだけど」

 確かそうだ。小学校3年生の時だったかな。ここほどの大きさじゃなかったけど、いろんな魚を見られて結構楽しかった記憶はある。何故か、無闇やたらに魚の名前をメモに書いてたっけな……。

「そっか、じゃあここに来るのは初めてなんだね」

「そうだね。来れて良かったよ」

「うん、私も……」

 麻夕ちゃんはそう言って、慎ましく笑う。

 そんな感じで、水族館に着くまでの間、俺たちはずっと他愛のない会話を繰り広げていた。

 天気は快晴。春の穏やかな風を頬に受けながら、俺たちはゆっくり歩を進める。

 

 

 ●

 

 

 館内は陽射しが届かないためかひんやりとしていて、周囲が仄暗いのと相まって、なんだか別世界のようだった。

 暗闇が生み出す静けさが、逆にデートを盛り上げてくれる。

 さあ、お膳立てはもう済んだぜ。あとはしっかりやんなよ、あんちゃん。

 そんなふうに、水族館が俺のことを励ましてくれている気がしないでもない。

 周りを見てみると、水族館の中は大して混雑していない様子だった。

 けど空いているというわけでもなく、ちらほらと家族連れやカップルの姿が散見される。

 何も事情を知らない人からすれば、俺と麻夕ちゃんのペアはどういうふうに見えるのだろうか。

 まあ、まず間違いなくカップルだとは思われまい。兄妹にしても似てないし……可愛い女の子と親戚のお兄さん、というくらいが関の山か。

 実際カップルではないし、誰に何と思われようが正直どうでもいいのだけれど。誘拐犯とかとさえ思われなければ。

 受付で二人分の入場券を購入する。

 今度は麻夕ちゃんの強い要望により、麻夕ちゃんの分は自分で出してもらった。

 別に折れたわけではない。ただ、弾数には限りがあるし、有効な使い方をしなければ今日一日持たないと思っただけだ。

 ほら、やっぱりプレゼントとかも買ってあげたいし、この後ショッピングモールに行ったり観覧車に乗ったりすることを考えれば、ね。

 やはり財力は男の魅力に直結するというのだろうか。

 もし麻夕ちゃんが将来『やっぱ男は金よねー』なんて言い出したら……俺、死んでもいいや。

 ……まあとにかく、そんな下向きな想像はもう止めにして、今この時を楽しむことに全力を尽くす。まず俺が楽しめないことには、麻夕ちゃんもいまいち楽しみにくいだろうし。

 麻夕ちゃんと並んで、順路に従って歩を進める。

「なんだかドキドキするね」

 そう言われると、なんだかドキドキしてしまうのだけど。

「そう? 暗いから足元に気を付けてね。魚とか落ちてるかもしれないから」

「え、うそ!?」

 麻夕ちゃんは飛び上がって、足元をきょろきょろと確認する。

 そんな麻夕ちゃんを見て、俺は思いきり吹き出してしまった。

「け、慶太……」

 魚なんて落ちてるわけがないということが分かったのか、麻夕ちゃんは頬を膨らませて、ジト目で俺をにらみつける。

 ホントに麻夕ちゃんは可愛いなあ。通路に魚が落ちてるってどんな状況だよ。水槽が割れて魚が出てきたのか? そうだとしたらかなりの事故だ。

 俺がまだ笑っていると、麻夕ちゃんはむぅと言って俺の腕や背中をポカポカと叩いてくる。

「慶太騙した!」

「いたっ、ごめんって、許して」

 叩くのは止めてくれたけど、まだ麻夕ちゃんはじーっとこっちをにらみつけている。

 本当に可愛い……。ただひたすらに可愛すぎる。

「ごめんって麻夕ちゃん、許して、ね?」

 俺が手を合わせてお願いすると、麻夕ちゃんはそっぽ向いて、

「……じゃあ、今回だけ許してあげる」

 なんとか俺のことを許してくれた。

「ありがとう。……あれ、麻夕ちゃんの後ろ、タコがいる」

 言い終わるが早いか、麻夕ちゃんはきゃっと言って俺の背中に回る。

 そして、俺の陰からそっと自分が元いた位置を見てみるけれど、当然そこには何もない。

 ……ヤバい、笑いが堪えられない……。

「慶太!」

 またもや俺のことをポカポカと殴りつける麻夕ちゃん。

「ごめん、麻夕ちゃんごめんって!」

「ダメ、許さないっ!」

 逃げる俺を、麻夕ちゃんは追いかけながら、あまり握りしめられていない拳を俺に打ち付ける。まったく痛くない。むしろ麻夕ちゃんの手が俺に触れて気持ちいい。

 ……そんなこんなで、俺たちはお馬鹿なやり取りをしながら、水族館の奥へと歩いて行った。ちょっとうるさくて周りの人は迷惑したかもしれないけれど、子どものはしゃぎ声だと思って勘弁してほしい。

 

 ――それから俺たちは、水族館の中にだいたい三時間くらいいただろうか。

 麻夕ちゃんは久々に来る水族館に感動しっぱなしだったし、俺もただひたすら楽しんだ。

 この水族館は、その謳い文句通りにかなり広く、世界中の水棲生物を見ることができた。

 上下左右がガラス張りになっているトンネル型水槽のアクアロードで、まるで海の中を歩いているかのような感覚を味わった。気持ち悪い顔をしながらも優雅に泳ぐマンタの姿に、麻夕ちゃんは見惚れていた。

 水槽の下からだったら麻夕ちゃんのキュロットの中を覗けそうだなどと思ったことは、俺の人生最大の秘密である。琴葉さんに知られたら間違いなく殺される。

 ラッコやアシカやアザラシには、麻夕ちゃんもうっとりとした表情で見入っていた。俺はそんな麻夕ちゃんに、うっとりとした表情で見入っていた。

 グロテスクな深海魚や軟体生物のことをすごい気持ち悪がるので、そんなことを言ってると夢に見るよと言ったら泣きそうになっていた。

 サメのことは本気で怖がり、ペンギンのフロアではたくさんのペンギンと一緒になって手をたたいて。

 無数の色鮮やかな小魚の群れの前で目を輝かせて。

 ところどころ挟む俺の薀蓄や冗談にはいちいち反応してくれて。

 イルカショーでは小さい子どもたちに混じってステージでイルカの餌やりをさせてもらっていた(違和感はなかった)。

 昼食は館内のレストランで食べた。

 さすがに魚介類をふんだんに使ったメニューがなくて安心した。麻夕ちゃんに自分が食物連鎖の頂点に立っていることをまざまざと自覚させるのはまだ早い。俺たちは、大水槽の中を悠々と泳ぐ魚たちを眺めながら、パスタを食べてコーヒーを飲んだ。

 そうして、楽しかった水族館もそろそろ出入り口付近まで戻ってくる。

 自分で決めといてなんだが、まさかこんなに楽しんでもらえるとは思わなかったし、こんなに楽しめるとは思わなかった。

 暗い館内から出て、外の光に目を細める。

 麻夕ちゃんは俺の隣で、はぁーと大きく息をついた。

「楽しかったぁ」

 そんな麻夕ちゃんを見て、俺はくすっと笑ってしまう。

 見れば分かる。見れば分かるけど――言葉にしてもらえると、やっぱり嬉しさは倍増する。

「良かった。楽しんでもらえて」

「うん、本当に楽しかった。また、連れてきてくれる?」

「いいよ。いつでも連れてきてあげる」

 最後に館内の売店で、お揃いのストラップを買った。

 綺麗なイルカのストラップ。

 きっと、これを見るたびに思い出すだろう。今日の夢のようなひと時を。

 

 

 ●

 

 

 さて、時刻は午後三時を回ったところ。

 俺たちは、水族館近くのショッピングモール内にあるアイスクリーム屋に来ていた。

 俺も麻夕ちゃんも超がつくほどの甘党なので、モールの中を一通り廻った後ここに来るのは半ば必然であった。

 水族館から出た俺たちは当初の俺の計画通りショッピングモールの方に移動し、そこでいろんな店を巡り歩いていた。

 雑貨店でいろんな小物を見てはしゃいだり、服屋で麻夕ちゃんに子供服を薦めてからかったり、ゲームセンターでは俺の得意ゲームでちょっとすごいところを見せ付けたり。

 似顔絵を描いてくれるところがあったので、記念に描いてもらった。俺も麻夕ちゃんも、ものすごく似ていた。

 ただ、麻夕ちゃんはともかく俺の方はもう少しカッコ良く補正を入れて描いてくれても良かったんじゃないかと思う。

 二人の似顔絵は麻夕ちゃんの提案で、俺が麻夕ちゃんの、麻夕ちゃんが俺の似顔絵を持って帰ることになった。

 麻夕ちゃんは、俺が自分と向き合うのが可哀想だと思ったのかもしれない。

 けど、麻夕ちゃんは俺の似顔絵をどうするつもりなのだろうか。多分、魔除けくらいには使えると思うが。

 ――とまあこんな感じでショッピングモールも水族館と同じくらい二人で楽しんだ。

 そしてさすがに麻夕ちゃんも疲れてくる頃合いかと思い、こうしてアイスクリーム屋でしばし休憩を挟むことにしたのである。

 ふと、視線に気づく。

 麻夕ちゃんが俺のチョコミントアイスを溶かそうと、熱い眼差しを送っている。

 ……まあ、別に溶かそうとしているわけじゃなくて、単に一口欲しいのだろう。

「一口食べる?」

「いいの?」

 いいとも。欲しければ別に全部あげても構わない。

「いいよ。はい」

 アイスをカップごと麻夕ちゃんに渡す。

 本当はスプーンに一口乗せてあーんてしようかと思ったのだけど、さすがにそこまでの勇気はなかった。

 麻夕ちゃんはスプーンでチョコミントアイスを一口分取ると、小さな口へ運ぶ。あ、俺のスプーンと思った時にはもう遅かった。麻夕ちゃんは俺のスプーンを使ってチョコミントアイスを食べた。

「これもおいしいね!」

「ミントって結構好き嫌い別れるけど、俺はこのスッとする感じ好きなんだよね」

 どうやらチョコミントは麻夕ちゃんのお気に召した様子。それは何よりである。

 しかし……これってもしかすると間接キスってやつなのか。いや、もしかしなくても間接キスだろこれ。

 ……なんだか、胸がドキドキする。プラスチックのスプーンが、妙に艶めかしく照り映えて見える。

 口の中で大量に分泌された唾液が喉を下り、ごくっと音を鳴らす。

 ――いや待て、おかしいだろう。

 二十一歳にもなってなんで間接キスごときで動揺しているんだ。

 こんなの友達同士でも普通にやってることだし(俺には友達はいないが)、小さい頃にお袋や妹と食べっこしたこともある。

 これくらい、大したことじゃない。

 そう断じて、麻夕ちゃんが使用したスプーンで俺は再びチョコミントを食べる――

「慶太、私もあげる」

 麻夕ちゃんがスプーンに一口分取って俺に食べさせてくれようとしている。

 いわゆる、あーんというやつだ。

 俺がやろうと思って断念したやつだ。

 ……正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。

 けれども、麻夕ちゃんの厚意を裏切るわけにはいかない。

 見よ、あの麻夕ちゃんの眼差しを。何の邪気も謀略もない、きらきら輝く無垢なる瞳を。

「じゃあ、いただきます」

 そう言って、俺は首を伸ばして麻夕ちゃんのスプーンから麻夕ちゃんのストロベリーミルクをいただいた。

 アイスの甘みの中に、また別の甘酸っぱさを感じたのだった。

 

 

 ●

 

 

 一日の締めくくりに、予定していた通り二人で観覧車に乗った。

 観覧車はそんなに高くはないけれど、海と沿岸の街を一望することができて、ロケーションとしては申し分ない。

 すでに日は傾きかけていて、西日が眩しく差し込んでいる。

 ぼんやり外を眺めると、眼下には水平線まで海が広がっている。日の光が水面に照りかえり、なんだか幻想的ですらある。

 今度は海まで行ってみるのもいいかもしれない。

 この時期はまだ泳ぐことはできないけれど、海岸を二人で歩くだけで十分楽しいだろう。

 夏になったらあらためて泳ぎに来るとして、他にも浴衣を着て花火やお祭りにも行ってみたい。

 秋になったら一緒に紅茶を片手に本を読み、気分転換にちょっと運動してみたり、壮大な芸術に心を震わせ、おいしいものをたくさん食べて。

 冬になったらクリスマスやお正月、バレンタイン、それに俺の誕生日などイベントが目白押しだ。澄んだ空の下で並んで夜空を見られたりしたら、それはもう最高だろう。

 そして来年の春、桜の下で一緒に麻夕ちゃんの中学卒業と高校入学をお祝いする――

 ――そんなこの上なく幸せな一年が、俺の頭の中を駆け巡った。

「今日は楽しかった」

 麻夕ちゃんが、海の方を眺めながらぽつりとそんなことを言った。

 斜陽を受けたその横顔は、何だかいつもと違って、とても大人びて見えた。

「ホントに? 女の子と二人で遊びに行くの初めてだったから、気の回らないところも多かったと思うけど、楽しんでくれたのなら良かった」

 うん、本当に良かった。

 あんまり年上の男らしいところとかは見せられなかったけど。

 麻夕ちゃんが今日という日を楽しんでくれたのなら、それだけで十分だ。

「慶太、女の子と遊びに来たことないの?」

 ……しまった、今のは失言だった。

 しかし、そこに食いついてくるとは、麻夕ちゃんも中々人の心を抉るのが上手い。

「……まあね」

 今さら誤魔化しようもないので、ここは正直に答えておく。

「じゃあ、恋人とかもいないの?」

「…………」

 容赦なく麻夕ちゃんは追撃をかましてくる。

 ……琴葉さん、こういう男性の敏感な事情を、きっちり麻夕ちゃんに教育しておいてください。

「……いないよ」

 けれども、ちゃんと答える俺は男の鏡だと思う。

 しかし――

「できたこともないの?」

 そこまで訊くのか。

 しかも心なしか、麻夕ちゃんの目が輝いている気がする。この子、意外にサディスティックな気の持ち主なのかもしれない。

 水族館やショッピングモールでちょっと虐めすぎたのだろうか。麻夕ちゃんはいちいち反応が可愛いから、ついからかってしまうのだ。

「……ないよ」

 そっか……なんて言ってしみじみと頷く麻夕ちゃん。

 ひとしきり俺を虐めて満足したようである。

 しかし、その質問を他人にするということは、自分も同じ質問を返されることは自明の理である。

 俺は満を持して、麻夕ちゃんに問い返す。

「麻夕ちゃんには彼氏いるの?」

 ストレートに訊いてみた。

「え!? えっと……いないけど……」

 あからさまにうろたえる麻夕ちゃん。

 おろおろと目を泳がせる麻夕ちゃんは、やっぱりとても可愛い。

 さて、反撃開始だ。

 まあ、彼氏がいないのは予想通り。本番は次の質問だ。

「じゃあ、好きな人はいるの?」

「あぅ……えっと……」

 言い淀む麻夕ちゃん。

 麻夕ちゃんの白い頬が真っ赤になっているように見えるのは、夕日のせいだけではないだろう。

 そんな麻夕ちゃんを見て、俺はまたくすっと笑ってしまう。

「言いたくなかったら、秘密でもいいよ?」

「えっと……じゃあ、秘密で」

「了解しました、お嬢様」

 麻夕ちゃんはホッとした様子で、再び目を窓の外に転じる。

 麻夕ちゃん、言わなくてもまる分かりだったよ。好きな人、やっぱりいるんだね。

 琴葉さんはこのことを知ってるのだろうか。

 知ってるだろうな……知ってて何も言わずにいるのだったら、さすがだと思う。

 俺としては、もちろんちょっと寂しいけれど、その好きな子とは別に、俺にこれだけ懐いてくれているのは素直に嬉しい。

 麻夕ちゃんは将来どんな人と付き合うのだろうか。

 麻夕ちゃんが今恋をしている人というのはどんな人なのだろうか。

 初恋なのかな……中学三年生だともういくつかの恋を経験してるかな……。

 何にせよ、叶うといいんだけどな……。

 たとえそれで俺がお役御免になるとしても。

 麻夕ちゃんが幸せになるのであれば、それが一番だ。

 こんなふうに思えるあたり、お前も少しは大人になったのだろうか。

 観覧車の窓ガラスに薄く映る自分の姿に、心の中で訊いてみた。

 

 

 ●

 

 

 観覧車から降りると、俺たちは帰路についた。徐々に暮れゆく日の光を浴びながら、二人並んで駅へと歩を進める。二人分の長い影が、仲良さそうに寄り添っている。

 今日は本当に楽しかった。

 できればまだ帰りたくない。楽しい時間を終わらせるのは忍びない。

 けれどもそろそろ帰らないと、琴葉さんに凄惨な拷問を食らいかねない。

 見たところ、麻夕ちゃんもかなり疲れてきてる様子だし。

 日はいずれ沈み、時間はただ過ぎ去るのみ。

 幸せな時間は、長くは続かない。何事にも終わりは来るものだ。

 でも……今日が最後というわけでもないだろう。

 麻夕ちゃんと遊ぶ機会は、まだいくらでもあるはずだ。

 ちょっとしたきっかけで偶然出会い、俺に懐いてくれた女の子。

 花のように愛らしく、天使のように純粋無垢な女の子。

 麻夕ちゃんと知り合ってまだ一週間しか経っていない。これから俺と麻夕ちゃんがどんな関係になっていくのかは想像もできないけど、まあ、なるようになるだろう。

 帰りの電車に乗り込むと、瞬く間に麻夕ちゃんは眠りについた。やっぱり疲れていたんだなぁと思って、俺は少し笑った。

 途中、こてんと麻夕ちゃんの頭が俺の肩に乗る形になった。麻夕ちゃんの髪からとてもいい匂いがした。俺もちょっとだけ麻夕ちゃんの方に頭を傾けた。

 いつまでこうしていられるかは分からないけど、今この時だけは麻夕ちゃんを独り占めさせてもらおう。

 そうしている内に、早々と電車は遠見が丘駅に着いてしまい、俺は麻夕ちゃんを起こして電車から降りる。

 眠たそうに瞼を擦るその仕草は、やっぱりあどけない少女のものだった。

 改札のすぐ外で琴葉さんが待っていた。どうやら、俺たちを尾行してはいなかったようだ。

 二人と一緒に、御影家の車が停められた位置まで赴く。そこで今日はお別れだ。

 最後に琴葉さんと二言三言交わして、麻夕ちゃんとまた遊びに行く約束をして、二人は車で行ってしまった。

 俺は車が見えなくなるまで、その場で二人を見送っていた。麻夕ちゃんも、ぎりぎりまで俺の方に手を振ってくれていた。

 車が完全に見えなくなってから、俺は駐輪場に停めてあった自転車を拾って家に帰った。

 楽しかった思い出と、次への希望を胸に抱いて。

 

 

 ●

 

 

 車の中で、お嬢様はとても満足そうな笑みを浮かべて、外を眺めておられます。

 そんなお嬢様は、なんだか私の知らない間にずっと大人になってしまわれたような気がして、少し寂しさも感じてしまいます。

 ですが、この満ち足りた笑顔を見ていると、私まで満たされた気持ちになってきます。

「どうでしたか?」

 と、分かりきったことを訊いてみます。

「とっても楽しかった……」

 しみじみと噛みしめるように言葉を紡ぐお嬢様。

 本当は、お嬢様と慶太さんの二人きりだと間が持てないのではないかと少し心配していたのですけれど、どうやら杞憂だったようですね。

「想いは伝えられましたか?」

 そう訊くと、お嬢様はゆっくり首を振られます。

「いいの。もうちょっとだけ、今のままでいたい」

 その言葉の意味するところが、私の中にすっと溶けていきました。

 もうちょっとだけ。今のままでいたい。

 きっと、お嬢様と慶太様の甘くも酸いこの関係は、長くは続かないことでしょう。

 十四歳と二十一歳という年齢の違いはことのほか大きいものです。

 片や国内有数の資産家の令嬢で、片や大学中退のフリーターという身分の違いも、正直言って決定的とすら言えるでしょう。

 もしかしたら、私はとても残酷なことをしているのかもしれません。

 お嬢様が、そういった諸々のどうしようもない事情を目の当たりにする前に――叶わない恋に絶望する前に、お嬢様を諭してさしあげるべきなのかもしれません。

 ですが――お嬢様も、いつまでも今の心地良い関係を永遠に続けられるわけではないことはちゃんと理解されておられます。

 環境も、状況も、心も、すべてが移ろいゆく以上、お嬢様と慶太様の関係も今の状態をそう長く続けることができないということを、お嬢様は分かっておられるのです。

 なら――

 もう、私が言うべきことは何もございませんね。

 お嬢様、頑張ってください。私もできる限りのことはいたしますから。

 慶太様、お嬢様のこと、これからもよろしくお願いしますね。

 夕日を背に、遠ざかる慶太様のことを思うお嬢様は、今日また一つ、大人になられたのでした。

 

 

 

 

 

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