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結婚初夜、慣習に従ってフィオレナは侍女たちに再び体を磨かれ香油をすりこまれ、グウィネイラの気高き霊峰の雪解け水をグラスに一杯飲み、真っ白な夜着に包まれてベッドルームに戻された。暖炉はすでに火がつけられ、部屋は十分に温まっている。普段、フィオレナが過ごすだけではあり得ない待遇であるが、今夜は王であるスヴァログがこの部屋を訪問する慣例だから、侍女たちの仕事にもぬかりはない。
(その王も、きっと来ないのだろうけど……)
フィオレナは冷めた思いで、サイドテーブルの上の果実酒のそばに置かれた二つのグラスを見つめた。彼はきっと、今頃はあのオレーシャのもとにいるだろう。フィオレナにはそんな気がしていた。王妃としてのフィオレナなら、最低限のルールさえ守られているならば王が愛人を囲んでいようと反論はしない。だけど、フィオレナという一人の女の気持ちでは……複雑だった。もはやフィオレナの平穏で幸せな日常の“敵”とも言える存在になったとは言え、スヴァログはかつてフィオレナが想い続け愛すと決めた男なのだ。今でも彼の豹変ぶりを半ば呆然として受け止めているフィオレナにとって、彼がオレーシャを愛している素振りは、あまり見たくないものだ。信じたくないと言ってもいい。
(でも……これが現実。今ここに、あの人はいないのだから)
フィオレナは、用意された果実酒のデカンタに手を伸ばした。この地域特産の強い酒で、寒さの厳しい夜に熱したものを飲むことが多い。今回も素手では持っていられず、フィオレナはキルトでデカンタを掴み直し、二つのグラスに酒を注いだ。湯気がゆらゆらと踊り、華やかな果実の香りが広がった。グラスを一つ手に取り、カチンと軽く合わせる。
「私が夢見た、かつてのあの人に……私は、私を捧げます」
一口飲み込んで、すぐに焼けるような熱が腹に落ちる。もともと酒はあまり強くないので、フィオレナはそのグラス一杯だけを暖炉の前でちびちびと口をつけていた。床に敷いたラグの上に直接座り込むなんて、本来なら王妃がすべきではない。でもどうせ、この部屋に誰か来ることはないのだ……とフィオレナは抱えた膝に顔をうずめた。少し酔いが回ったのか、ポカポカの体が眠気を訴えている。本能に身を任せ、意識を手放そうとした、その時――。
冷えた空気がフィオレナの背を撫でた。ハッと覚醒し、振り返ると、そこにはスヴァログが立っていた。音も気配もさせず、ただ廊下の冷気を纏って、フィオレナの後ろに立っていた。
「これは、陛下……気付かず、失礼いたしました」
フィオレナはすぐに女王の仮面をかぶり、優雅に立ち上がった。スヴァログは無表情で、そんな彼女を見つめるだけ。
「廊下はとてもお寒かったでしょう? 侍女が果実酒を用意してくれたので、召し上がってください」
さきほど注いだグラスはすでにぬるくなってしまったので、フィオレナは新しいグラスを棚から出して酒をついだ。するとスヴァログは彼女の背中に向けて、低い声を出した。
「誰か、いたのか?」
その声に含まれる真意も感情も、フィオレナには読み取れなかった。ましてや彼が自分に興味関心があるようにも思えなかったフィオレナは、なぜそんなことを聞くのかと、当然ここには誰も来ないと一番分かっているいるのはスヴァログのはずなのに、とやりきれない思いがした。酔っているせいなのか、フィオレナは素直に返事をせず、はぐらかそうとした。
「さあ? ここ尋ねることができる人なんて、限られた人しかいらっしゃらないと思いますけれど」
それはつまり、あなた以外にありえない、というフィオレナの悲しい矜恃だった。どうせ気付いてくれないのに、自分は何をすねているのだと少し自嘲して、酒をついだグラスをスヴァログに差し出した。その時、突然その手を掴まれて、フィオレナは驚きでグラスを落としてしまった。毛足の長い絨毯のおかげでグラスはヒビが入って欠ける程度で済んだが、酒のしみが広がってしまった。それを呆然と見つめ、スヴァログを見上げた時、フィオレナは初めて自分の失敗を悟った。これまで冷めた色しか見せることのなかった彼の目が、恐ろしいほどの怒りに染まっていたからだ。憎しみとは違う怒気に、フィオレナは言葉を失った。
(なぜ、そんなに怒るの?)
何が彼を怒らせたのか分からず、戸惑うばかり。スヴァログも何も言わない。そのまま手首をぐいっと引っ張られ、ベッドに向かって突き倒された。慌てて体を起こす前にスヴァログにのしかかられて、フィオレナは身動きが取れなくなってしまった。唯一自由だった両手も難なく一手にまとめて掴まれた。驚きのあまり声を出せないでいるうちに、スヴァログの顔がフィオレナの首筋にうずめられた。と、同時に、チリッと針に刺されたような痛みが走る。
やめて! と叫ぼうとした瞬間。吸い込んだ空気に混ざる香り。フィオレナは気付いてしまった。それは、甘い、白檀の匂いだ。オレーシャが身に纏う、女の匂い。それをスヴァログから感じるということは……。
(やっぱり、あの人と……)
分かっていたけれど。それでもどこかで、信じていたかったと叫ぶ自分がいた。まだ、昔の彼がどこかにいるんじゃないかと望む自分が。
(この人の愛は、私には向けられない……。私は、彼に、ただ一人愛されたかったんだわ……あの、2年前の彼に……)
そう自覚して、フィオレナは抵抗をやめた。
(この人は、もうあの頃のスヴァログ様とは違う人。スヴァログ様はきっと、もういないのよ。この人は、その影に生まれた悲しい人……私の愚かな心を砕きに来た人……)
フィオレナに現実を見ろと、そう突きつけるのがこのグウィネイラ王なのだ。だったらフィオレナは受け入れなければならない。この男に殺された家族たちの無念は、紛うこと無き現実なのだから。ニーナと約束した、ティアータの未来も、この現実の先にあるのだから。
スヴァログの手がフィオレナの体を這い、夜着の腰紐を取りはらった。そして、冷たい手が直に、フィオレナの乳房をつかんだ。
「……陛下、」
その時、フィオレナはたまらず声をあげた。スヴァログは光のない目でフィオレナを見返す。無言で先を促していた。
「私を抱くなら、私はあなたに王妃としての責任を負います。それはつまり、あなたは王妃としての私から、少なからず枷を与えられるということです」
これは、宣戦布告だ。フィオレナなりの、一矢を報いるチャンスなのだ。
「オレーシャ様を愛すなとは、王妃の私は申しません。でも私を抱くなら、あなたとオレーシャ様の仲はこれまでと否が応でも変わってしまいます。その覚悟がおありなら……どうぞ、私はこの体を差し出しましょう」
美しい笑顔まで浮かべて、フィオレナはスヴァログに言った。裸で男に組み敷かれている女が浮かべられるような笑みではない。それは、女王としての、フィオレナの顔。
しばし時間の凍った沈黙が流れた。
「……萎えた」
やがてスヴァログは彼女の乳房から手を離した。少しほっとしたのも束の間、次に彼が取り出したものを見てフィオレナはすぐに緊張を高めた。彼の手にあったのは、水晶でできた美しい小刀だったのだ。
スヴァログは彼女の手を掴むと、刃を彼女の親指の付け根に押し当てた。そして滑らかに滑らせる。
「つッ……」
痛みに頭皮が縮むような感覚がして、フィオレナは唇を噛んだ。すぐに赤い線が浮かびあがる。そしてスヴァログはフィオレナのその手を真っ白なシーツに押し当てた。
「それで俺を牽制しているつもりか? お前がどんなに崇高な人間になろうと、俺はお前にひれ伏したりしない。……いや、そうなっては、ならないんだ」
最後は自分に言い聞かせるようにして、低い声が唸った。フィオレナは解放された手を慌てて胸に抱いた。シーツには血のしみが円く広がっている。それを見つめていた彼女の顎を、スヴァログが取り持ち上げた。
「今夜、俺はお前を抱いた。抱かなければならなかった。そうだな?」
「……ええ、陛下。私は今宵、あなたに純潔を捧げました」
負けじと睨み返すフィオレナを見て、フッと笑うスヴァログ。それにドキリと一瞬胸を鳴らした彼女を、誰も責められやしないだろう。
「話の分かる女は嫌いじゃない。今日は思い出に残る夜だった……愛してる、フィオレナ」
その耳に直接囁き、スヴァログはさっと身を翻した。放された顎がズキズキと痛み、フィオレナはうまく笑えなかった。
「また、お待ちしておりますわ、陛下。よい夢を……」
そう言って平伏すると同時に扉が閉まり、足音もなく彼は去っていった。
『愛している、フィオレナ』
その虚ろなささやきがどんなに彼女の胸を穿つか、彼は本当には分かっていないだろう。どんな仕打ちをされようと、彼はただ一人、フィオレナの愛した人なのだ。その彼がどうしてか変わってしまった。フィオレナに向けられるのは残酷な憎しみばかり……。
(でも、憎しみは無関心よりまし……。そう思ってしまう私も、たいがい狂っているわね)
悲しげに微笑んで、フィオレナはベッドを降りた。適当にシーツを乱れさせ、掛け布団だけを掴んで暖炉の前に丸くなった。自分で自分の体を強く抱き締める。
朝になれば、きっと無表情の侍女たちがやって来てベッドの有様を見るだろう。フィオレナが何も言わずとも、初夜は無事に済まされたと、思ってくれる。そしてその情報は侍女長に行き、政界の重役たちの耳に届き、今後の政治に少なからず影響を与え、フィオレナの王妃としての立場は磐石となる。それはつまり、様々な視線に晒されるということ。憧れか、妬みか、憎しみか、欲望か。フィオレナの言動一つで多くの人か動くのだ。
(背負って、やる。背負って、利用して、私は絶対に、黙ったまま死んだりはしない……)
固く決意をして、フィオレナは目をつぶった。
その夜は、何かとても幸せな夢を見た気がした。




