第1話 天賦の才(前編)
寒々しく雪が吹きつける夜だった。
鬱蒼とした森を背に佇むリンデン男爵邸の居間では、暖炉の火がパチパチと燃えていた。
その火の前に、家族が勢ぞろいしていた。
ただ一人、早々に眠ってしまった長女を除いて。
「ああ、ついに明日だ。どうしよう、リセ。あの子が嫁に行ってしまう」
「みっともなく騒がないで。もう送り出すと決めたんでしょう、あなた」
小太りの男・リンデン男爵に、妻のリセがピシャリと言った。
「とは言え母さま、僕も心配でたまりません」
「姉さま、ずっとお家にいちゃダメなの?」
気の強そうな青年・ハイドと、十歳ほどのあどけない少女・ルーシーが口々に言った。
二人ともリセによく似た整った顔立ちをしている。
「恥ずかしがり屋とか奥ゆかしいとか、世間にはそう思われてるけど、姉さんは……」
ハイドは言いかけて、口をつぐんだ。
ルーシーは椅子から飛び降りると、男爵の膝に上った。
「それに、エーレンベルク伯爵さまって冷たい男なんでしょう!? なんでそんな人のところに姉さまを行かせちゃうの!?」
幼い瞳に涙を溜めながら、ルーシーは男爵の胸倉を掴んで揺らした。
「ル、ルーシー。落ち着きなさい。彼はそんなに悪い人ではないよ」
「そんなのわからないじゃない!」
「ルーシー、いい加減にしなさい。あの子は……ノーラはどこに出しても恥ずかしくない子よ」
リセのキビキビした声が、場の乱れた空気をピリッと引き締めた。
「ああでも……結婚となるとやっぱり不安だ……伯爵さまはきっとすぐ気づいてしまう……」
男爵は、背もたれに深く寄りかかって言った。
目を閉じ、祈るように両手を組むと、深く息をはいて続けた。
「エレオノーラが……天性のバカだと――」
『似たもの夫婦の恋日和 ~堅物騎士団長は深窓のアホ令嬢を読解してみせます!~』
翌朝。
昨夜の雪が嘘のように、真冬にしては暖かかった。
リンデン地方の田舎道を、エーレンベルク伯爵家の荘厳な馬車が走っていた。
馬車の中には、一人の貴婦人と侍女が座っていた。
「お嬢さま、こちらをどうぞ」
「ありがとう」
侍女は、目の前に座る女性の膝にブランケットを掛けた。
「でもマノン、私はもうお嬢さまじゃなくなるのよ」
「失礼しました、奥さま」
エレオノーラ・アフ・リンデン。
これからエーレンベルク伯爵家へ輿入れする、リンデン男爵家の長女だ。
リンデン家の侍女・マノンを連れて、エーレンベルク伯爵邸へと向かっていた。
「王都の伯爵邸までは三時間ほどかかるそうです」
「そう。少し眠ろうかしら」
エレオノーラは、窓に寄りかかって目を閉じた。
マノンは幼い頃から仕えている主人の寝顔を見つめて祈った。
どうかこの結婚が、上手くいきますようにと。
* * *
昼時を過ぎたころ、エーレンベルク邸の庭では、使用人たちが雪解けで汚れた石畳を懸命に掃除していた。
間もなく到着する、伯爵の新しい奥方のために。
「エレオノーラさまは、女神のような美しさなのでしょう?」
「私も噂を聞いたわ。それに、ジスラン王太子からの推薦でしょう? きっと素晴らしい方よ」
騒ぐ侍女たちの横で、調理服を着た男が忌々しげに言った。
四十前後と思われる男は、無精ひげを生やし、粗雑な雰囲気だった。
「どうせ大したことない田舎の小娘だ。大体、なぜ俺までこんなことを」
「口が過ぎますよ。奥さまになられる方なのですから」
そばにいた執事に嗜められると、料理長はふんっと顔を背けた。
「何を騒いでいる、準備はできたのか」
その直後、玄関から聞こえた声に、使用人たちは口を閉ざした。
声の主である長身の男が、庭の方へ歩いてくる。
クラウス・フォン・エーレンベルク。
エーレンベルク家の当主にして、二十三歳という若さで王国騎士団長を務める剣の天才だ。
柔らかな質感の黒髪と淡いヘーゼル色の瞳は、一見彼を物腰柔らかな好青年に思わせた。
しかし、彼が全身に纏う威圧感が数人の侍女を震え上がらせていた。
「い、いましがた完了しました、クラウスさま。まもなく奥さまもご到着です」
使用人の言葉通り、ちょうど馬車の音がした。
馬車は門前に停まって、クラウスは扉の脇へ歩み寄った。
御者が静かに取っ手を引くと、ズラリと並んだ使用人たちが、一斉に頭を下げた。
カツリとヒールを鳴らして、空色のドレスをまとった女性が姿を現した。
「よく来てくれた、エレオノーラ嬢。私は――」
クラウスはエスコートしようと手を差し伸べたが、途中で言葉が止まった。
使用人たちは、不思議に思って顔を上げた。
そして、目の前の女性に釘付けになった。
天から女神が舞い降りたと、誇張なく誰もがそう思った。
それほどまでに、現実離れした美しい女性がいた。
腰まで伸びた艶やかなブロンドの髪が揺れ、卵形の輪郭には、青い宝石のような瞳と、スッと通った鼻がバランス良く収まっている。
固まったままのクラウスの手を取って、エレオノーラは馬車から降りた。
「お出迎えありがとうございます。エレオノーラ・アフ・リンデンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
エレオノーラは美しくカーテシーをした。
爪の先まで洗練された優雅な所作だった。
誰からも返事がなく、エレオノーラは不思議そうにクラウスを見た。
「あの……」
「あ、ああ。すまない。私がクラウス・フォン・エーレンベルクだ。遠いところ、よく来てくれた」
クラウスは我に返って、エレオノーラの手を放した。
エレオノーラは、百八十センチあるクラウスの横に並んでも、その目元辺りまで届く長身だった。
手足が長く、何より驚くほど顔が小さい。
あまりに絵になる二人だった。
「おい、ぼーっとするな。仕事に戻れ」
クラウスは使用人たちを見て、パンと手を叩いた。
「疲れただろう。荷物を置いたら、お茶を用意しよう」
「お気遣いありがとうございます」
クラウスはエレオノーラをエスコートして玄関へ向かう。
「素敵……」
いまだに夢見心地のメイドが一人、ぽつりとつぶやいた。




