12.落花生の本領
どれくらい泣いたか分からない。
自分が思っているほど長くなかったかもしれない、申し訳なさそうに離れるわたしにイケメンは笑顔で対応してくれた。
弱った病人に支えとして、体の一部を貸してくれただけ。この状況は、彼にとって誰にでも差し伸べるべき優しさであって、わたし個人に向けられたものではない。
所詮、わたしは顧客。大事なお客様。
わたしレベルの女、こんなみんなに愛されてそうなイケメンがビジネス抜きに相手してくれるわけがない。そういう自分の身の丈は、大学時代にわきまえてる。
だけど、わたしも弱りすぎて、その優しさにすがることが恥ずかしいとかも思わなくなってきた。つかの間のヒロイン気分に浸ってる可哀想なおばさんに思われてもいい。本当に、心の底から思って、勘違いしてるわけじゃないんだから、分かっててごっこ遊びしてるんだから。
「あの、高梨さん、最近、運動してますか」
「え? 運動。してないです」
「少し体動かしたらスッキリしますよ」
「はあ」
運動不足だとは思う。
でも、野菜を食べ始めて自然に痩せたから体が重いとかは感じない。
「後輩の話なんですけどね。去年女一人である観光地に行ったんです。自殺の名所としても有名なところらしいんですけど。そこから帰ってきたら、彼女変なこと言い出すようになったんです」
「変なこと?」
「私、美容師の霊が乗り移ったみたい。って」
「霊?」
「普段は選ばないようなシャンプーを手に取ってて、ドライヤーの使い方がものすごく上手くなって、ハサミ持ったら今までは人差し指に指入れてたのに、無意識に薬指入れるんです。好きな色も変わって、すべてが私の意思じゃないの! って」
その女性の真似をしているかワントーン高い声で説明する喋り方が、笑うとことじゃないんだろうが可笑しい。イケメン君は元劇団員かなにかか。
「それで俺、ヤバイと思って、医者になった友達に相談してみたいんですよ。そしたらそいつ笑って、なんでもいいから体動かせ。とりあえず一日20分でいいから歩けって。その子にそれを伝えたら、毎日ウォーキング始めたんです」
「はあ」
「それで、三ヶ月したら、美容師の霊がいなくなったんです!」
「へえ」
つまりは、なんだ、頭の中で作り出した霊だったというのか? 体を動かすことでいろんなバランスが整って、自分で作り上げちゃった亡霊に打ち勝ったと。
一理あるだろうな。頭ばっかり使って閉じこもってると、変な物に取り憑かれたように人格変わっていく気がする。
「体を動かせば除霊もできます」
「え?」
そっち? イケメン君。純粋すぎるのかバカなのか、オカルト好きか。
「でも、いきなり運動っていうのも面白くないじゃないですか」
「確かに。体鍛えることに快感ないし」
「9月10月に、こんなのあるんですけど、申し込みしませんか」
イケメンはポケットから小さく折られたチラシを出してきた。子供が泥だらけの芋を持ってわらっている写真。裏面にはほくほくの焼き芋と黄金に輝く栗の写真。
「芋掘りウォーキング。栗拾いウォーキング」
「はい。この間まで、ブルーベリー摘みウォーキングだったんですけどね」
なんだ。
結局。やっぱり営業か。
「ウォーキングしつつ、芋畑に行って芋掘る。栗畑で栗を拾う。ただそれだけなんですけど、みんなで歩くと意外と楽しいんですよ」
「へえ」
「僕も、スタッフとして参加しますんで。詳しくはホームページ見てください」
営業だよね。
わたしを誘ったわけじゃない。
「ありがとうございます。考えておきます」
「はい。じゃ、失礼します」
イケメンは満足気な笑顔で出て行った。
自分の力でこの人を救った。そんなふうに少し思っていそうな若さが、仕事に対する一生懸命さが、余計痛い。
「わたしにも変な霊ついてるのかな」
9月に入って無事、菜奈は会社を辞めた。
気軽に相談の乗ってくれる存在がいなくなって、寂しい。
同僚がいないと、若くない女子職員として職場の居心地が悪くなってきた。
「高梨さん、今日、夜予定ある?」
副島さんがコピー機のついでに、わたしの席に寄って聞いてきた。
「いえ、とくには」
「じゃあ、また付き合ってくれない? 家族には送別会ってことになってるから」
「ああ。はい」
職場の飲み会を徹底的に欠席している副島さん。菜奈の送別会ももちろん来なかった。菜奈のことをどう思ってるとか関係なしに、飲み会には来ないキャラを突き通しているから絶対に来ない。
しかし、働くお母さん故、公的に夜出かける機会を家族から得られる機会は少ない。だから「仕事の一部の会社の飲み会」の日を独自に設けて有意義に使ってガス抜きをしてるようだ。若くない女性職員としては味方にしておいた方がいい存在だ。
なにより、また付き合ってと言うことは、あのお店だ。
また行きたいけど、まだ一人では行く勇気のない隠れ家的家庭料理のお店。
喜んでお供する。
夜になるとめっきり涼しくなった。普通のおうちの佇まいで向かえてくれるお店は、ものすごい安心感に包まれていた。実家の居心地が良かった人は「実家に帰ったよう」とか言うんだろうけど、わたしには極上のシェルターといった感じだ。
強面の空手の先生おまかせカクテル。今日は和梨のスパークリングワイン。
すりおろした梨ですこし濁った色の白のスパークリングワイン。秋を感じつつ、何の記念日でもないのにお祝いシャンパンみたいなリッチな雰囲気をまとって、今の沈んだ気分を上げてくれる粋な味がした。
上がった気分を下げないように絶妙なタイミングで奥さんの手が小鉢を差し出した。
「はい。落花生の塩茹で」
奥さんの嬉しそうな声。生ニンニクの時と同じ笑顔。
「落花生の旬が来たか!」
副島さんも旧友に再会したかのような喜び方をしている。
「もしかして、これもニンニク同様、生で手に入って茹でたてってやつですか?」
「そう。新物よ」
「もう、すっごく美味しいから」
副島さんが落花生のくびれた部分を折って、中から豆を取りだして見せてくれた。
殻いっぱいに豆が入っている。殻とほぼ同じ大きさだ。わたしが知ってる落花生は、ホームセンターで売ってるような長期保存できるやつ。振るとカラカラ音がするくらい中にすき間があって、小さな硬いピーナッツが入ってる。あれは炒ったもので、本来はこのサイズなのか。あっちが普通だと思ってたから、生を茹でただけの豆は、ふやけて膨張したかのように見える。茹で落花生か。こんな枝豆みたいに食べられるとは。
「なにこれ」
口に入れて、わたしの中のピーナッツの概念が変わった。食感は栗みたいでほくほくしてて、味はピーナッツなんだけど、ナッツ類に分類される食べ物に属している気がしない。
これも、ニンニク味噌同様にヤバイ。中毒性のある味。延々と食べられる。
落花生ってこんなに美味しかったんだ。なんか、ガチガチに武装した人の素顔がめちゃくちゃふわふわした柔らか美人だったみたいな衝撃。
知らなかった。
なんか、最近、そういうの多いな。
そのモノの本質とか、本当の姿とか、本当はものすごく素敵なのに見ていない。
副島さんもその一人だ。
知らない側面がいっぱいある。少し気になる。
梨のスパークリングワインは、飲み口が良すぎて進んでしまう。最近、いろいろありすぎたからか、わたしはいつもより飲んでしまった。
酔いに任せてわたしは副島さんに聞いた。
「副島さんって、結婚したの30歳くらいですか」
「え、ああ。そう丁度30だね。なんで?」
「いや、わたし今、30なんで」
「結婚するの?」
「いや、分からないです。結婚ってどうなんですか? しかも副島さんはキャリアを捨てて子育て専念したタイプですよね。迷いとか無かったんですか。それだけ旦那さんのこと好きだったからですか?」
わたしは酔っ払い口調でまくし立てた。意識はある。本当は聞きにくいけど勢いで言ってしまった風にしたい。
「聞きたい?」
副島さんは小悪魔的な笑顔で言ってきた。
カウンターの隅で奥さんが笑っている。
「はい」
「そう」
さほど飲んでいないのか、副島さんは姿勢を整え、今から仕事でも始めるかのような、冷静な表情になった。
「妊娠が分かって、上司に相談したんだ。男性のね」
「はい」
「自分の父親よりは若いけど、まあ、頼りになるお父さん的な存在だったのよ。だから、ちょっと愚痴ってみたいの。両立できるかどうか不安な気持ちを」
「その時は両立するつもりだったんですか」
「うん。でも現実問題きついじゃん。その点、自分で産むわけじゃない男は仕事続けつつ、いつの間にか父親になれちゃっていいなって思って、男性は同時進行できていいですね。仕事も自分の子供も。ってぼやいたらさ、その上司なんて言ったと思う?」
「まったく分かりません」
「男は仕事も自分の子供同時進行に考えてしまうところがあるからな」
「え?」
「一言一句、覚えてる。そう言ったの。意味分かる?」
「いや」
「分からないでしょ。わたしの言葉を反復しただけ? にしたら、意味変わってるし。その時は思考停止しちゃって確かめることもできなかったんだけど、その瞬間、仕事辞めようって思ったの」
上司の言葉も、副島さんの辞職へ導いたものが何かもよく分からない。
「つまりさ、子供を産む女は一時的に子育てに専念する時期があるけど、男は仕事を続けつつ父親になるから両立してると思っているってことかって」
「そういうことですか?」
「父親業を立派にやってるって意味じゃなくて、女は一回やめてこっちだけ、みたいにできるけど、男はしないって。そのまま状況説明してるのか、暗に男性は欲張りな生き物なのさ、分かってくれよーみたいに甘えられてるか、とりあえず気持ち悪いって思ったの」
なんか混乱してきた。
でも、その上司が的外れなことを言っていたのは分かる。
「同時進行で考えるって、考えるところなんか知らないよ。実際、男が同時進行で考えるのっていつだよ? 何言ってる? そんなこと言ったらさ、女性は初潮が始まってから何十年も毎月毎月、そういう出産につながる体の変化と同時進行で生きてるよね。運動会や試験の日が生理の日だって、耐えてきたよね。同時進行って思うこともなく、常に両立して生きてるよね。何が男は同時進行に考えるだよ」
奥さんは苦笑いしながら、無言で副島さんの前にお冷やを置いた。
この話題で何回、副島さんはヒートアップしてきたのだろうか。
「ああいう男はね、自分が何もやっていないことをつつかれたくないから、子供は勝手に育つとかいって、奥さんの苦労をなかったことにするんだよ。子供産んだ後に、この人のところで働きたくないってすごく思った。まあ、復帰して同じポジションを与えてくれる気もしなかったし、子供ができた女は使い物にならないみたいな雰囲気ちょっとあったしね」
「12年前くらいですか?」
「そうね」
信頼してた上司に裏切られたショックが大きかったのだろうか。
思い出したくないことを思い出させてしまったよな、少し申し訳ない気になった。
「それで、その話を旦那に話したら、しばらく専業主婦になってくれって言われた」
そういう流れで専業主婦?
「旦那の会社はさ、結構女性職員が働きやすいようにいろんなことやってる方なんだ。表面的にね」
「表面的・・・・・・」
「働くママの予定に合わせて仕事時間が選べます。みたいなのやってたけど、そのしわ寄せが全部、男性職員、独身の職員にくる」
うちの会社も一緒じゃん。と言いそうになったが、その状況になったのは子供が入院したとかで副島さんが休んだ時だったことを思い出した。
「12年前、30台前半。旦那と同期の女性職員は定時に帰れるの。同じ子持ちでも旦那は毎晩夜中に帰ってくる。ある意味、わたしが専業主婦になるのは、働く女性を支えるために働く男性を、支える仕事をしてるんだって」
そっか、そこまでしわ寄せが来るとは思わなかった。システムがきちんと出来てないのに、新しいことを始めるとうまく回らないよな。
「間接的に、他人の子育てしてるような感じだった。その働くママの旦那は何時に帰ってくるか知らないけど、専業主婦のわたしはおかげさまでワンオペ育児でしたからね。だから、その逆襲として、子供が大きくなったから働くことにしたのよ」
「誰に対しての逆襲ですか?」
「分からない。でも、働くことに、あえて本社じゃないところで働くことに、自分の中でいろんなものに地味な仕返しして満足してるの。いい話風に言いくるめてきた旦那にも」
結局、キャリアがあるからできたことなんだろうな。逆襲するためでも、新卒なのに何十社も落ちてやっと雇ってもらえたわたしと同じ仕事してる。
自分の結婚について、アドバイスをもらえるかと思ったが、余計落ち込みそうな気分。
「やだ、ごめん、結婚に希望なくしちゃった?」
「え、いや」
「でもね。30で結婚できてよかったって思うよ。だって、今働けてるし。息子二人はなかなかのイケメンに育ってるから、これから楽しみだし」
「そうなんですか」
「あんまり先のこと考えて結婚決めることないよ。自分も変わっていくから」
「はあ」
「そうそう変わるから、変えていけばいい。うちも若い頃はだいぶ苦労させられたよ」
奥さんが耳打ちするように言ってきた。先生は他のお客さんの対応をしてて、聞こえていないようだ。
「あの人、選手だったからさ、わたしは完全に支える側の人間にさせられて、常に黒子よ。正直、格闘技とか興味ないんだけどね。ご飯作るのは好きだったからなんとか続いた」
「え、そうなんですか」
「教える方に専念して収入も含めて生活が落ち着いて、子供達も独立したから、やっとわたしの夢が叶った。今度は主人が黒子」
「へえ」
この店は奥さんの夢だったのか。
「ま、悔しいぐらい一緒に楽しんでるけどね」
そうなんだ。
店内を見回した。
二人でいろいろ乗り越えて末に出来上がった城なんだろう。そこに来る副島さんにとっても、自己実現の末に築いた居場所なんだろうなと思えてきた。
わたしは、ここにたどり着けるだろうか。
その相手が、隆平なのだろうか。
自分の気持ちが定まれば、結婚は楽しいと思える気はする。
どうしても、相手はどう思っているのかが先行してしまう。
ああ、分からない。
なんか偽善的な霊が取り憑いてるのかな。
やっぱり、少し歩こうかな。
週末、野菜のこない土曜日。
菜奈から荷物が届いた。段ボールいっぱいの、生落花生だった。
「やったー!! ん? 何」
そして「調査報告書」と書かれた封筒が中に入っていた。