心を捧げる
クリストファーと別れたヴェルクルッドは、シルディアの部屋に向かった。
先ほど外出したシルディアであったが、既に戻っており、護衛のダイアンを下がらせてセイニーと二人で部屋に居た。
「……姫」
「――まあ、ヴェルクルッド様。どうかなさいましたか?」
窓辺の椅子に腰掛けていたシルディアが、微笑んでヴェルクルッドを迎えた。
――その窓辺には、一輪挿し。クリストファーのピンクの花が生けられている。
優しいピンク色の花に罪はない。可愛らしいとさえ思うはずなのに――しかし、その花を見たヴェルクルッドが抱いた感情は、苛立ちに近かった。
けれど、それをシルディアにぶつけるのは筋違いである。
ヴェルクルッドは自制を試みつつ、口を開いた。
「……はい、先ほど、姫に花を託された方は……クリストファー殿でした」
「……そう、でしたか。やはり……クリス様でしたか……」
「っ」
シルディアの切なげな視線が、花に注がれる。
だが、ヴェルクルッドの胸を突いたのはその視線ではなく――シルディアが囁いた、クリストファーの名前であった。
クリス、と。
そう、親しみを込めて愛称を口にした。
そのことに――ヴェルクルッドは非常な衝撃を受けていた。
「――わざわざ確認してきてくださったのですね。有難う御座います、ヴェルクルッド様」
ヴェルクルッドの内心の衝撃には気付かずに、シルディアは顔をあげ――どこか寂しげな微笑を見せながら礼をいった。
「……い、いえ……」
その、触れたら掻き消えてしまいそうな儚げな風情に、ヴェルクルッドの焦燥はかきたてられた。
そんな風に微笑まないで欲しい。
クリストファーを想って、そんな表情をしないで欲しい。
――他の誰かに、その想いをかけないでほしい。
「……」
そこで、ヴェルクルッドは自覚した。
「……ヴェルクルッド様? どうかなさいました?」
心配そうに様子を窺ってくるシルディアに向けて、ヴェルクルッドは足を踏み出した。
「――姫」
「はい、何でしょう?」
シルディアが小首を傾げた拍子に髪がさらりと流れ、爽やかな甘さが香る。
ヴェルクルッドはシルディアの足元に跪き、そのたおやかな白い手を恭しく取った。
そうして、戸惑いを見せるエメラルドグリーンの瞳を、見つめる。
「どうか、我が愛をお受けください。そして願わくば、シルディア姫の愛を、私にお授けください」
告げてヴェルクルッドは、シルディアの瞳を見つめたまま、手に口付けを落とした。
「まあ……!」
外野のセイニーの、熱を帯びた溜息が聞こえたが、ヴェルクルッドの意識はただひたすらに、シルディアに向けられている。
ぱちぱちと瞬く瞳。
さっと赤く色づく頬。
その全てが――愛おしい。
「……っヴェ、ヴェルクルッド様……!?」
そこでようやくヴェルクルッドの言葉を理解したシルディアが、がたん、と椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
だがヴェルクルッドは跪いたまま、シルディアを見つめ続ける。
シルディアが引いた手も、逃さない。
きゅっと握って引きとめたその指先に、キスをする。
「姫、どうか……」
「――っお下がりください!」
ヴェルクルッドの懇願を、皆まで聞かずにシルディアは遮った。
強く――振り払う勢いで手を引き、素早くヴェルクルッドから数歩の距離を取る。
「……ヴェルクルッド様、今のお言葉は……聞かなかったことにしておきます」
キスされた手を胸元で抱きしめて、シルディアは、努めて平静を装って告げた。
「っ姫、私は!」
「っ下がりなさい!」
異議を唱えかけたヴェルクルッドに、シルディアは鋭く命令を被せた。
「っ」
シルディアが声を荒げたのも、一方的な命令を下したのも、これが初めてのことであった。
シルディアはヴェルクルッドに背を向け、体中で拒絶を示している。
ヴェルクルッドは、シルディアの命令に抗いたかった。
背を向けているシルディアを抱きしめ、キスをしたかった。
だが、ここでそのようなことをしても逆効果にしかならないだろうと、そうも思った。
無理に踏み込めば、シルディアの心は手に入らない。
「……承知、致しました……」
ヴェルクルッドは命令を受諾した。
頭を垂れた後、立ち上がって退出する。
ヴェルクルッドが出て行き、扉が閉まる音が、室内に響いた。
そして、どれくらいの沈黙が続いただろうか。
「――姫様……」
セイニーが、そっと呼びかけた。
「…………」
シルディアは答えない。
胸元に手を抱きこんだまま、セイニーにも背を向けている。
セイニーは迷った末に、もう一度呼びかけた。
「……あの、姫様、よろしかったのですか……? あのような形でヴェルクルッド様を追い返してしまわれて……」
そう控えめに問うセイニーに――シルディアは、ぽつりと答えた。
「……私は、受け入れるわけには……行かないのです」
たとえ、ヴェルクルッドに誓われた瞬間に感じたのが、喜びであっても。
それを受け入れられない理由が、シルディアにはあった。
「ですが姫様、それではいつまでたっても……!」
シルディアが拒絶する理由を、セイニーも知っている。
だが、知っていても尚――いや、知っているからこそ、納得できない。
「…………やはり私は、男性を騎士にするべきではなかったのです……」
シルディアの声には、色濃い諦念が表れていた。
その声に、セイニーの感情の昂りが一気に冷えた。
「姫様……」
未だ背中しか見せてもらえていないが、セイニーにはシルディアの愁い顔が目に見えるようだった。
「……しばらく、一人にしてください」
「……はい、畏まりました、姫様……」
逡巡の末、セイニーはシルディアの意向に従った。
深くお辞儀をした後、静かに部屋を出て行く。
「……」
微かな音を立てて扉は閉じ、部屋にはシルディア一人きり。
「……」
シルディアは、口付けられた手を、ぎゅっと握りこんだ。
ヴェルクルッドが口付けた場所が、ひどく熱を持っているかのように感じられた――




