過去の傷 2
場所を変え、腰を落ち着けてまず名乗りあったところ、彼は辺境伯の地位をもつクリストファーと名乗った。
彼は数年前に何度かシルディアと会話したことがあったのだが、ある事件がきっかけで疎遠になり――というよりも、クリストファーがシルディアに申し訳なさ過ぎて顔を合わせられなくなって、領地に引っ込んで王都に出てくることはなくなった。
しかし、先のパラデス事件でシルディアが誘拐されたと聞いていても立ってもいられず、領地から駆けつけたのだという。
「……そのわりに、やっぱり姫にお会いする勇気がなくて……あんな様でしたが」
クリストファーは自嘲した。
「……合わせる顔がない、とは……一体、どのような」
「……そう、ですね……。ヴェルクルッド殿は姫の親衛隊騎士です。知っておいたほうが……いいかもしれません」
クリストファーは、少し長くなりますが、と前置きしてから、シルディアの出会いから語り始めた。
「初めてお会いしたのは、姫がデビューなさった舞踏会ででした……」
銀糸で精緻な花模様が施された白いドレスで登場したシルディアは、一瞬で会場中の人々を魅了した。身を飾るドレスや宝石よりも何よりも、シルディアの柔らかで気品ある微笑こそが印象的で、人々の心を掴んだのだ。
当然、シルディアは多くの男性に囲まれた。クリストファーも出来れば近くによって声をかけたい気持ちはあったが、シルディアを囲む男性たちを押しのける度胸はなくて、遠巻きに見つめるだけであった。
男性も女性も、老いも若きもがシルディアを賞賛する声を聞きながら、クリストファーは息抜きにバルコニーへと出た。
そしてそこで、同じく休息に出てきたシルディアと遭遇したのである。
「姫の眩しいほどのお美しさと、芳しい花の香りに、私はめまいを覚えたほどでした……」
「…………」
その当時のことを思い出してうっとりと語るクリストファーに、ヴェルクルッドは眉を顰めていた。
ヴェルクルッドの知らないシルディアを語る彼が、妬ましく思えたのだ。
「その夜がきっかけになりまして、私は何度か、姫と親しくお話しする機会に恵まれました。その……姫も私との会話を、楽しいと、いってくださって……花を差し上げれば、とても喜んでくださって……」
「…………」
頬を染め、はにかむクリストファーの様子に、ヴェルクルッドの苛立ちは募っていく。
男性恐怖症が出る前の、屈託のないシルディア。
そんなシルディアと親しく会話をしたというクリストファー。
クリストファーから花を貰って――そう、きっと先のピンクの花がそれなのだ――喜ぶシルディア。
ヴェルクルッドは、無言で、拳を握り締めていた。
「……そんなある日です……ある侯爵子息が、姫への想い高じて、暴挙に出たのは……」
クリストファーは、シルディアと特に親しくなった一人といっていい。
だが、シルディアの崇拝者には、クリストファーよりも身分の高いものも居た。それが件の侯爵子息である。
家柄、財産、容姿に自信のあった侯爵子息だったが、我の強い性格のせいか、シルディアには敬遠されていたようだ。己の想いが報われないことに慣れていなかった彼は、不満を抱いた。
そして、己よりも全てに置いて格下と断じたクリストファーが贔屓されていることを知り――彼の不満は更に募った。
侯爵子息は、クリストファーに執拗ないやがらせを行うようになったのだ。
侯爵家は、王宮内においてもかなり高位である。その彼に阿るものたちもまた、クリストファーを目の仇にした。
クリストファーの足は次第に王宮から遠のくようになったが、しかしシルディアに会わずにはいられなかった。
人目を避けるようにシルディアの下へ向かい――幸せな茶会を終えたその帰りに、クリストファーは彼に出会ってしまった。
嫉妬に狂った侯爵子息。
彼は、クリストファーを人気のない場所に連れ込み、痛めつけた。腹を殴られ、頭を踏みつけられ、足を折られ――あまりの暴力に、侯爵子息の取り巻きたちですら怖気づき、一人二人と逃げていった。彼らが騎士の一人でも連れてきてくれれば事は解決したのだろうが、その現場に姿を見せたのは、よりによって、シルディアであった。
最近のクリストファーの様子がおかしいと、不安と不審を抱いてクリストファーを探していたシルディアが、来てしまったのだ。
「……私の怪我を見て、シルディア姫は恐ろしかったでしょうに……お優しくて気丈なあの方は、私の怪我を心配してくださったあとに……彼を見て問われました。何故このようなことを、と……」
「……姫……」
それはまずい対応だ、とヴェルクルッドは唇をかんだ。
シルディアの優しさと凛とした強さには敬服するが、逆上した相手に、そのような問いかけは危険だ。矛先がシルディアに向いてしまう。
「……はい。彼は……シルディア姫に、不満をぶつけました……」
侯爵子息は、クリストファーは分不相応の報いを受けているといい放った。そして、侯爵子息の己をないがしろにして、辺境伯子息風情を寵愛するシルディアが悪いのだと詰った。
凶暴な怒りと、同じくらいの愛憎を向けられたシルディアは、言葉を返せなかった。
が、それでもクリストファーを護るように立ちはだかった。
それが、侯爵子息の怒りを更に煽る結果になってしまったのだ。
侯爵子息はシルディアを乱暴に拘束すると、その上でクリストファーへ暴力を加えた。
理不尽な暴力と、親しい人間の苦痛に、シルディアは恐怖した。
やめてくださいと――懇願した。
「……その時の彼の顔は……今でも、忘れられません……」
クリストファーは、両手で顔を覆った。
酷く歪んだ、男の顔。
怒りと欲望、弱者を虐げる優越感に染まった顔がシルディアに向けられるのが見えて、クリストファーは恐怖した。このままでは、取り返しのつかないことになると思った。
「ですが……私には、立ち上がる力も、助けを求めて叫ぶ力も、ありませんでした……」
クリストファーは、その時ほど己の弱さを呪ったことはなかった。
「……っ」
話を聞きながらヴェルクルッドは、シルディアと出会う前のこととはいえ、シルディアの危機に駆けつけられなかったことを、何よりも悔しく思った。
侯爵子息は、力尽くで抱き寄せたシルディアに顔をよせ、「俺のものになれ」と命じた。
身動きが出来ずにいるシルディアの服に手をかけ、乱暴に引き裂こうとした、その時。
「姫様? どちらにいらっしゃいますか、姫様……きゃあああああっ!!」
シルディアを探しに来たセイニーの悲鳴によって騎士が駆けつけ、侯爵子息は拘束された。
「……私が目を覚ましたのは、城の救護室でした。数日意識不明であった私は、侯爵子息は国外追放、侯爵家は無期限の王宮出入り禁止が決定されたことを聞かされました……」
「……それで、姫は……」
何よりもまず気になるのはシルディアのことだ。
ヴェルクルッドの問いに、クリストファーは目を伏せ、緩く頭を振った。
「しばらく面会謝絶といわれました。私の怪我が治った頃にも、まだお会いすることは叶わなくて……私は、両親に乞われるまま、故郷へと帰りました。……そしてそれ以降、シルディア姫が公に姿をおみせになることはなくなったのです……」
「…………」
ヴェルクルッドは一際強く、拳を握り締めた。
そのような恐怖を抱いたのでは、シルディアが男性恐怖症になるのは当然だ。引きこもりとなるのも無理はない。
そして――自分は、そんな姫に無理にお願いして親衛隊に取り立ててもらい、公の場に引っ張り出してしまったのだ。
それを思うと、なんと申し訳なく――どれだけの感謝を捧げても足りないことか。
「……ヴェルクルッド殿」
「――はい」
「……どうか、シルディア姫をお守りください。どうか……」
私には出来なかったことです、と真摯に願うクリストファーに、ヴェルクルッドは迷わずに頷いた。
「勿論です。この身に代えても、姫をお守りします」
それは既に、誓ったこと。
誰に言われるまでもなくそのつもりであったが、ヴェルクルッドは改めて強く、己に課した。




