月と桜と、私たち②
それから、しばらく歩いて着いたのは、あの菜の花畑から少し離れた場所にある桜の木。
その木はとても大きく、太く、大地にしっかりと根を張っているようで、どこか厳かな雰囲気を纏っていた。
「えっと、莉紅。お花見、なんだよね?」
「はい、そうですよ?」
何を当たり前のことを、ときょとんとする莉紅に戸惑う。
何故ならこの木には桜の花どころか蕾すら芽吹いていないからだ。
どんなに目を擦ったって見えるわけがない。
「あぁ、確かに今のままでは見えないかもしれませんね。少し待っていてください。」
そう言って彼は桜の木(?)の前に立ち、上を向いて両腕を広げる。下ろす。
わぁ。
先ほどまではなかった桜が満開になって、花弁を穏やかな風に乗せて地面に降らせている。
__でも、どうやって。
「ふふ、驚きましたか?僕、実はちょっとした魔法が使えるんです。気にせず、桜を楽しみましょう!」
莉紅は、不思議だ。不思議で謎の多い人なのに、でも、深く追求しようとは思えないというか、そうしてはいけないオーラを纏っている気がする。そんなところも込みで好きなわけだけど。
私たちは木の下に移動し、腰を下ろす。下から見上げるようにして見る桜もやっぱり綺麗だった。
この桜は私が生きていた頃に見た桜とは少し違っていて、ふわふわとした柔らかい光を纏っている気がする。莉紅と一緒に見る初めての桜だから、浮かれているのかもしれない。
こんなにゆっくり落ち着いて桜を見るのはいつぶりだろうか。学生時代から現在に至るまで、お花見をする余裕なんてなかった。
どこまでも優しく私を包み込んでくれる桜は、特別に感じた。
__ずっと輝いている必要はない。ただ、一瞬だけでも誰かの思い出の一部になれれば、美しさを添えられればそれで十分だと。それこそが輝きだと。昔、母は言っていた。母の名前は桜といった。
強く根を張り続ける桜のように、優しく、強い芯を持った人だった。
もう二度と会えはしないのだと思うと、切ないような、複雑な気持ちになってくる。
「涼、桜気に入ってくれましたか?」
莉紅は少し窺うようにしてこちらを見やる。
__今、私の隣にいるのは、莉紅だ。
その事実が、悲しみに手を伸ばしそうな私を引き戻してくれる。
「うん、すごく綺麗だね」
ありがとう。そう、言おうとした時。
「……え?」
莉紅の両腕が私の肩の上にのる。
私の揺れる瞳に自分の瞳を映すように顔を近づけてくる。
「__僕の前で、そんな無理して笑わないで」
何も、言えなかった。私、どんな顔してるの?
聞けなかった。
莉紅の表情が少し曇っていて、私が下のことの重みを知る。
いくら莉紅がいるからと言っても、悲しみのすべてを拭い切ることはできなかった。ただ、少し膜ができるだけ。
「…ごめん、なさい」
「僕の方こそ、こんなこと言ってしまってごめんなさい。言えないことなんて、あって当然なのに。涼にも、僕にも。でも、言いたいと思った時は、いつでも言ってください。どんなことでも、受け止めたいから。」
「ありがとう」
「涼とは支え合っていきたいなって」
「うん。私も莉紅とはそうでありたいな」
莉紅は、どこまでも優しかった。どうしてそんなに優しくなれるのか訊きたくなるほどに。
桜は今も、舞い続けている。
私たちは出会って別れてからお互いどうしていたか話すことにした。
「そういえば、莉紅は学生時代どんな風に過ごしてたの?こんなに優しいんだから、結構モテたんじゃない?」
こんな優しくてかっこいい美男子、モテないわけないでしょ。実はちょっと前から少し気になっていたのだ。
「そうですね…、大体1年間で4、5人ぐらいから告白されていましたね。でも、僕は涼一筋だったので全部断っていたと思います。」
うわ、まじか。
「……へぇ、そうなんだ」
反応に困る。私は学生時代モブキャラで告白なんてものも一度もされたことはないし、したこともない。しかも、結構なモテ男子である莉紅に想われていることを当時の自分に言ったら果たして信じるだろうか……。否、100パーセント信じないだろう。
「涼も、こんなに綺麗なんだから結構モテたんじゃないですか?」
「いや、私なんて全然だったよ。昔は前髪も長くて、分厚い黒縁眼鏡もかけてたし。いわゆるモブキャラ、ってやつだったかな。今は仕事上こんな感じにしてるけど。」
「涼って職業は何だったんですか?」
「えっとね__」
2人でたくさんのことを話した。
他にも趣味、好きな食べ物、色、天気、これまでの人生経験談など。本当に多種多様な話題だった。
そして陽はあっという間に沈み、星々が夜空を舞台に光り輝いている。
今日は満月で、スマホの壁紙あるあるの、月と満開の桜が同時に楽しむことができた。
「月が、綺麗ですね」
莉紅がそうこぼす。
「それ、遠回しな告白表現らしいよ」
中学生のとき、友達が言ってた。そう言うと莉紅は知らなかったー、と珍しく心底驚いた様子だった。
「僕は涼のこと、愛していますよ」
さらっと愛の言葉を言ってのけてしまう莉紅はある意味無敵だった。
その穏やかで優しい笑みが月明かりに照らされてより一層輝いていた。
「私も。私も、莉紅のこと好きだよ」
どうか、伝わってほしい。この想いが、彼の心に。ずっと傍にいたい。いてほしい。
恋はどこまでも、欲望と欲望の追いかけっこ。かつては『孤悲』と言われていたほど。美しいだけじゃない、苦しみあってこその美しさ。
「涼、ありがとう。僕は今、とても幸せです。……これからもずっと、傍にいてくれますか?」
「もちろんだよ……!」
互いに顔を見合わせて、同じ表情を浮かべる。
どちらからだったかは覚えていない。
月と桜の下、私と彼の温かい何かが重なって、どれぐらいそうしていただろうか。
「涼、頭の上に桜の花びらが」
そう言って彼の手が伸びる。優しい手つきで花弁を払う。そして今、莉紅の髪にも花弁が引っ掛かった。
「それを言うなら莉紅もだよ」
つい面白くなって、笑いながら彼と同じように髪についた花弁を払う。
気づけば私たちは、声を上げて笑っていた。
こんな時間が、ずっと続くと思っていた。そうであればいいと願っていた。
そう、この時は信じて疑わなかった。
この後私は、己の無知さを後悔することになる。
そんなこと今はまだ、知る由もなく。