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逃走① 決死のダイブ!!

 俺が拳を握り締め、雄叫びを上げようとしたその時。不意に樹音の声が届いた。

「逃げて! 追ってくる!」


 左右のスキーを交互に滑らせて、平坦な雪面とはいえ信じられないようなスピードで滑ってきた樹音が俺たちに警告した。

 振り向いたその奥からはスキーを滑らせた二人の兵士、そしてラバの牽くソリが向かってきていた。その行き脚はさほど早いわけではないが、確実にこちらへと近づいてきている。

 兵士はその背丈を大きく超える長い一本の棒を両手で持ち、右に左にと交互に雪面を突いて前へと進んでいた。ソリを操っている指揮官の大男は、右手に持った鞭をしきりに振るっていた。ソリを曳くラバを急がせようとしているが、どうにもエルのような速度は出せないようだ。

 とはいえ、俺たちものんびりとしてはいられない。

 俺たちが登ってきた道は敵の向こう側であって、今いる尾根上の広場は、もう目の前でその姿を消そうとしていた。この先は険しく狭い尾根沿いの山道だ。どうにかして敵をかわし、あの山小屋まで辿り着かなければ……


 コユキを抱きしめていたネージュは、何かを考えこむように薄暗い雪面を見つめていた。

「……ジュネさん」

 俺たちの乗るソリの左手へと樹音が並びかけたところで、ネージュが声を発する。

 御者台を見上げる樹音。

 ネージュは、視線を樹音からその先――尾根の左手に広がるボウル状の大斜面へと走らせた。それにつられるように樹音は振り向き、大斜面へと対峙した。尾根の右手のような断崖ではない。だがそれでも、広場から落ち込むその先は見えていない。かなり下方に雪の大斜面が覗いているだけだ。最初の落ち込みは相当な角度があるのだろう。

 ネージュは問う。

「いけますか?」

「もち」

 即座に親指を立てて答える樹音。ゴーグルの奥に覗く瞳が輝いているのが分かる。

……この目を、そう、俺は知っている。車をぶっ飛ばしていたときの、あの目だ。


 ネージュは御者台から一度降りて、エルの横へと向かった。エルは、その巨体の傍らに立つ美女へと首を垂れる。首筋を優しくなでる手は、ほんの少しだけ震えているように見えた。

「……」

 エルへ何かを語りかけたようだったが、俺には聞き取れなかった。

 そしてネージュは御者台へと戻り。

 俺とコユキにしっかりと荷台へ掴まっておくように告げる。俺とコユキは、頷いてその指示に従った。

「いきます」

 ネージュの声が響く。

 敵はもう目前まで迫っていた。


――ぴしりっ。

 ネージュが手綱を扱くと、エルが深く、強く、その後ろ脚を踏み込んだ。

 ぐんと動き出すソリ。

――みしり。

 エルとソリとを繋ぐ頸木が軋む。

 これまでにない加速に、身体を置いていかれそうになる。

――だだっ、だだっ。

 さらに加速していくエル。ネージュはそれを止めようとしない。尾根上の広場は、もうすぐ目の前で終わっていて、その先は左右に切り立った斜面と尾根に沿って登る細く急峻な道しかない。エルが突き進んでいくのは、向かって左側だった。

……ちょっと、このままじゃ。あっ。

 その先を考えるその前に、エルと、そして俺たちの乗るソリは、中空へとその身を翻らせていた。


 浮遊感。


 エルの牽くソリは、雪煙を巻き上げて、その車体を中空に舞わせていた。落ちていくソリ。かつて俺たちの乗るソリが走っていた雪面は既に見えない。ただエルが飛び出した、その雪面の端だけが、視界の遥か上へと上がっていく。追って樹音もまた、その雪面の端から飛び出し、そして宙に舞った。

 荷台の縁に掴まったまま、俺とコユキはその重さを奪われた。足元が荷台から離れ、ふわりと浮かび上がる。ネージュは御者台で手綱をしっかりと掴み、エルのその先を見据えている。ただ、たわわなその胸だけが確かに、ふわりと浮かび上がっていた。

……きれいだな。

 俺は落ちていくソリの荷台から、舞い落ちる雪を見てそう感じていた。現実逃避と笑いたければ笑うがいいさ。


――ぼふっ。

 思いのほか着地の衝撃は少なかった。ひたすらに降り積もった粉雪が、重たいソリの持つ落下のエネルギーを和らげていたのだ。そして、まるで断崖かと思うほどの急斜面が、ソリを地面に叩きつけようとする力を前へ、下へと逃がしてくれていた。

 深い水面に飛び込んだかのように、雪面の奥へとソリは沈み込んでいく。盛大に舞い上がる雪煙。沈み込むごとに、俺とコユキは自分に重さが返ってくるのを感じていた。そうして沈み切ったソリは、もう一度浮かび上がり始める。ふわりとした浮遊感を再び感じて。

 その時。


――めきっ。

 エルとソリとを繋いでいた頸木が、俺の目の前で折れた。ネージュが持つ手綱は激しく暴れ、そのたおやかな手を弾き飛ばしていった。その勢いに引きずり込まれそうになったネージュの肩を、俺はあわてて押さえつけた。

 文字通り、頸木(くびき)を解き放たれたエルは、その巨体をもんどりうたせて、斜面を転がり落ちていく。

 ゴーグルの奥で、俺は顔が蒼ざめていくのを感じていた。エルは、このソリの推進力であり、また舵でもあった。このソリの行く先を定めていたのは、エルだったのだ。だから……

「大丈夫です」

 離れてゆくエルを視界の端にちらりと見て、そしてネージュは言った。肩を押さえる俺の手をそっと握り返し、ほんのりと笑みさえ浮かべて。

 俺は驚いてネージュを見返す。ネージュのその眼は、ただ真剣に斜面の先を見据えていて。それでも、その表情に焦りは一切感じられなかった。


――落ちていく。

 そう表現するのが相応しいほどの勢いで、ソリは進み続けている。深く積もった新雪をかき分け、時に浮かび、時に沈み込み、ソリは飛ぶように滑り続けていった。まるで、鳥が羽ばたいては風に乗ることを繰り返して、飛び続けるように。

……飛ぶとは落ち続けること、か。

 不意に。学生の頃、物理の講義で聞いた言葉が、俺の脳裏に浮かんだ。たしか、宇宙機――人工衛星や宇宙船――を研究していた講師だったか。その時には何とも思わなかった言葉を、まさか体感する時が来るとは。なんという巡りあわせなんだろう。

 しかし、そう思ったのはホンの僅かで。すぐに意識は別の事柄に奪われることになる。

 俺の視線の先で、雪面が途切れていた。

 そこには仄暗い――闇――が広がっているだけで。

 今でさえソリが落ちていくかのような急斜面なのだ。その先が途切れているのだから、それは崖だ。エルを失って、コントロールの聞かないソリが崖に向かっている。その絶望的な状況に、俺は言葉を失った。ただ行く先を凝視するしかない。


 と、ネージュはそれまで掴んでいた手綱を手放し、おもむろに御者席の左右に設えられていたレバーを引いた。

――ぐらり。

 身体が前方に押し出されるような感覚と共に、ソリの車体が沈み込む。

「ブレーキか!」

 思いもかけず、俺は叫んでいた。だが。

 止まらない。

 巨大なエルが牽くような、重たいソリだ。それが急斜面を落ちるように滑っているのだから、そのエネルギーは簡単に相殺できるものじゃない。

 崖は、みるみると近付いてくる。


「大丈夫と言ったでしょう?」

 ネージュの声が聞こえた。緊迫したこの状況で、それはいささか場違いなほど穏やかで。

 ネージュは引いていた左右のレバーの内、右手のレバーを緩めた。車体が左後ろに引きずられるような力を感じると、その大きな車体が左へ向きを変え始めた。まっすぐに滑っていたソリは、その向きを変えたことで、より大きく雪の抵抗を受けることになって。どんどんと、その進行方向を変えていくことになる。

 でも。

……間に合うのか?


 崖はもう目前にまで迫っていた。


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