幕間
夜も更け始めた頃。
執務室には、紙を擦る音だけが静かに響いていた。
壁際の灯りは最低限しか点けられておらず、広い部屋の半分以上は薄暗いままだ。窓の外では、乾いた夜風が石壁を撫でている。
机へ積み上がった書類へ視線を落としたまま、レオルドは小さく息を吐いた。
控えめなノックの後、執務室の扉が静かに開く。
「……やっぱり。まだ残っていましたね」
呆れたような声と共に、茶器を載せた盆が机へ置かれる。
リゼだった。
「休まれると言っていたのは誰でしたか」
「少し確認するだけのつもりだった」
「その“少し”で倒れかけたのは、つい先月です」
レオルドは返事をしない。
代わりに書類へ視線を戻そうとして、机の端へ置かれた茶器へ気付く。
「……温かいな」
「冷える時間ですので」
リゼは慣れた手つきで乱れていた書類を重ね直していく。
端の擦り切れた紙には細かな文字がびっしり書き込まれていて、一度使われた跡のあるものまで混ざっていた。
その動きを眺めながら、レオルドは小さく目を閉じる。
「春乃様も、同じような顔をされていました」
「……どういう意味だ」
「休めていない人の顔です」
静かな言葉だった。
リゼは書類を整えながら続ける。
「ずっと周囲を警戒しておられます。必要以上に気を遣って、無理に合わせようとしているのが分かります」
「……」
「恐らく、昔からそういう生き方をされてきたのでしょうね。昨日はゆっくりお休みになられたようで、体調はかなりマシになっていた様でしたが」
レオルドは何も答えなかった。
代わりに、中庭の件を思い出す。
暖かな風と少しだけ和らいだ空気。
兵たちの表情。
そして。
『君しかいないとか無理なんですよ』
あの言葉。
冗談めかしていたが、あれは本音だったのだろう。
「……無理はさせるつもりはない」
ぽつりとレオルドが呟く。
「だから、お前も少し気にかけてやってくれ」
「元よりそのつもりです」
リゼは淡々と返した後、小さく肩を竦めた。
「ですが、それならご自分で話しかければ良いではありませんか」
「何?」
「せっかく顔だけは良いのですし」
レオルドが無言になる。
その時、執務室の扉が開いた。
「……リゼ。王へ向かって何を言っているのです」
呆れた声と共に入ってきたのはフェルドだった。
黒髪混じりの銀髪を揺らしながら、書類束を抱えている。
「ですが事実でしょう?」
「否定はしませんが、そういう問題ではありません」
「そこは否定してくれ」
レオルドが疲れた声で口を挟む。
リゼが小さく笑い、フェルドが呆れたように目を伏せた。
短い沈黙の後、フェルドが机へ書類を置く。
「城下の報告です。雨もしばらく降っていません。貯水も減り始めています」
空気が少しだけ引き締まった。
レオルドは静かに書類へ目を通す。
「……予想より早いな」
「寒季の冷え込みも続いております。このままでは、今季の終わりには井戸の水位にも影響が出るかと」
リゼは無言のまま、フェルドへ茶を差し出した。
窓の外では、まだ誰かの足音が聞こえる。
夜の王宮は静かだ。
けれど、止まってはいない。
「……春乃様のお力ですが」
フェルドが静かに口を開く。
「詳しい事は分かりませんが、本人にとって過ごしやすい環境を作っている様に見受けられます」
「空気だけではない、か」
「ええ。昨夜も見た限りでは、快適に過ごしていた様に感じました」
レオルドは少しだけ目を伏せる。
「……中庭では負担も大きそうだった」
フェルドは静かに頷いた。
部屋へ短い沈黙が落ちる。
しばらくして。
レオルドは小さく息を吐いた。
「明日、改めて話をする」
「国について、ですか?」
「ああ」
レオルドはしばらく窓の外を見ていた。
冷え込み始めた夜気の中でも、まだ遠くで人が動いていた。
「……あの娘が、この国をどう見るか、だな」




