第19話
呼ばれた後、私は一度だけ窓の外へ視線を向けた。
昼間の白っぽい光はすっかり落ち着き、空は赤から紫へ変わり始めている。昼の熱気も少しずつ引いてきているらしく、窓から入り込む風も昼間より柔らかかった。
「夜は少し過ごしやすいですね」
私が呟くと、水差しを整えていたリゼが小さく頷く。
「昼よりは楽になります。ただ、日が落ちると今度は冷えますので」
「あー……砂漠」
昼と夜で気温差が激しい。
知識としては知っていたけれど、実際に体験するとかなり極端だった。
私は肩へ掛けていた布を軽く整える。
昼に歩いたせいか、布へうっすら熱が残っている気がした。
その時、リゼが濡らした布を盆へ載せて運んでくる。
「お食事の前に、こちらを」
「ありがとうございます」
受け取った布は少し冷えていて、首元へ当てるだけで熱が引く感じがした。
私は思わず小さく息を吐く。
「……気持ちいい」
「日中は身体へ熱が残りますので」
リゼは慣れた様子で答えながら、布を畳んでいく。
その動きを見ながら、私はふと気付いた。
昨日は用意されていた湯浴みの服が今日は見えない。
……お風呂も毎日入る訳じゃないんだ。
少しだけ考えてから、私は内心で納得する。
水も貴重だし、当然か。
お風呂の代わりに身体を拭く文化が根付いているのかもしれない。
そう考えると、さっきの冷たい布も、この国ではかなり大事なものに思えてくる。
冷えたまま保てたら、もっと楽なんだろうな。
ふとそんな考えが頭をよぎって、私は自分の指先を見る。
空気。
風と水。
温度と湿度。
昨日から感じているものは、多分全部繋がっている。
何もない場所から何かを生み出している訳じゃない。
ただ、今あるものを少しだけ変えている。
冷やす。
温める。
風を通す。
熱を逃がす。
自分の力が、どの程度までできるのか。
……後で少し試してみよう。
「春乃様?」
リゼの声で、私ははっと顔を上げる。
「あ、すみません」
「お疲れでしたら、食後はお休みになられても」
「大丈夫です。ちょっと考え事してました」
私は布を盆へ戻しながら立ち上がる。
部屋を出ると、昼間とは違う王宮の空気が広がっていた。
静まり返っていた廊下にも少しずつ人の姿が戻り始めていて、使用人たちは水瓶や布を運び、壁際へ置かれた灯りへ火を入れて回っている。
窓の外から吹き込む風も、昼とは匂いが違った。
熱された砂の匂いが少し薄れて、水の匂いが混じっている気がする。
「夜になると、皆動き始めるんですね」
「日中はどうしても動きが鈍りますので。水汲みや運搬も、比較的涼しい時間へ回すことが多いです」
歩きながら外へ視線を向けると、中庭にも人影が見えた。
昼間は日陰へ避難するみたいに人が消えていたのに、今は逆に風の通る場所へ集まっている。
案内された食堂へ入ると、朝より灯りが多かった。
卓上には小さな火皿が置かれ、その明かりが石壁へ柔らかく反射している。並べられた料理からは香辛料の香りが立ち上り、焼かれた薄いパンの匂いが空腹を刺激した。
席へ着いていたレオルドがこちらを見る。
「来たか」
「お疲れ様です」
「春乃もな」
私は席へ腰を下ろす。
机の端には、相変わらず書類が積まれていた。
一部は開いたままで、端へ重石代わりの小石まで置かれている。
……やっぱり休んでない。
するとリゼが慣れた手付きで書類をまとめ始めた。
「陛下。せめて食事の間だけでも、こちらはお下げください」
「後で見る」
「先程も同じ事を仰っていました」
レオルドは返事をしない。
でも、リゼも特に気にした様子はなく、乱れていた書類だけを静かに整えて机の端へ寄せた。
そのまま料理を並べ終えると、リゼは部屋の端へ下がる。
食堂には、火皿の小さな音だけが残った。
目の前へ置かれた杯へ触れると、昼間より少しだけ水が冷たかった。
夜だからなのか、保存の仕方が違うのか。
考えながら口へ含むと、乾いていた喉へ水がゆっくり染み込んでいく。
「今日はリゼと城下を見て回ったそうだな」
「はい」
「どう感じた?」
私はすぐには答えられなかった。
杯を指先で少し回してから、ゆっくり口を開く。
「……思ったより、普通に暮らしてるんだなって思いました」
レオルドは何も言わず続きを待っている。
「もっと荒れてる感じを想像してたんです。でも実際は、皆ちゃんと生活してて」
洗濯場。
水場。
日陰。
布。
今日見た景色が頭へ浮かぶ。
「ただ、全部ちょっとずつ削ってる感じがしました」
レオルドが静かに視線を上げる。
「削っている?」
「水とか、食事とか……多分、色々」
上手く説明出来ている自信はなかった。
でも、今日見たものはそんな感じだった。
レオルドは少しだけ目を伏せる。
「間違ってはいない」
短い声だった。
「元々この土地は、余裕が多い国ではない。だから昔から、無駄を減らして回してきた」
レオルドはそこで一度言葉を切り、水を口へ含む。
「だが近年は、その“余裕”自体が減り始めている」
火皿の灯りが、静かに揺れる。
「少しずつ削った結果、今は皆“必要な分”だけで動いている状態だ」
必要な分だけ。
その言葉が妙に頭へ残る。
「……疲れませんか」
気付けば、そんな言葉が口から出ていた。
レオルドは少しだけ目を瞬かせる。
「何がだ?」
「ずっと、必要な分だけで動き続けるの」
レオルドはすぐには答えなかった。
代わりに、手元の杯へ視線を落とす。
「疲れるな」
静かな声だった。
「だから、本来はどこかで余裕を作らなければならない」
その言葉を聞きながら、私は無意識に昼間の城下を思い出していた。
静かな昼。
夜に動く人。
冷たい布。
少しぬるい水。
皆、暮らしてはいる。
でも、その暮らしを維持するだけで精一杯なのだ。
するとレオルドが、不意にこちらを見た。
「明日、少し時間が取れそうだ」
「え?」
「今後について、一度話をしないか」
今後。
その言葉に、私は無意識に指先へ力を入れる。
まだ、自分に何が出来るのかも分かっていない。
でも。
杯へ触れた指先には、少しだけ冷たさが残っていた。




