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☆ネムリの花畑とはじめの一歩

 町に来てから、どれくらい経っただろうか。


 最初は雑用ばかりだった日々も、今では少しずつ変わり始めている。


 荷物運び、装備の手入れ、買い出し――そんな仕事の合間に、エドリックに連れられて討伐任務へ同行する機会が増えた。あの日、初めて魔物と対峙して以来、アレックスの中で何かが確実に変わっていた。


 怖くなくなったわけではない。


 それでも、目を逸らさなくなった。


「今回は採取だ。気を抜くなよ」


 ギルドを出る直前、エドリックが短く告げた。


 討伐ではなく、採取。


 だが、その言い方はどこか緊張を含んでいる。


「チクリソウの開花時期に合わせた依頼だ。ネムリバナの群生地に行く」


 ネムリバナ。


 資料で何度も見た名前が頭に浮かぶ。淡い紫の花を持ち、花粉によって眠気を誘う魔導植物。長時間その花粉を吸い込めば、そのまま意識を失い眠りに落ちる危険もある。


 そして、その周囲に生えるのがチクリソウ。鋭い棘を持ち、触れるだけで傷を負う厄介な植物だが、その苞は貴重な回復ポーションの素材になる。


「……今回も後ろからついて行けばいいんですか?」


「いや、今回は採取依頼。お前にも前に出てもらうぞ。」


 エドリックは肩をすくめた。


 今回は彼だけではない。他にも数人の冒険者が同行している。年配の槍使いの男と、軽装の女弓手、そして斧を背負った大柄な男。


 アレックスはその後ろに付きながら、小さく息を吐いた。


 ――今回は、ただの見学じゃない。


 そう思った瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。


 目的地に近づくにつれて、空気が変わっていった。


 風に、甘い匂いが混じる。


「口元に布を巻いとけ。吸いすぎるなよ」


 エドリックに言われ、アレックスは慌てて口元を覆った。


 視界の先、森の一角が淡い紫に染まっている。


 ネムリバナの群生地だった。


 その光景はどこか幻想的で、危険だとわかっていても一瞬見入ってしまう。


 だが――


「……おかしいな」


 槍使いの男が低く呟いた。


「静かすぎる」


 その言葉に、全員の空気が一瞬で引き締まる。


 確かに、本来なら匂いに誘われ、眠りに落とされる小動物の気配があってもいいはずだ。


 だがここには、何もない。


 静かすぎる。


 まるで――


「何者かの手が入ってる。」


 エドリックの声は、断定に近かった。


 その瞬間、アレックスの背筋に冷たいものが走る。


 視線を動かすと、地面の一部に不自然な配置が見えた。


 チクリソウが、まるで壁のように並んでいる。


 そしてその内側――


 粗末な小屋のようなものが、いくつも並んでいた。


「……ゴブリンか」


 弓手の女が小さく呟く。


 その言葉を裏付けるように、草むらの奥から小さな影が動いた。


 緑色の皮膚。


 粗末な武器。


 そして――集団。


 グリーンゴブリンだ。ネムリバナとチクリソウを利用して、環境そのものを防衛に使う魔物。


「集落化してるな。最悪のパターンだ」


 槍使いの男が舌打ちする。


 そのときだった。


 奥から、明らかに他とは違う個体が現れる。


 他のゴブリンより一回り大きく、装備も整っている。


 そして、その周囲に控える数体の武装個体。


「……リーダーとソルジャーか」


 エドリックの声が低くなる。


 ゴブリン・ソルジャーは戦闘に特化した個体で、集団戦を前提に動く。


 そして、その中心にいるのがゴブリン・リーダー。


 群れを統率し、戦術を成立させる“核”。


 ここまで来れば、もう採取どころではない。


「……やるぞ。ここで潰す」


 エドリックの一言で、全員の役割が決まる。


 弓手が後衛に下がり、槍使いと斧使いが前に出る。


 そして――


「アレックス」


 名前を呼ばれる。


「下がるなとは言わねえ。だが、逃げるな」


 その言葉は、命令ではなく“試し”だった。


「……はい」


 喉が渇く。


 足が震える。


 それでも、アレックスは前を見た。


 戦闘は、一瞬で始まった。


 弓が鳴り、先頭のゴブリンが倒れる。


 同時に、残りの個体が一斉に動き出した。


 ソルジャーが前に出て、通常個体が左右に散る。


 包囲。


 連携。


 明らかに、統率されている動きだった。


「左を切れ! 植物に押し込まれるな!」


 エドリックの声が飛ぶ。


 ネムリバナの中心に入れば、眠気で動けなくなる。


 チクリソウに触れれば、傷を負う。


 この環境そのものが敵だ。


 アレックスは必死に足を動かす。


 視界の端で、エドリックが一体を斬り伏せる。


 無駄のない動き。


 あの日と同じ――いや、それ以上に速い。


 そのとき、右側から影が飛び出した。


 小型のゴブリン。


 だが、手には石の短剣。


 真っ直ぐ、こちらに向かってくる。


 距離が近い。


 避けるか?


 逃げるか?


 ――違う。


 頭の中で、これまで見てきた動きが繋がる。


 間合い。


 踏み込み。


 タイミング。


 アレックスは、足を止めた。


 そして――


 前に出た。


「うああああああッ!!」


 叫びながら振り下ろした剣は、決して綺麗な軌道ではなかった。


 だが。


 当たった。


 刃が肉を裂く感触。


 ゴブリンの体が崩れる。


 そのまま地面に倒れ、動かなくなる。


 音が遠くなる。


 呼吸が荒い。


 手が震える。


 それでも――


「……やったな」


 背後から、エドリックの声がした。


 振り返ると、既に戦闘は終盤に入っていた。


 リーダーが倒れ、残りの個体が崩れていく。


 統率を失った群れは、もう脅威ではない。


 戦闘が終わった後、アレックスはしばらく動けなかった。


 目の前に横たわる、小さな体。


 自分が斬った魔物。


 初めて、自分の手で“殺した”。


 胸の奥が重い。


 だが同時に、確かな実感があった。


 ――逃げなかった。


 その事実だけが、静かに残る。


「それでいい」


 エドリックが隣に立つ。


「最初は誰でもそんなもんだ」


 その言葉は、思っていたよりもずっと軽かった。


 だが、だからこそ救われる。


 アレックスはゆっくりと立ち上がり、剣を握り直した。


 震えは、まだ消えない。


 それでも。


 一歩、前に進めた。


 それだけで、十分だった。


 この日。


 アレックスは初めて、魔物を討った。


 それは小さな一歩だったが、確かに――


 冒険者としての始まりだった。

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