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芦のそんな逃避活動の先、つまり逸らした視線の先には、壁際に沿って置いてある三段ラックの三連繋がりがあった。
棚は欲しいが高い物は買えないという芦の懐事情にも優しかった三段ラックを三つ並べているそこには、雑多な物が突っ込まれており、また棚の上にも適当な物が置いてある。
整理整頓という概念が偶にしか実行されないそこに向けた視線は、芦が座っている場所の一番近く、棚の中でも一番整理された一角に結びつく。大事な、無くすわけにはいかない物を置くと決めている、それ故にすっきりとしている特別な一角に。
置いてあるのは、大学合格時に親が買ってくれた少し高い腕時計。勿論、大事にしている為に一度もつけて出かけたことがない。壊したり傷つけたりする可能性があるからだ。
あとは偶々買ったお菓子についていたおまけの妖怪フィギュアで、滅多に出ないキャラクターだったことが発覚し、いつか高額がつくのではないかと期待している物や、他にも物凄い高額というわけではないが、芦の家財の中では高めのもの、もしくはいつか高値になるのではないかと芦が個人的に信じている物が置いてあった。
そしてその中の一つが、今の芦の視線を特に釘づけにしている。もっと言えば、芦の逃避活動を支援してくれていた。
物凄い期待をかけて買った、たった一枚の宝くじだ。
前後賞合わせてラッキーセブンの七億円。是非当たって下さい、という期待を力の限りかけているくせに、お金が勿体ないので一枚しか買っていないという、潔く往生際の悪い一枚は、何故かその時、現実から激しく逃げ出したがっている芦の視線を釘付けにしていた。
おそらく、現実からの逃避が、イコールで宝くじが当たれば夢のような生活が出来るという夢想と連結してしまったのだろう。
視線を釘付けにしている一枚を、芦は自然と手に取っていた。夢に逃げようとする無意識が、描かれた番号を凝視している。期待、している。期待して、期待して・・・、その時ふと、芦は唐突に思い出した。その期待に対する答えが明日出るからと、バイトに行く前に一番目につくように棚の手前に置いていたことに。深夜バイトに行く前に明日と思って・・・、つまりは、今日のこと。
「・・・もしかして、もう発表になってるのかな?」
物凄く久しぶりに思える自分の声を聞きながら、釘付けになっていた視線を解いて壁に掛けた時計を見上げる。既に時間は早朝を脱出し、一応、一般社会が動いているだろう時間に達していた。この時間ならば、おそらくもう発表になっているだろう。期待の数字が・・・、いや、冷静な芦の頭の一部が理解しているように、一時的な逃避を否定する為の数字の方が発表になっているのだろうが。
しかしそれでも、気がついてしまえば確かめずにはいられない。むしろ少しでも他のことを考える時間を先延ばしする為にも、見てしまいたくて仕方がなくなる。芦は自分の欲求に逆らえるほど、意思の強い人間ではなかった。その為、宝くじを持っていたのとは逆の手で、近くに放り出したままの携帯電話を持ち、手慣れた操作でネットに接続して・・・。
「みぃ?」
「うおっ! どっ、どうしたっ?」
「みぃー・・・」
「あ、これ? えっとぉ、これ、大事なもんだから・・・」
「みぃ・・・?」
「いやっ、あの、うん・・・、やっ、破らないでね?」
「みぃー!」
今まさに番号を確認しようとしたその時、何故かすぐ近くであの鳴き声がしたのと同時に、携帯電話を持っていた手、その裾が引っ張られる感触がした。芦がふと横へ視線を向けると、そこには唐揚げを食べ終わった子供が箸を弁当の上に乗せ両手を自由な状態にして、芦の服の裾を引っ張っていたのだ。
そして一体何事かと慌てる芦を余所に、左手だけを放すと、放した小さな手をよりにもよって芦の夢を背負った紙切れに向かって伸ばすのだ。きらきらとした、興味津々です、と言わんばかりの眼差しを向けて。
近くで見ればいっそう異質さが際立つ皮膚は、やはりどう見ても鱗状。近づいている瞳も嘘みたいな紫。けれど気味が悪い、怖ろしい、という感情が沸かないのは、もう最初に抱いてしまった印象が消しがたいほど刻みついてしまったからだろう。
可愛い子供、無邪気で無垢な子供、という印象。
まるで鳥が最初に見たものを親と思い、その思い込みを生涯拭い去れないのと同じように、芦もまた、最初に抱いた印象を拭えない。
つまりある意味鳥並ということでもあるのだが、芦自身はそこまで深い考察を自分に加える精神的なゆとりはなく、またそんなゆとりがあったとしても認めるだけの強さもなく、それ故に、可愛い子供が紙を遠ざけようとする芦の仕草に首を傾げて不思議そうにしたり、尚も手を伸ばそうとする一途さを見せてくれば、もう折れるより仕方がなかった。
言葉が理解出来ているのかどうかも判然としないまま、破らないでくれとただそれだけを切に訴えつつ、伸ばされる小さな手に重すぎる夢を負わされたにしては薄すぎる紙を渡してやった。
子供は手にした紙を嬉しげに見つめ、それから芦の服を掴んだままだったもう片方の手も放し、両手で芦の夢を掴んで・・・、その表面をじっと、じっと、紫の瞳が零れ落ちそうなほどじっと見つめたかと思うと、何故か・・・、
頭上に掲げて、上半身ごと前後に激しく振ったのだ。
「えっとぉー・・・、どうした?」
「みぃー!」
「ん? え、いや、だから・・・、」
「みぃっ! みぃー・・・、みぃ!」
「・・・うん、そっかぁ・・・、良く分からんが、頑張れー・・・」
「みぃ!」
「でもとりあえず、破らないでね・・・」
ふりふりと、髪の毛を振り乱す勢いで紙切れ一枚を振り回している子供の行動に、呆気に取られつつも一応、声をかけてみたのだが、子供は力強く鳴くばかりで、その動きを止めることはない。
何か、とても頑張っているらしく、気がつけば目まで閉じて無心に振っているので、思わず応援までしてしまったし、ついでにその勢いに任せて破らないでほしいというちょっとした要望も口にしたが、それ以上のコメントを口にするだけの根性を持てなかった芦は、静かに視線を携帯電話に戻した。
止められない以上は、そっとしておくしかない。しかしその間、少々手持ち無沙汰なので、当選番号だけは表示させておき、子供の気が済んだら自分の夢の番号との照合をしようと、そんな簡単な算段をつけて、途中で止まっていた操作を再開し、当選番号を載せているネットページまで迷うことなく到着、当選番号を表示させる。
芦の膨らんでいる希望、もしくは願望とは別に、頭の片隅に追いやられた冷静さ、もしくは客観性は無駄だと主張している一等の当選番号。力一杯表示してしまっているそれに、片隅に追いやられても尚、主張を曲げない芦の一部は、絶対にどれも当たらないだろうけど、せめてもう少し下の当選番号を表示しろ、と訴えている。
いくら何でも一等なんて当たるわけないだろう、オマエはただでさえ、クジ運が悪いのだからと。今まで残念賞以外、何か一つでも当たったことはないだろうと。
聞こえている、たぶん、否、確実に一番正しい主張を無視し、内心だけで、希望は捨てちゃいかん、等と呟く芦は、その注意が完全に自分の中に入り込んでいた為、再び腕を引かれた際、肩を思いっきり跳ねさせるほど無様に驚いてしまった。
勿論、この場に居る存在は芦を除けば隣にいる子供だけで、無様な姿を晒しながらも視線を下ろせば、いつの間に謎の行動を終えていたのか、両手を下ろしていた子供が片手で芦の服を引っ張り、もう片方の手で渡してあった紙、夢の詰まった宝くじという紙を突き出してくる。
突き出す・・・、そう、渡してくるというより、それはまさに突き出す、という感じの出し方だった。心持ち顎を逸らしているように見えるほど胸を張り、明らかに自慢げに宝くじを突き出している様は、何かをやり遂げたのでその成果をお渡しします、という態度に見えた。
・・・が、芦には子供のその自信の意味が分からない。分からないが、しかし半ば条件反射のように突き出されたブツを受け取ってしまう。今の芦にとっては唯一の逃避場所なのだから、溺れる者が藁を掴むのと同じくらい仕方がない行動ではあるのだが。
「みぃー」
「ん? どした、どした?」
「みぃ!」
「え? 今度は携帯? これはね、ちょっと、流石に駄目なんだけど・・・」
「みぃ、みぃー・・・、みぃ!」
「え? なに?」
片手に返してもらった宝くじ、もう片方に携帯電話を手にした状態の芦に、子供は今度はその携帯電話に向かって指を突き出してくる。
てっきり今度は携帯電話を貸せと訴えられているのかと思ったのだが、しかし子供の仕草は先と違い、ただ小さな黒い、つるつるの爪がついた人差
し指を携帯電話に向かって突き出すだけなのだ。それだ、と言わんばかりの態度で。
何を主張しているのか、むしろ主張している存在が何なのかすらはっきりとしないまま、芦はそれでも子供の主張に押されて指が示す通り、携帯電話の画面を見た。そこには勿論、先ほど示したままの一等の当選番号が表示されている。
正確に記憶はしていないが、おそらく番号が一瞬の間に変わったとか、そういうことはないはず。つい先ほどまでと何の変化もない画面。何故、子供がこんなにも何度も主張して指し示しているのか理解出来ないまま、何気なく、そう、本当に何気なく、もう片方の手で持っているものに視線を流して・・・、芦は、一時間にも満たない時間の間に、人生三度目の経験をする羽目になる。
正真正銘、頭が真っ白になる、という経験だ。
────両手に持ったそれぞれのモノが、同じ番号を表示させていた。
時というモノが主観によるモノだと、その時ほどはっきり感じたことはなかったかもしれない。それほどに、芦のその瞬間の時間は流れを止め、芦を時間の概念が届かない場所へと連れ去って行ったのだ。
ただ、時が止まっているにも関わらず、何度も何度も、右手と左手の番号を交互に確認せずにはいられなかったし、その度に同じ番号が表示されていることを目の当たりにする羽目になるのだが。
同じ、一等の番号を。
脳細胞が壊れるほどの衝撃の中、表示されている番号の意味が朧気になり、意識も朧気になっている芦を我に返らせたのは、聞こえてきた嬉しげな鳴き声だった。
「みぃー!」
朦朧としていたはずなのに、その鳴き声はやたらとはっきり聞こえていた。再び腕を引っ張られる感触とともに、促されるように視線を下ろした先には、当然、子供がいる。先と同じように胸を張り、満面の笑みを浮かべ、何度も小さく頷いている子供が。
さも、『どうよ!』と言わんばかりの、幼さが愛らしいながらも、自慢げな態度の子供の姿。
その姿に、いまだ真っ白な頭の中に蜃気楼のように浮かび上がってくるのは、まだ暗い、朝方の光景。子供の胸元の鈴に気づいて以来、何度も蘇っている光景が、真っ白な脳裏ではまた新たな輝きを持って見えてくる。
輝き・・・、そう、輝きだ。あの小さな、小さな、古びたお堂のバックに何か、物凄い神々しい輝きを背負って、朦朧とした芦の脳裏に燦然と輝いている。
勿論、お堂に鎮座されておられた、あの、黒い小蛇様はそれ以上の輝きを持って・・・、あのちっぽけな唐揚げと共に、輝いている。
輝き当てられて、遠退いていた芦の意識が急激に呼び戻される。あまりに急激すぎて、眩暈を起こし、心拍数が上がり、血液が血管がから飛び出るほどの勢いで身体を巡り、全身が嘘みたいに高熱を発し始めているが、それでも意識は戻った。戻って、しまった。
そして意識が戻るのと時を同じくして、脳裏から白い光りが弱まり、思考力が僅かながらも戻ってきて。
戻って来た思考力が、僅かであったからこそなのかもしれない。芦のその僅かの思考力は、今まで出せないでいた答えを酷くあっさり出してしまう。薄々可能性として頭の片隅に滲んではいたのに、はっきり形になっていないのにをいいことに、目を逸らし続けていた答えを。
あの、お堂を目にした時に真っ先に浮かんだ、たった一つの印象。日本人なら、あの形を目にした時、それがどれほど見窄らしい姿をしていようとも必ず浮かぶソレ。
芦が持つ、夢が詰まった紙切れの、夢の実現を訴える場所としても有名な存在。それならば、この結末は必然だったのかもしれない。
「あの、一応、確認させていただきたいんですけどぉ・・・」
神様、的な?
「・・・もしかして、あの、お堂の、お方なのかな・・・、って、思ったりして・・・、みたいな?」
「みぃー・・・、みぃ! みぃ、みぃ!」
「あー・・・、やっぱり、そんな感じ? っていうか・・・、」
唐揚げって、すげぇーなぁ・・・。
最後の一言は、言葉にならなかった。それをこの場で言葉に出来るほど、芦の神経は太くない。平均的な神経の太さしか持ち合わせがないので、今、決定してしまった現実を受け止めるので精一杯だった。むしろそれを受け止めようとしているだけ、実は結構な勢いで小心者の芦としては凄いことでもあったりするわけで。
「みぃ!」と、分かってもらえて嬉しいです、とでも言わんばかりの嬉しげな声を上げている子供に、哀しき凡人の性で愛想笑いを向けながら・・・、芦の脳裏には、訳の分からないほどゼロの多い数字が飛び交って、ぐるぐると回っている。
────夢というものは、叶わないからこそ心の平和を保てるものだと、その時、芦は渾身の力で思い知った。