⑥
唐揚げが、お気に召したようだった。
人間は、呆然としていても暫くするとその状態に慣れてしまう生き物らしく、自然と次の行動を取れるように出来ているらしい。
平均的な人間である芦は勿論その例外ではなく、両手を繋いだまま子供をとりあえず部屋の中に入れ、片手をそっと離すときっちり鍵を掛け、ついでに無意識に覗き穴で外の様子まで窺っていた。
何も考えていなかったはずなのだが、この状況を誰かに見咎められるのをほぼ無意識に怖れていたらしい。
そうして片手だけ繋がった状態のまま、子供を玄関から更に中に入れたところで当の子供が裸足であることに気づき、キッチンで洗ったままの雑巾を手に取って跪き、空いている片手でそっと片足を持ち上げ、足の裏を拭く。
その際、握ったままの手と同じく、足も、足の爪も真っ黒で、おまけに色だけではない異質な部分があることには気がついていたのだが、脳の大部分が活動放棄を行っている今、気がついた事実は持て余すしかなく、結局何もコメントせずに足を拭き終え、更に奥、少し前まで芦が落ち着くはずだった部屋の中まで連れて行った。
そしてそこで、まだ温かな弁当を目にした途端、それまで大人しかった子供が急に騒ぎ出したのだ。芦と繋いでいた手を放し、一直線に、大した距離でもない場所・・・、弁当に向かって。
辿り着いた場所で芦を振り向き、何かを訴えるような眼差しを向けて嬉しそうに両手を振り回し、何度も小さく跳ねる子供の仕草を見て何も察することが出来ないほど芦は無能ではないし、また、何も感じないほど無感動な人間でもなかった。
つまり、跳ねている子供を落ち着かせつつ弁当の前に座らせ、そっと割り箸を差し出してやったのだ。そして子供が大喜びで握り締めた箸の先端が、迷うことなく突き刺したのが、おそらくまだ仄かに温かい、唐揚げで。
以来、子供は握り箸で突き刺した唐揚げを美味しそうに食べている。ちなみに、今、三つめの途中だ。
唐揚げって、最強のおかずだよな・・・、等と子供の幸せそうな様子を眺めながら、つい現実逃避めいた感想を抱いた芦は、その唐揚げの偉大さに感じ入る振りを自分で自分に演じつつも、目は改めて、その最強のおかずに夢中な子供の姿をじっくりと眺めていた。
小さな、子供だった。子供の年齢が良く分からない芦には、何歳くらいという推定すら出来ないのだが、少なくとも、就学前の年齢に見える。その子供の正確な年齢は横に置いておくとして、幼い子供が何故訊ねてきているかも後で考えるとして、芦にとってどうしても避けられない問題が別にあったのだ。
問題、そう、問題は・・・、子供の、外見。
真っ黒な、肩より少し長いくらいの艶やかなストレートの黒髪。天使の輪が眩しいほど艶々なそれは、美しいが特に問題はない。本当の問題は、その髪と同じくらい黒い肌の色だ。もっと言うならば、その肌そのもの。黒人ですら本当に肌が黒いわけではないのに、この子供の肌は、本当に黒いのだ。
真っ黒、黒髪と同じ黒。艶々で、光りを反射するほどの黒は、生き物の肌の色として有り得ない。少なくとも、芦はそんな生き物がいるとは思えない。・・・のに、いる。しかもすぐ目の前に。
そして更にその黒い肌には、色だけではない異質さがあった。むしろ、色以上に異質な部分。その肌の特徴が、出居合い頭に芦を停止に追いやった理由だった。艶やかな、肌。握り締めた手も、拭いてあげた足も、滑らかで、艶々で・・・、まるで、水の中から上がったばかりのような冷ややかさを持つ、肌。
────鱗状の、肌。
細かな鱗ではないし、はっきりしたものではない。うっすらとした大きな鱗で構成された肌は、爬虫類しか持ち得ない・・・、はず。芦の知識の中ではそうなっているのに、子供の肌はその持ち得ない肌で出来ているのだ。二足歩行する生き物の肌とは思えないそれが目の前に現れたことが、芦の全てを停止させた主な理由だった。
肌の病気とかでこういうの、あるのかなぁ・・・、等と、辛うじて浮かぶ可能性を脳裏に漂わせながら、四つめの唐揚げに箸を突き刺している子供を更に見つめる。
こんなに小さな身体なのに、幾つも唐揚げを食べていてお腹を壊さないのだろうかとか、唐揚げばかり食べているけど、付け合わせのキャベツやご飯も食べた方が良いんじゃないかとか、もしかして自分が勧めるべきなのだろうかとか、良い大人を演じているかのような疑問も抱きながら。
子供はその外見ほどではないが、装いも少々変わっていた。裸足、という点は言わずもがな、衣服も奇妙なのだ。元は普通の茶色だったものが、時間の経過と共に色が抜けて薄汚れた黄色めいてしまったのだろうと思える何とも言えない色の、全身を覆うコートのような服を着ていた。
昔、通学路で見かけた全裸の変質者が纏っていたコートのようなそれは、レインコートにも見えるデザインで、服と同じく古ぼけた黄色めいた大きなボタンで前をきっちり留めてあり、フードもついている。
浮浪者か変質者ではないかと思えるようなデザインのそれは、着ている方が何も思っていなかったとしても、見ている方が哀れに思えてしまうようなもので、正直、芦には子供に着せるのに適した物とは思えなかった。
日本ではなく、どこか、もっと貧しい国の子供の浮浪者、所謂、ストリートチルドレンなら、こういう格好の子供もいるのかもしれないが・・・、ここは日本で、そういう子供はいない・・・はず、なのだ。芦の常識の中では。
しかもそんな格好をしているにも関わらず、異様な外見ではあるが、子供自体は至極清潔そうなのだ。髪もよく手入れされているとしか思えない輝きを宿しているし、何より表情に貧しさや卑屈さを思わせるものがない。ただただ、屈託がなく無邪気で無垢だ。肌も異様だが綺麗で艶々なのだから、浮浪生活をしているようにも思えない。
おまけに向けられる瞳の色、テレビの中の外人ですら持っていないような綺麗な紫は、どことなく高貴な感じがして、ますます浮浪という単語から子供を遠ざけている。
異常で異様、ちぐはぐで不可解な子供。しかも何故か鳴き声のような声を漏らすだけで、今もってきちんとした言葉がなく、勿論、この状況に対する説明もない。何故、芦を訊ねてきたのかすら分からない。分かっていることと言えば、とりあえず唐揚げがお気に入りらしい、ということくらい。
現に今、五つめ、最後の唐揚げに箸を突き刺している。つまり既に四つは腹の中に収まっているのだ。腹の具合は大丈夫か、お腹を壊さないか、という心配や、とうとう一つも食べられなかったな、全部、他人にあげてしまったな、という僅かな寂しさ、それに良いことを成したような微かな自己満足を感じて・・・、ふとその時、芦の脳裏と視界に、何か、言葉に出来ない引っ掛かりが生まれた。おそらく、映像による引っ掛かり。
自然と繰り返される、瞬き。乾いているわけでもないのに繰り返されるそれに、逆に目が乾いていく気がした。しかしそれでも繰り返す。引っ掛かった映像を、目の前に呼び戻す為に。何回も、何回も・・・、すぐ傍に座る、謎の子供を視界に納めたまま、何回も、何回も。
そして繰り返していた何回目かの瞬きで、芦はずっと視界に映っていたはずのそれをようやく認識する。特別な映像として、理解する。子供自体が特殊すぎて、小さな、どこにでもあるようなそれは、その時まで特別に映らなかったのだ。本当は、とても、とても特別な物なのに。
────小さな、小さな、子供の小ささによく似合ったサイズの、黒い、鈴。
子供が首からぶら下げている、黒い、鈴。通してある紐は服と同じく、色褪せた麻布を細く切ったような、見窄らしい茶。その紐自体が服と同化しているうえに、肌の異様な黒さが目につきすぎて、服の前、胸元に存在している小さな黒の存在に気がつかなかった。
しかし気づいてしまえば、それが持つ意味は大きい。何故なら鈴自体は大して珍しくもないが、黒い鈴、となると芦は今まで一度しか目にしたことがないからだ。しかもその一度は、まだ大して時間が経ってない朝方のことで、目にした状況を思い出すと、今の異常な状況を更に信じがたい方向へ解釈せざるをえなくなのだ。
黒い、小さな鈴。見かけたのは・・・、あの、小さなお堂だ。そしてその鈴の下にいたのは・・・、黒い、小さな、蛇。怪我をしていて、でも怖くて芦には手当なんてしてあげられなくて、だから代わりに、元気になるようにと、元気になれば怪我も治るような気がしたから、だから、その為に・・・、
唐揚げをあげた、黒い、小さな、蛇、
・・・全てが、繋がった気がした。繋がってはいけないものが・・・、否、繋がっても良いが繋がった後どうしたら良いのかが分からない諸々が、繋がってしまった気がした。芦の脳裏には、その時、あの時見かけた黒い蛇と唐揚げ、それに目の前にいる子供と同じく唐揚げが、凄い音を立ててぐるぐると回っている。
回って、回って、重なり合うほど、回っている。
「みぃ?」
回り続ける映像に、意識の全てが持って行かれそうになったところで、ふいに子供の紫の目が芦の方を向き、黒い頭が左に小さく傾いて、不思議そうな声が聞こえてくる。声・・・、というか、鳴き声、なのかもしれないが。
鳴き声・・・、蛇の、鳴き声?
胸の内に零れた無意識の呟きに、芦の肩が小さく跳ねた。その様に、小首を傾げていた子供が、箸に突き刺したままの囓りかけの唐揚げを震わせて、紫の瞳一杯に心配そうな色を浮かべて見つめてくるので、芦はつい、曖昧な笑みを浮かべて問題ないと言わんばかりの態度で、突き刺したままの唐揚げを勧めてしまう。言葉ではなく、ジェスチャーだけで。
言葉を語らない子供だからか、芦のジェスチャーは簡単に伝わったらしく、安堵の笑みを浮かべて一つ頷くと、再び小さな口で唐揚げを囓り出す。もぐもぐと口を動かし、とても、とても幸せそうな顔をして。
本当は、問題がある。というより、問題しかない。しかし子供に・・・、しかもうっかり可愛いと思ってしまった子供にあんな顔をされてしまうと、芦としては問題しかなくとも問題ないという態度を取らずにはいられないのだ。
そして生温い、何の解決にもならない笑みを浮かべて、とりあえずの平和を願って現状を維持してしまうしかない。何故なら芦は・・・、平和を愛する、変化を望まない、平均的であることを恥じていない、凡人であっても別に良い、向上心って苦手、という感性の持ち主、つまり事なかれ主義だからだ。
別名、根性なしとも言えるそれを自覚していてそのままで全く問題ないと思っている筋金入りなので、こういう時、決定的な一歩を踏み出して積極的に事態を解決しようとすることは出来ない。それ故の、現状維持。勿論、それで維持し続けられれば問題ないのだろうが・・・、この場合、そういう訳にもいかないのは明確で。
つまり、これって・・・、アレ、ってこと・・・かなぁ? でも、そんなこと、有り得るのか? いやいや、有り得ない、有り得ないって、有り得ないでくれって! あー・・・、でも、そういうことだよな? そういうことしかないよな? ってか、これ、どうするんだよ? 唐揚げ食ったら、帰ってくれんのかなぁ? え? じゃあ、唐揚げ食いに来たの? 温かい唐揚げの方が美味いよね?
現状維持の笑みを貼りつけながら、芦の中は自問自答の嵐となっていた。しかも芦の人生有史以来、最大の嵐だ。
正直、芦には乗り越えられる気がしていない。むしろ飲み込まれて訳が分からなくなってしまいたいと願うほど、混乱が世界を覆い始めている。その間、嵐の原因である子供は、箸に突き刺した唐揚げの残りを頬張り、目を瞑って頭を上下に動かしながら味わっている。
突き刺す物を失った箸の尖端を視界に納めた芦は、そこから静かに目を逸らした。見るに堪えない光景だったから、とかではない。ただ、唐揚げを食べ終わってしまった今、これから先、一体どうなっていくのだろうという不安が押し寄せてきて、そこから逃げ出したというだけだった。




