⑤
どうしようかと迷った末に、結局、芦が自宅到着後、電子レンジに突っ込んだのは唐揚げを二つ失った唐揚げ弁当だった。
何に迷ったのかと言うと、唐揚げを二つも失ってしまった唐揚げ弁当が、腹が物理的にも凹んでいるほど空腹状態の自分に足りるのか、という問題と、足りない場合、唐揚げ弁当を放っておいて残り二つのうち、どちらかを選ぶことはアリなのかどうかという問題だった。
芦の直感としては、足りない気がしていた。ただでさえ、二十代の男の食欲はコンビニ弁当一つでは立ち向かいきれないほどの強さがあるのだ。それなのに、メインのおかずが二つも足りていないだなんて、もう戦う前から負けが見えているようなもので。
完全な状態の他の弁当で戦う、もしくは、他の弁当の戦力を多少混ぜ込んだ上で、唐揚げ弁当メインの戦いを繰り広げる。要は、他の弁当から少しおかずを移し、唐揚げ弁当本来の量まで戻して食べるという案もあった。その場合、問題は唐揚げ弁当に移した結果、中身が減った弁当をいつ食べるのかと、そもそも賞味期限間近の弁当を幾つも開封してどうする、という点だ。
問題を先送りするだけだ。空腹という問題を、唐揚げ二つ分の食料が足りていないという問題を。長々と悩んだ末にようやくその事実を受け入れて、芦は唐揚げ弁当だけを電子レンジに突っ込み、冷え切ったそれを温め始めた。
オレンジ色に染まった舞台でくるくると回る唐揚げ弁当を数秒間、何となく眺めながら、そういえばあの蛇には冷たいままの唐揚げをあげてしまったが、やはり温かい方が良かったのだろうか等と、今更考えても仕方がない問題が脳裏を過ぎるのを感じた芦は、溜息を一つ零して回り続ける電子レンジから離れていく。
玄関から大股で四歩程度で一間しかない部屋に辿り着く芦の自宅は、独身男性に相応しく、1LDKだ。キッチンと呼ぶにはおこがましいほど小さな水回りと、その対面にあるトイレ付きバスだけの部屋。
狭いと言えば狭いが、家賃や自分の生活スタイルを考えれば充分とも言える部屋を突き進み、部屋の一番奥に設置されているテレビを点け、再び電子レンジの前まで戻る。レンジとしての使命を果たしているその真下に鎮座した、小さめの冷蔵庫から煮だした麦茶を取り出し、洗い籠に入れたままのコップに注いで、一口。
自宅に常備しているのがペットボトルのお茶ではなく、パック売りしている煮出し用の麦茶である芦の微妙な忠実さに、井雲には常々、所帯くさいなどと笑われているのだが、こういう忠実さすら捨ててしまえば、今の生産性のないだらけた人生が助長されるような気がして、芦は何となく止められないでいた。
でもそのおかげでバイト疲れと非日常疲れを起こしている身体に染み渡る一杯を飲めるんだから、なかなかだよな・・・、等と正当性があるのかないのか微妙な呟きを胸に零している間に、仕事を終えた電子レンジが甲高い音でその旨を喚き立てる。
芦はすかさずレンジを開け、中から熱の所為で多少柔らかくなっている唐揚げ弁当を、感じる熱さを最小にする為、縁を持って取りだし、その足でテレビの前の小さなローテーブルへと進む。
縁を持っても感じる熱さを堪えて開けた透明な弁当の蓋、手前に添えた割り箸、それからキッチンにとって返し、弁当を運ぶ際に流し台の傍に置いた麦茶入りのコップを持ち、再び弁当の元へ戻る。
持っていたコップをテーブルに置きながら、半ば崩れ落ちるように弁当の前、テーブルを挟んでテレビの正面に腰を下ろし、ゆっくりと持ち上げた両手でまるで精神統一でも行うかのように目を閉じながら割り箸を左右に引き裂いて、微かな音を立てて箸が割れた後、開いた目に戻った視界の中に収まる熱々の唐揚げ弁当に向かって、行儀悪く握り箸をしたその尖端を唐揚げの一つに突き刺そうとしたまさにその時、全ての流れが別の方向へ向かい出してしまった。
────と、とん、と・・・、ん、
揚げ物に箸が突き刺さる、食欲を解放する音が聞こえる直前の、他の音が聞こえていない空白を狙ったかのように、それは聞こえてきた。
耳に滑り込んできたそれは本当に微かな音だったので、もし何か別の音を芦が立てていたなら、電子レンジが動き続けていたなら、もしくは点けたばかりのテレビが騒々しい番組を流していたなら、絶対に聞こえない音だったのに、その時、本当にそのタイミングだけ、芦の部屋の中には空白が広がっていたから。
聞こえないはずの音は、芦がたてるはずだった音を留めさせるほど、はっきりと聞こえてしまったのだ。
────とん、とん、とん・・・、
そして何かを考えるより先に、聞こえてきた音によって動きを止めた芦の耳に再び入り込んできたその音は、最初に聞こえたそれよりはっきりと、しかも一定のリズムを刻む努力をしているかのように聞こえた。どことなく、不器用ながら一生懸命に繰り返されている、そんな印象を受ける、音。
無意識に抱いた印象は、動きも思考も止めていた芦に再起動を促す原動力になったらしく、芦は瞬きを数度繰り返した後、とりあえずは持っていた箸をそっと弁当に乗せる形で手放した。勿論、視線は約二秒ほど、本能の訴えるままに突き刺し損ねた唐揚げに絡みついていたのだが。
離れがたい、そう訴える視線を唐揚げから引き離し、芦は身体を捻るようにして背後を見た。聞こえてきた音が何で、どこから聞こえてきていたのか・・・、考えなければ何も分からないそれは、一度きちんと考えれば簡単に分かる答えだった。むしろ、考えようとした瞬間には出ていた答えだったのかもしれない。
────とん、とん、とん、とんっ、
慣れてきたのか、興に乗ったのか、聞こえてくる音は先ほど以上にリズミカルになっている。連打されているが、決して力任せに叩いているのではなく、一生懸命にリズムを刻み、音を聞いてもらおうとしている、そんな感じの音だ。そして聞いている者を、呼んでいる音でもある。
・・・そう、呼んでいるのだ。勿論、芦を。つまりはそれは、ノック音だった。芦が振り向いている、キッチンを通り過ぎた先、靴が履き捨ててある玄関、そこに立ち塞がるドアを、向こう側から叩いている音。叩いて、呼んでいる音。当然、呼んでいる対象は芦。叩いているドアの先に続く部屋の持ち主以外、ドアを叩く者が呼ぶ相手なんて有り得ないのだから。
インターフォンを押せばいいのに、芦が正常な動きを取り戻した思考力で最初に抱いたものは、そんな感想だった。あんなに何度も叩かずとも、頼りない力と手段を使わなくても、インターフォンさえ押せば、中の人間には一発なのに、と。
次いで考えたのは、自分宛の届け物があったかどうか、ということ。家からの仕送りや、通信販売で頼んだ物、応募してみた懸賞などを考えてみるが、どれも当て嵌まりそうにない。
それならばセールスマンかとも思ったが、しかし厚かましい職種のはずのセールスマンが、こんなたどたどしくも懸命さを感じさせるリズムを重ねるとは思えなかった。彼等はもっと、職業的な無機質さで武装した、厚かましさ代表の押しつけがましい音を立てるはず、というのが芦の個人的な見解で。
一体誰が訊ねてきたのか、そこまで考えて芦には他に思いつけそうな可能性が一つとして思い浮かばなくなったところで、溜息を堪えることなく零しつつ、ゆっくりと立ち上がる。
本当のところ、居留守を使ってしまおうかという考えが浮かばなかったわけではないし、全力で面倒だと思っていたわけだが・・・、基本的には真面目で、尚且つ、本人が自覚するほど小心者である芦は、もし無視をして何か取り返しのつかない事が起きたら大変だ、などという考えが振り払えなかったのだ。それ故の、行動。
とぼとぼ、という表現が怖ろしいほど似合った足取りは、ほんの数歩で玄関に至り、終わりを告げる。そして辿り着いた玄関で、ドアに身体を押しつけるようにして見た、覗き穴の先。
一体誰が来たのかと確認するはずだった芦の視線は、いるはずの『誰か』を何故か確認出来ない。しかしあの懸命なノック音は、芦が外を覗いている最中ですら、聞こえ続けている。確かに、ドアの外から。
一瞬、芦の背中に冷たいモノが走り、反射的にドアから半ば飛び退くようにして離れる。姿が見えない、ノック音。
そろそろ夜も明け、世界は明るさに包まれようとしているこんな時間に何故怪談が、という疑問が、ドアから飛び退いた状態で固まっている芦の頭の中を高速回転しているし、今すぐもっとドアから距離を取りたいと願わずにはいられないのだが、その間にも聞こえ続けているノック音は、逃げ腰の芦すら留めるほど、健気な色を帯び始めていて。
どうしよう、と空回りする思考が結論を先延ばしし、健気な色を帯びた音が響き続ける中・・・、ふと、その音の発信源に意識が追いつく。やけに低い位置から聞こえているのだ。どのくらい低いか断定は出来ないが、少なくとも、芦の腹より下から聞こえている気がした。それは成人がドアを叩くような位置ではない。
そこまで気がついた時、芦は先の疑問の答えらしきものを見つける。何故、インターフォンを鳴らさず、ドアをノックしているのか。インターフォンは一般的な成人男性である、芦の肩辺りの高さにある。対して、今聞こえているノック音は腹より下。つまりインターフォンに手が届かないからノックをしているのではないか、という予測だ。
・・・もしかして、子供?
気づいた幾つかの予測と芦に恐怖を与えた覗き窓からの恐怖映像を併せて考えてみると、自然と全ての予測は一つの予測に纏まっていく。そして纏まった予測を目の当たりにした芦からは、感じていた恐怖心が急速に失われていった。子供、インターフォンにすら手が届かない、覗き穴から確認すら出来ないほど小さな、子供。
子供に用なんてないし、子供が用があるとも思えない。しかしそれならば何故、芦の部屋になど訊ねてくるのか、しかもこんなに何度も、懸命に芦を呼び続けているのか?
疑問の答えは、流石に予測が出来ない。ただ、芦はそこである意味、我に返る。どこの誰かは分からないが、子供の訴えをずっと無視した状態でいる現状。たとえ悪気がなかったとしても、それは結構なレベルで、最低な大人の行動なのではないかと。
確かに、最高なレベルの大人ではない。芦自身、自分に対する評価をそこまで過大にしたことはなく、むしろだらだらとした日々を過ごす、あまり褒められた大人ではない、という自覚があった。ただ、それでも他者に迷惑をかけたり酷い行いをしたりするような類いの人間ではないと、そう自分で自分を信じていたのに。
────・・・とん、とん、とっ、とん、
「いっ、今! 今開けるから!」
自分に対する信頼が揺らいだ次の瞬間には、聞こえてきている音に向かって芦は力の限り叫んでいた。同時に、飛び退いていた距離を今度は飛びつくようにしてドアに近づき、左手で鍵を外し、右手でドアノブを握り、時計回りに捻りつつ、半ば体重を掛けるようにしてドアを外に押し開く。
微かな音を立てて開くドア。一瞬、脳裏にこんなに早くドアを開けて、外にいる子供にぶつからないだろうかという心配が過ぎるが、既に開いてしまっているのだから今更手遅れに等しい心配で、そして無駄な心配にもなった。何故なら咄嗟に避けたのか、押し開いたドアが何か、質量のあるものにぶつかった気配はなかったから。
安堵の瞬間。次に訪れる、現状認識の瞬間。
芦は習慣のようにドアの向こう側の存在を自分の視線の高さに求め、不在の事実に先ほどの予測を思い出し、徐々に視線の高さを下げていって・・・、腹の高さまで下げた時、その高さより更にもう少し下、太腿辺りに艶やかな黒を見つけ、半ば無意識に、思った以上に小さかったな、という感想を抱きつつ、見つけた存在をもっと正確に認識する為、小さな存在の顔に当たる部分に視線を定めて。
「・・・みぃ」
理解が、出来なかった。
思考も、出来なかった。
「み、みぃ・・・?」
頭が真っ白になる、なんて、言葉としてではなく、感情として、実体験として味わう羽目になったのは、芦の二十四年と数ヶ月の人生で初めてのことだった。
そしてこの初めての体験で、芦は一つ、貴重な事実を知ることになる。頭が真っ白になった際、機能しなくなるのは理解力や思考力だけであり、感情面においては、何の制約も受けない、という事実だ。てっきり、何もかも、それこそ呼吸や心臓機能以外は全てが停止するのかと思っていたのだが、そうではなかったらしく。
・・・おそらく、それが原因だった。敗因だとは、後々振り返った際も、決して思ったりはしなかったのだが。
「みぃ・・・、みぃっ」
顔の大きさに対してあまりにも大きすぎる、円ら、という単語を絵にしたような瞳は、未だかつて見た事がないような、しかしどこかで見たことがあるような紫。安っぽい絵の具のような色ではなく、高級そうな輝きを閉じ込めた、濃いのに透明度の高い紫。
見たことがない、見たことがないと思うのに・・・、やはり何かが引っ掛かる気がする、紫。その一対の瞳が真っ直ぐに芦に向けられ、紫を填め込んだ顔についた小さな口がほんの少し開き、妙に薄い赤い舌が微かに見える口の中から聞こえてくる、小さな、小さな声。
先ほどから、何度も芦に向けられている、声。
円らな瞳に相応しい、あどけない小さな声は、意味を成すことなく、ただ零される。声・・・、否、鳴き声にも聞こえるモノ。意味を成していないのに、孕んでいる感情だけは説明も要らないほど明確に伝わってくるそれは、芦に対して、一心に一つの感情を伝えてくる。
芦が今まで誰からも向けられたことがないほど、純粋で、無垢な感情が、ただただ、一心に・・・、その、伸ばされる小さな、小さな手と共に。
お人形のような小さな爪すら真っ黒な、黒い、黒い小さな手。
幼子が、親に抱き上げてほしいと強請るように伸ばされた手は、何も出来ずに固まっている芦に向かって、それでも尚、伸ばされ続けている。伸ばした手を取ってもらえない、そんな危惧を一切抱いていない、無心に向けられる・・・、
誤解しようのないほど分かり易い、信頼で支えられた好意、
・・・いくら好かれていても、これはどうなんだろうということを考えられるほどの理解力や思考力は復活していなかった。
それなのに、感情面だけは順調に動いていて、その快適に稼働中の感情が、円らな瞳や、あどけない声や、純粋な好意にただ一つの答えを出してしまう。答え・・・、というか、答えを検討するという選択肢を放棄した、というか・・・、言い換えれば、何も考えない一歩を踏み出したとでも言うべきか。
仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。どれほど衝撃的でも、目の前の小さな姿は答えを検討する気にならないほどの力があったのだ。思わず、芦がその検討していない答えの通りに、自分の両手を差し出してしまうほどには。差し出して、小さな黒い手を握り締めてしまうほどには。
────かっわいいなぁ・・・。
決して子供好きというわけではない芦の心の中ですら、そんな感想で占拠してしまうほどいじらしくも可愛らしい『異形』の子供は、希望通り芦にしっかり両手を握り締めてもらったことで心の底から満足したらしく、紫の瞳を輝かせ、小さな口の端を笑みの形に持ち上げると、とても、とても嬉しそうに一つ、その場で小さく飛び跳ねる。
その瞬間、感情以外の機能が停止しているはずの芦の耳に、やけに澄んだ、軽やかな音が転がり込んだような気がしたのだが・・・、入り込んだその音が何であるのかは、分からなかった。