夏の長い一日4
気が付くと近衛はベッドの上にいた。目線の先にある天井は職員室とは少し違う。体を起こして周りを見渡すと、カーテンが周りを囲っていた。
保健室か。
あまり来たことのない場所。だから、「たぶん」という言葉が口から洩れた。
意識が覚醒していくにつれて腹部に重たい感覚が浮かび上がってきた。あの鬼のようなカツ丼が、まだ近衛の体に丸々残っている。
近衛らしからぬ、鈍い動きでベッドから降りる。カーテンを開けると、窓の外のまぶしい光が目に飛び込んでくる。1階にある保健室から見える景色は誰かが持ち帰り忘れた朝顔と、塗装が剥げてきている鉄棒。その先には誰も手入れをしていないビオトープと、学校と道路の境目をつくる金網。普段より一層、外の景色が白みがかって見える。
壁にかかっている時計は2時14分を指している。時計を見た近衛は、特に表情を変えず、左手を腹に当てて保健室を出る。ニシオがつけたであろうエアコンも、電気もつけっぱなし。
建てつけの悪い職員室の戸を勢い良く引く。歴史を感じる乾いた音を立てて扉が開くと、ニシオが机に足を放り投げてテレビを見ている光景が飛び込んできた。派手な音にも大した反応を見せずに、扇子で汚い顔に風を送る。
「今年も一回戦負けだわ。」
ニシオのつぶやきに反応して、近衛が校長の席の後ろにある古びたブラウン管に目をやると、甲子園球場のスコアボードが表示されていた。学校の名前は読めないが、片方は自分の住んでいる町の名前が入っている。
「80年ぶりじゃあ、こんなもんか。」
アナウンサーが旧制中学時代以来、83年ぶりの甲子園で、スタンドでは前回出場時に在学していた御年100歳のじいさんが応援している旨を話しているが、聞いている近衛には何のことだかさっぱりわからない。とりあえず、どうやら近所の学校がテレビに映っていることだけは話の断片から理解ができた。
「テレビの学校って、川の近くにあるやつ?」
近衛がニシオの席の隣に座って聞いた。
「見りゃわかるだろ。」
「わかんないもん。」
「はあ。」
面倒になったのか、口が止まり、頭を3回掻いた。
近衛の目線もテレビに戻った。あまり野球のことはわからないが、どうやらご近所さんは相手から1点も取れていないことは理解できた。
「負けそうなの?」
「負けそうってか、負けるなあこりゃ。相手のピッチャーがいいんだわ。」
「へえ。」
とりあえずな生返事をする。
会話が続かないので、仕方なく、高校野球を見る。野球はバットにボールを当てるものだとしか理解していない近衛にとって、ひたすらに打者が空振りしている光景は実に奇異である。
「おい、8連続かよ。」
隣でニシオがテレビに文句を言う。
バットにボールが当たらない光景に飽きてきたのか、近衛は机の上を物色し始めた。赤いハンコが押してあるよくわからない紙、算数のテストの答え、4年の国語の教科書。その横にある卓上カレンダーを見ると、一昨日から来週にかけてまっすぐに矢印が伸び、間に旅行☆とメモ書きがあった。
「人の机を漁ってるんじゃねえ。」
頭の上にカチンと団扇が落とされた。
「いいじゃん。」
つむじに当たり余計に痛い頭を押さえて、文句を言う。
「文句言うなら外に放り出すぞ。」
何も言い返せないので、仕方なしに背中を殴りつけてやる。細い近衛の腕では微動だにしない。
「暇なら学校のカギが全部しまってるか見て来いよ。」
「全部の教室入っていいの?」
校則で他の教室には勝手に入らない決まりがあり、なかなか自分の教室以外を覗く機会がないので、近衛の声が上ずった。
「ちゃんと見て来いよ。トイレも廊下もだぞ。」
「わかった!」
足のつかない椅子から飛び降りて、開けっ放しの戸から廊下へ出ていく。口が悪くても、宿題を忘れても、しょせん小学生である。校則は担任の言葉よりも重く神の言葉と同義である。近衛とて、容易に破ることができるものではなかった。全部の教室に入るなんて1年生の時の学校探検以来だと胸が高鳴った。
1階の一番端の教室は4年生の教室だった。勢いよく戸を開けると、自分の教室より少しだけ高い机と椅子がずらりと並んでいた。壁には墨で書かれた読めない漢字と、知らない顔写真が張られている。
「あんまり変わらない。」
一言つぶやくと窓のカギが閉まっているのを確認してさっさと教室を出た。次の教室はひまわり学級。机の数を数えたら6。4年生の教室と比べて広く感じた。後ろのほうに少し床が高くなっているところがある。マットが敷かれているので、昼寝でもするのかなと近衛は考えた。試しに寝てみるとなかなかに寝心地がよかった。自分の教室もあればいいのにと恨めしく思いながらひまわり学級を後にする。
机と椅子だけの学習室、保健室の覗いた後、今度は廊下の窓を確認する。ところどころ蜘蛛の巣ができていてなんだか汚い。昇降口を見たあとは、1階で戸締りをしていない場所はトイレだけになった。
男子便所。
目の前の扉の上に埃が被った札がついている。許可をもらっているとはいえ、妙な気持ちになった。大きく息を吐いて心を落ち着ける。
慎重すぎるほどゆっくりと、戸を押した。ぎいとやたら大きな音がしてどきりとした。
中は教室に比べて全体的に薄暗く、正面の窓だけが陽の光を写していてやけに明るい。右に白いものが5つ並んでいて、その上の天井近くにタンクのようなものがついている。普段のトイレと違った景色に、なんだか見てはいけないような罪悪感を覚え、それらを視界の中からすぐに外した。変わって左を見ると見慣れた光景があった。違うのは薄赤の色ではなくて薄青。扉の数も少ないように思えた。右側を視界に入れないようにしながら窓までたどり着く。窓の先には中庭の木々が見えた。鍵がかかっていることを確認すると、そのまま窓に背を向ける。そして廊下に向かって一歩踏み出したところで、左手から何かの音が聞こえた。びっくりして左を見ると、5つの白いものの中で水が流れていた。何事かと思わず視線がくぎ付けになる。何もしていないのにどういうことなのかと、頭の中で思考が回り始める。そのまま視線を外せずにいると、そのうちの一つで水がどんどん貯まっていき、ついには水があふれ出てきた。
「えええ。」
口から声が漏れ出た。突然の出来事に頭の中がぐるぐると回りだす。トイレの水が勝手に流れてきた挙句、あふれ出すなんて近衛の小学校生活の中では大事件である。とにかく報告だと、大急ぎで廊下に飛び出すと、そのまま階段を駆け上がって職員室に転がり込んだ。
「男子トイレで水漏れ!水出てきた!」
いろいろな思いから興奮している近衛を見て、次いで「漏れてる」を連呼する声を聴いて、事情を察したニシオは再びテレビに視線を戻した。
「1階の男子トイレだろ。あそこいつも漏れるんだよ。放っとけ。」
自分が体験した超常現象をあっさりと流されてしまって唖然とする近衛。左足の違和感に気づき目線をやると、足が水で濡れていた。
「他の階もやるんだぞ。」
近所の高校の、力のない速球を眺めながらぶっきらぼうに言うニシオ。どうも大したことではないらしいと分かったものの、いまだ興奮の余韻が残っている近衛。
3時2分。少しずつ一日の終わりが近づいてくる。




