夏の長い一日3
ニシオは教務の机まで歩いていくと、書類入れからボロボロの紙切れを引っ張り出した。
大衆亭
日に焼けた紙に達筆な文字で書かれたメニューにはごくありふれた品物と安からず高からずの値段のみが書かれている。
味は普通、量は特盛。卒業生の家庭ということもあってか、毎回必ずサービスでおかずがついてくる。店が近所で配達も早いので、この学校の教職員は、給食が出ないときはコンビニ飯か、大衆亭の出前か、基本的にはどちらかである。
夏の、熱気しか見えない外に出ることを端から考えていないニシオは受話器を雑に掴むと、慣れた手つきで番号を押す。
「カツ丼でいいか。」
棚に収まっている6年の教科書を眺めている近衛に確認を取る。
「親子丼!」
見向きもせずに即答が帰ってくる。
「態度がでけーんだよ。」
言い切らないうちに受話器の向こうから声が聞こえてくる。
バツの悪そうな顔をしながら注文を伝える。
「カツ丼と親子丼一つずつ、よろしく。」
派手な音を立てて受話器が置かれる。12時16分。規則上の休憩時間である。ニシオは時計に目をやった後、いつのまにか校長の椅子に座っていた近衛に目線を動かす。
「お前、いつまでいんだ。」
くるくると上機嫌に椅子で回っている近衛は、目を回さないように視線を先へ送っている。
「外、暑いんだもん。」
兎小屋でかいた汗で髪が額にくっついている。
職員室で気持ちよく昼寝をしていたニシオは、暑い中兎小屋の掃除をしてやった者に対する態度かと、近衛による暑い説教を食らった上、仕事の対価をよこせと喚かれた結果、昼食を奢ることになった。
次の麻雀の軍資金が少し減ってしまい、やらせるんじゃなかったと後悔するニシオ。
回る椅子に飽きた近衛は、好物の親子丼が早く来ないものかと、校長の椅子を動かして窓際まで行き、窓から校門を眺めている。真っ黒な校門から左に目をやると、時間を追うごとに増していく太陽の強い日差しに照らされ、灼熱の砂漠と化した校庭が、人影を作ることなく広がっている。
「まだ来ないの。ちょっと遅くない?」
「カップ麺でもまだ出来上がらねえよ。」
電話をかけてからまだ3分である。
「えー。おなかすいた。」
理屈も何もなく、感情のみで返事がくる。言葉を返すのも面倒なのでとりあえず鼻の中の異物を取り除く。
「鼻ほじるの汚い!」
兎の糞を踏みまくってきたやつが何を言うかと、構わず鼻の掃除を続ける。校長の椅子から飛び降りて全力でかけてくる姿が視界の隅に入った。前の職場の面々から昇進祝いにと送られ、大事に使って3年目。手入れも欠かさない校長の椅子は、壁に勢いよくぶつかり、大きな音と、金属が床に転がる音の二種類を奏でて倒れた。
職員室の中が荒らされては面倒だと自ら近衛へ近づいていく。鼻へ突っ込んだ小指を向けるとキャーとかいって寄るのをやめた。
しばらく、小指の先で近衛をおちょくっていると、チャイムが鳴った。ニシオが職員室から顔を出すと、玄関に大衆亭のいつものじいさんが立っていた。
「夏休みなのに、先生も大変だねえ。」
長期休みの時にじいさんはいつも同じことを言う。料金を払うとサービスだからと、スイカを4切れを置いて行ってくれた。
「スイカ!やった!」
親子丼に加え、スイカも持って現れたニシオを見た近衛はたいそう機嫌がよくなり、校長の椅子へ駆けていった。机に親子丼が置かれると同時に、まちきれずにどんぶりの蓋を勢い良く開けた。
文字通りの山盛りの米。蓋は押さえつけるために使われていたのではないかと思われるほど、米密度がものすごく、パンパンに詰められている。卵は米と蓋に挟まれていたせいか、きれいな蓋の形をして米の上に載っている。バランスを崩して頂上から転がり落ちる鶏肉をあわてて近衛が手づかみする。あまりの量に、眉間にしわが寄っている。
「なんだ、量多いか?」
硬直している近衛を見てニシオが声をかける。
「そんなことないし余裕だし。」
山盛りの親子丼から目を逸らさずに言う。口は開きっぱなしである。
「それ全部食ったら俺のスイカもやるよ。」
ニヤリと口元を歪めたニシオは割り箸を近衛の頭の上に乗せると、スイカとかつ丼をもって、職員室自分の席へ戻っていった。
近衛の目線は山盛りのどんぶりから目を離さない。麦茶いるかとのニシオの声にも返事をせずに手を膝の上に置いて、硬直している。冷房の冷えた風が短い髪と湯気を揺らす。頭の上の割り箸が風に煽られバランスを崩した。そのまま前髪を伝って落ちていく。近衛の目の前を通った瞬間、膝の上にあった右手が「ぐわし」と割り箸を毟り取った。袋をちぎり捨て、派手に箸を割ってどんぶりに顔を突っ込むと、ガチャガチャと大げさな音を立てて食らいつき始めた。お椀は左手で持ちます、ご飯は箸でつまんでたくさん噛んで食べましょう。1年生のときに教わった作法は遠く彼方に消し去られ、担任に山ほど注意された犬食い状態。箸はつまむものではなくかき寄せるもの。近衛の体温は一気に上昇し、いつもはサラサラとしている前髪が額にへばりつく。
コップを二つ持ち、職員室奥の給湯室から出てきたニシオは校長の机に米粒をまき散らしながら食べている近衛を見て、再び口元を歪めた。どこまでいけるかなと口からこぼし、適当な椅子に勢いよく座る。椅子のスポンジから勢いよく空気が抜ける音がする。机に置いたガラスコップの側面を指ではじきながら遠巻きで教え子の下品な食べっぷりを眺めている。
半分もいかないうちに近衛の胃袋は満腹のサインを出していた。実はこの親子丼、大盛りである。ニシオが注文の際、どちらかと指定もせずに大盛りと言った結果、かつ丼も親子丼も大盛りになったのである。大食いでも何でもない貧相な小学3年生にとって、大衆亭の大盛りはあまりに壁が高かった。箸で口にいくら掻き込んでも、米は減らない。混ぜるも分けるも何もせずに突き進んでいるのでとうの昔に卵も鶏肉もなくなり、出汁を思い切り吸い込んだ白米だけがどんぶりの中に詰められている。近衛がニシオのほうに目をやると、下品な顔でこちらを眺めているのが分かった。お腹いっぱいですと、箸をおけばよいのに、そんな素振りも見せない。ニシオの前で余裕といった以上、絶対に余裕なのである。余裕なのだから一度も休むことなく一気に食べられるものなのである。意地と見栄だけで食べ続け、口の周りも机の周りも米粒だらけ。むせるたびにまた新しい米粒が周りに散っていく。初めに比べると口に運ばれる速さは明らかに遅い。それでも余裕なのだから箸は止まることがない。少しずつ、どんぶりの中の米が減っていく。お椀一杯分から握りこぶし大へ。団子一つ分からひとつまみまで。最後の一口を吸い込み、どんぶりの底の「大衆」の文字が見えると、近衛は割り箸を思い切り机にたたきつけた。
「たべ、たぞ。」
いつの間にかかつ丼を平らげて麦茶を飲んでいるニシオをにらみつける。にらみつけられたニシオは、その場で立ち上がると近衛のそばまで寄り、どんぶりの中をまじまじと見つめた。近衛は目の前に立つニシオの涼しげな顔を見上げながらにらみ続ける。ニシオはやるじゃんとつぶやいた後、机の上にあった校長のティッシュを引っ張ると、近衛の顔をぐりぐりとぬぐう。もう乾き始めている米粒がティッシュに机に落ちていく。にらみつけたまま、抵抗はしない近衛。一通りぬぐい終え、ティッシュをゴミ箱に放り込むニシオ。
「よく食ったなあ。お前すごいわ。」
言われた近衛は少ししたり顔である。あくまで余裕でしたという表情。
「そんじゃあ頑張った近衛に。」
自分の机まで戻ったニシオが皿を持ってきて
「俺の分のスイカも食わせてやろう。」
米まみれの机にスイカ四切れが現れた。切り方が尋常でなく分厚い。大衆亭はサービスも特盛である。
近衛のしたり顔が再び険しくなった。校長の椅子から立ち上がるとそのまま床に倒れこんで仰向けの大の字。
「むり。」
職員室の外からはアブラゼミの何重にもなった鳴き声が聞こえる。午後1時7分。晴天の夏休みは今が一番暑い。




