170:二度目の小塔
同時刻。
山中でノヴァが拠点としているキャンプにやって来たラトニは、ニッコニコのノヴァに捕獲されていた。
「すみません、『精霊の髪』の所在を知らないのなら、僕はお暇したいんですけど」
「まあそう言うな」
そこそこ高い木の枝から一見普通の縄で逆さ吊りにされて、チベットスナギツネの如き平べったい目をしているラトニ(どう考えても弟子の扱いじゃないので、このクソ師匠はいつか絶対ボンレスハムみたいに縛って炙り焼きにしてやる)に、焚き火の傍で優雅にココアを嗜んでいるノヴァがにこやかに返した。
地なのか染めているのか、こんな山中でもこの魔術師の頭髪は紫黒と薄鈍色に左右きっぱり分かれている。これもまた左右異色のちぐはぐで奇妙な服と相俟って、何度見ても「アシンメトリー」以外の第一印象が出てこない。
恐らくたっぷりと糖分が入っているだろうココアに、ノヴァが更にボチャボチャとマシュマロを投入し始める。
「超弦理論を完全に証明できれば、自然界の全ての力を数学的に表現できる。素晴らしい話じゃないか。だがお前の寄越したノートは触り程度で、ブラックホールのエントロピーに関する問題から証明に使うエネルギーの規模まで、分からないことの方が多くて実践段階にはとても至らない。ならばお前自身に聞くしかない」
「その話なら、僕にはこれ以上は分かりませんし、これ以上の情報を得られる当てもありません」
げっそりと溜息を吐きながら、ラトニは縄の解析を行う。一見力技で切れそうに見えるのはブラフで、編み込まれた魔術的トラップを解除する順番を間違えれば空に向かって逆バンジーをする羽目になるだろう。あとなんか体が痺れて動かないんだけど、まさか手にも視覚情報にも頼らずにやれって言ってる?
口だけきちんと動くことに苛立ちながら、ラトニは返答を返していく。
「今僕が持つ知識は残滓のようなものです。与えられた知識をそのままアウトプットしているだけで、それだって記憶力が足りなくて欠けた部分は数多ある。自分で研究や分析ができるような設備も、魔術も、基礎知識もなかったことは知っているでしょう?
足りない部分はお手数ですがご自分で穴埋めを。最初にそう言ったはずですよ」
「お前にインプットした存在に、もう一度アクセスすることはできないのか?」
「残念ですが、もう繋がりは切れています」
何せ本来この世界に存在しない、極めて高度な専門知識だ。手慰みのように何度も聞かせてもらったって、もとより使いようのない知識だと思っていれば自然とうろ覚えになる所もある。
『あの頃』のラトニは、知識を得ることよりも『彼女』と話をすること自体が目的だったから、必死で頭に叩き込もうとすることもなかった。
思えば『彼女』自身も、自分が与えているのが必要以上に高度な知識であることを認識していなかったのではないだろうか。
『彼女』の話は、正確ではあったが、酷くとりとめがなかった。
例えるなら、複素数平面を教えた後に四則演算を教え、更にフェルマーの最終定理まで話が飛ぶようなものだ。とてもじゃないが筋道立てた教え方とは言えないし、ラトニがある程度噛み砕いた『教わり方』を学ぶまでは、呪文のような言葉を解読するので精一杯だった。
(尤も、聞けば何でも答えてくれましたし、こんなことになると分かっていれば、もっと覚えようとしたんですけど)
今更考えても仕方がないことに溜息をつく。
与えられた知識を水系魔術に活用できたのは、桁外れの適性を盾に自力で試行錯誤を繰り返せたからだ。
それ以上のことは、今のラトニにはできない。悔しいが、ノヴァは地頭と知識と魔術的素養がラトニを遥かに上回るため、とっかかりさえあれば自力で磨けるだろう。
「なんだつまらん。授業料が安過ぎたかな」
「この扱いで充分差し引きマイナスですよ……!」
最後に気合いを込めて縄を切ると麻痺が解け、水で作ったクッションの上に背中から落ちる。
ジロッと一睨みしてココアをボコボコ煮立たせてやると、ノヴァは「気が効くな、丁度冷めかけてたところだ」とマグマのようになったココアに平然と口をつけた。腹立つ。
「ところでお前、何か感じることはないか?」
唐突にあらぬ方を指差してノヴァがそんなことを聞くので、ラトニは眉を顰めた。
気配を探ってみたが、虫くらいしかいない。
「……あっちの方角……シェパに、とかですか? いいえ、分かりません。何かまずいことが起きているんですか?」
ノヴァは鼻で笑った。
「まだまだ愚鈍だな。あんな馬鹿でかいモノの接近に気付かなくてどうする。弱いなら弱いなりの危機察知能力くらいは身に付けろ、今日はいくらかマシになるまで鍛えてやる」
その方角――『浮島』を指していた指を下ろし、「ゔっ」という顔をしたクソ生意気な弟子に、ノヴァはマシュマロを投げつけた。うまくキャッチできなかったらメニューを増やしてやろう。
※※※
点々と落ちている灰色の羽は、時間が経ったものから灰のように細かな粒子となって消えていくようだった。
あの成長が異常な現象であり、サテの身体に著しい負担をかけていることの証明のように思えて、オーリは唇を噛み締めた。
(こんなことなら、クチバシを引き上げさせるんじゃなかった。魔獣の魔力暴走なんて、私には対処が分からない……!)
庭師と目が合いかけたのを幻術で姿を消してやり過ごし、使用人に指示を出している執事の上を飛び越えて、微かな鳴き声と羽を頼りに駆け抜ける。
サテの気配は人のいない屋敷の奥へと入り込んでいき、やがて行き着いたのは、細長い階段――ルシアの住む小塔へ続く道だった。
階段の途中にひらりと一枚だけ落ちていた羽が、さらさらと空気に溶け消える。その光景に、オーリの眉根がぎゅっと寄った。
そっと踏み出した足が階段の一段目に乗り――透けないままそこに留まった。
――ここでも異常事態か。
この階段は、これまで見えても『触れない』場所だった。なのにサテの羽は『階段の上に落ちていて』、オーリも今、触れることができる。何が理由だ? いつから『そう』だった?
思考が着地点を見つけられない。苛立ちに髪を掻き乱しながら、オーリは階段を登り始めた。
未だ記憶に新しい、新年の祝いの日。あの日出会った精霊とサテに、一体何の関係がある?
かつ、かつ、と足音を立てて登っていく。
長い階段と壁は綺麗だが、しんとした素っ気なさがあった。
――当たり前だ、ここを通る人間など、三十年に一人いれば良い方なのだから。人の住まない家は、次第に人を拒むようになる。
コツ、と足に何かが当たって、オーリは下を見た。
足元に小さな氷塊が転がっていた。一瞬考えて、自室で見たのと同じものだと分かる。上を見れば光るものが他にも転がっていて、小塔に近付くほど暴走が悪化していることを窺わせた。
(――くそ、)
焦げたような臭いはしないが、壁に触れた手に僅かな煤の跡。舌打ちしたい気分で足を早める。
足早に踏み込んだ扉の先――清潔だが簡素な部屋に、その人はいた。
青が混じった長い金髪、露草色の宝石じみた双眸。年若い少女の姿をした美しい精霊の手のひらの上に、フーフーと息を荒げるサテが浮いていた。
部屋の中は幾分か荒らされている。サテが攻撃したのか、僅かに凍りついた部分や、ひっくり返った花瓶などが散見していた。もしももっと調度品が多ければ、見る影もなく荒れていたに違いない。
「ルシア様! ――サテ!」
ルシアの身体は薄く透けて、向こうの壁が見えていた。ちらりとこちらを見たルシアが、オーリを視界に入れてふと笑う。
「――随分厄介ごとに愛されとるようじゃな、オーリリア」
「……この歳からモテ過ぎて困っちゃいますね」
落ち着き払った第一声に緊張感が抜け、オーリは深々と溜息をついた。
「昨日から気配は感じとったが、先程突然これが飛び込んできて暴れ狂った。すぐに抑えたは良いが、さてワシの気配に当てられたかと思えば、どうやら妙なもんでも食ったらしい。吐かせるのは無理じゃて、溢れ過ぎとる魔力だけ抜くぞ」
不可視の拘束から逃れようと暴れるサテを撫でるように、ルシアがくるりと手を動かせば、サテを中心に白い光が竜巻の如く渦を巻いた。
驚愕と威嚇を等分に含んだ鳴き声を上げるサテに構わず、ルシアが指揮者を思わせる仕草で動かした指に釣り出されるように、サテの体から青く輝く何かが滲み出る。
繊細な糸を撚り合わせたような青い魔力は急激に収束し、燃えるような赤色になった直後、弾けて消失した。
「ほれ、終わりじゃ」
白い光が球形になり、殻のようにサテを覆う。数秒強く輝いたそれが弾けた時、そこに浮いていたのはふわふわの雛の姿に戻ったサテだった。とても飛べそうにはない短い翼を投げ出して、くったりと目を閉じている。
ルシアがサテを差し出して、オーリはそっと両手で受け取る。僅かに触れ合ったと思った指先は、やはりルシアの身体を透過した。
サテが正常に息をしていることを確認して、オーリはほっと眦を下げた。
「ありがとうございます、ルシア様。あと、サテが暴れてすみませんでした。片付けてから帰ります」
「良い良い。『雪枯』とワシはあまり相性が良くないからの、余計に当てられたところもあるんじゃろ」
「『雪枯』って、この子のことですか?」
聞き返されて、ルシアはきょとんとした。
「何じゃ、知らんで連れとるのか。ワシゃてっきり次代『雪枯』のエリート教育でも任せられたんかと思っとったんじゃが」
「人から任せられたのは確かだけど、『雪枯』って種類の魔獣だとかは知りませんでしたよ。説明皆無だったもんで」
「微妙に違うんじゃが、教えない方が親切な気がしてきた。エッ、お主何なの? どんな星の下に生まれとるの?」
「自宅の床下から出てきたツチノコを見る顔やめてくれませんか? 人生が不安になってくる」
周りに報告連絡相談できない人間が多すぎて、自分が地雷原のど真ん中に佇んでいるように思えてきた。リーゼロッテから強引に押し付けられたサテがただの魔獣でない可能性は感じていたが、なんだか予想以上の特大地雷かも知れない。
たちまち顔が引き攣っていくオーリに、ルシアは気の毒そうな顔をした。したが助けてくれる気もないらしく、見る者の不安をいや増すような曖昧で慰めるような笑顔を向けてくる。
「お偉いさんから押し付けられたんなら、その人間は確実にそいつの正体を把握しとるよ。それに……うんまあ、ほら、色々と。近々分かるでの、多分」
「やめてやめて中途半端に情報小出しにしてくるのやめて。勝手に想像力が走り出すから不安が煽られて真面目に怖い」
「すまんの……お口にチャックするから、今言った事は忘れとくれ」
「言えって言ってんですけど!? 気遣わなくて良いから普通に全部吐いてよはいチャック開けたー!」
「はいまた閉めたー! 知らん知らん知らん! ワシはもう政争にも『雪枯』にも関わらんのじゃ! 精霊は隠居しましたー! 人間が自分で頑張ってくださーい!」
「そんな無責任な! あ゛あ゛あ゛もう嫌だ! 精霊も権力者も大人も皆好き勝手ばっか言って私にあれこれ押し付ける! 地雷埋める時は『ここ埋めるよ』くらいのこと言ってくんないと困るんだけどー!」
あーあーうるさいと口に手を当てて頭をブンブン振るルシアに、オーリは涙目で地団駄踏んだ。ルシアに触れられるなら縋り付いて泣き落としにかかるところだ。ただでさえサラと『黒いローリエ』で手一杯なのに、この上厄ネタを追い撃ちしてくるの、対処が追いつかないから本気でやめて欲しい。
そこまで考えて、オーリははっとした。
「そうだ、ルシア様! 精霊の髪! 髪ください一本で良いから!!」
「無理。ワシ実体ないもん」
ぐしゃ。
オーリは崩れ落ちた。その頭をルシアがつんつんつつく、ような仕草を見せるが、やっぱり透けて触れない。
やっぱ詰んでる詰んでるよこれ、とブツブツ呟きながらしくしく泣くオーリに、ルシアは「情緒不安定かのー」と呟いた。
「言うたじゃろうが。ワシはもう隠居した。人間にも他所の精霊にも関わる気はない」
情けなく歪めた顔をもたりと上げると、こちらを見下ろすルシアと目が合った。
花のような、星のような精霊は、眉尻を穏やかに下げて、困った孫を諭す祖母のような顔をしていた。
「今日ワシに出会ったことは誰にも言うでないぞ、オーリリア。ブランジュードの子がワシに出会うのは、その生涯にただ一度。だがお主は、二度と見えないはずの階段を見た。二度までワシに邂逅した。分からんだろう、それがどれだけ異常なことか」
「……はい」
「ブランジュードの直系、魂をいじられた人間。それでもお主の親和性は、ほんの少しだけ高すぎる」
オーリを見つめる視線に熱はなく、代わりに魂の底まで見透かすような冷たさがある。
それでもじっと見返していると、星空を封じ込めたようなその眼に引き込まれそうになって、人外のものに魅入られるというのはこういう感覚なのか、とぼんやり思った。
――ふ、とルシアが身を離し、奇妙な引力を感じる視線が外された。
「人間のことは人間の力で何とかせい。そう在るべきじゃ。初めからそう在るべきじゃったんじゃ」
自分に言い聞かせるように呟くルシアの言葉はこちらを突き放すものだったけれど、抗議する気にはなれなかった。