侯爵の怒り
だが──ザガロが上機嫌でいられたのは、玄関の扉をくぐるまでのことだった。
「ザガロ貴様! わしが必死に頼み込んで整えた縁談を、台無しにするとはどういうことだ!」
出迎えた使用人にザガロが荷物を渡そうとした瞬間、雷のような声が頭上から降ってきた。
反射的にそちらを見上げれば、過去に一度も怒鳴る姿を見たことのない父親が、肩を怒らせて階段を降りてくる。
婚約を台無しにした? もしかして、ミディアの父親が何か言ってきたのか?
考えるも、分かるわけがない。
ザガロは玄関ホールにいた使用人達を下がらせると、緊張した面持ちで父親が目の前へと来るのを待った。
「父上、一体何が──」
「……この、馬鹿者が!」
ザガロが言い終えるより早く、父親の怒号と共に強い衝撃を左頬に感じ、身体が傾く。
目の前に星が散り、咄嗟に何が起こったのか理解ができず、動きを止めていると──「きゃあああ!」と叫んだジェニーの声で我に返った。
もしかして僕は、父上に打たれたのか……?
とてもその事実を信じられず、震える指でザガロはそっと自分の左頬に触れる。──が、触れた瞬間鋭い痛みを感じ、反射的に手を引っ込めた。
「父上、どうして……?」
呆然と問いかければ、鬼のような形相で睨まれた。
打たれたことはもちろんだが、こんなにも恐ろしい父の顔を見たのも初めてのことだった。
「あ、あの……申し訳ありませんでした……」
あまりの衝撃に、思わず謝罪が口を突いて出る。
これまで父親は何をしても怒らなかったし、領地の経営に忙しくて食事時以外は殆ど話もしてこなかったから、こんな時どう対処すればいいのか分からない。
自分とミディアとの婚約に何かがあったのは間違いないだろうが、それにしたってここまで父親が怒る理由がザガロには見当もつかなかった。
僕がしたことといえば、子爵との約束を反故にしたぐらいだろう? あとは……宝飾品の支払いを後回しにしているぐらいか。
その他のやらかしについて、ザガロは全くと言っていいほど自覚がない。彼にとって愛するジェニーをミディアより優先するのは当然であるし、そもそもミディアのことは都合のいい金づるとしか考えていないため、彼女にも感情があること自体、頭から抜け落ちている。
由緒あるメラニン侯爵家の嫡男であるこの僕が、ただ金に困っているというだけで子爵家なんかの女を嫁に貰ってやるんだ。それだけで向こうはありがたいと思わなければならないのに、今更何を父上に言ってきたのか……。
苛立ちが込み上げ、ザガロは唇をかみ締める。
しかし、彼の父親であるメラニン侯爵はそれを自分に対する反抗と感じ取ったのか、今度はザガロの打たれていなかった側の頬を、思い切り引っ叩いた。




