-29- 腕時計
「あなたっ! そろそろ出なくていいのっ!」
山の神と恐れ慄く妻の知穂に釘を刺され、田所は、ハッ! として腕を持た。腕時計は八時五分を示していた。やれやれ、まだ二十分はあるな…と安心した田所は、熱めのコーヒーを、ふたたび啜った。ひと口、ふた口と啜っていたときである。バタバタ・・と廊下から音がし、知穂が駆け込んできた。
「もう、八時半よっ! 九時から役員会って言ってなかったっ!」
そのとき、田所は思い出したのである。何を思い出したのか? といえば、それは時計の電池が切れ始めていたことだった。運針が二秒間隔となり、そろそろ切れるな…と電池交換を考えるでなく思っていたのは一週間日前で、多忙のためその後、電池交換をうっかりわすれていたのである。これはもう、致命的なミスだった。
「しまったっ!!」
田所は思わず大声を上げ、ソファから立ち上がった。ガブガブと残ったコーヒーを口に入れ、熱過ぎて思わずマグカップに戻し、唸った。早足でキッチンの蛇口で口を漱ぎ、玄関へと急いだ。
「ったくっ! カバン、カバンっ!」
玄関でカバンを渡され、田所は家を飛び出した。歩きながら携帯を取り出し、会社へ電話をした。
『はい、山羊物産の秘書課ですが…。どちらさまでしたでしょう?』
「どちらさまも、こちらさまもないっ! 俺だっ!!」
『俺と申されましても…?』
「俺だっ!! 社長の田所だっ! 役員会はもう始まっとるのかっ!」
『いえ、それが…。常務から一時間遅れると連絡が入りまして…』
「そうかっ! 困ったヤツだっ!!」
田所は自分のことを棚に上げ、遅れた常務を愚痴った。
その後、役員会は一時間遅れで開催され、無事に新しい人事案件は承認される運びとなった。田所は新会長に、前会長は名誉会長に就任したのである。
腕時計の電池切れは、うっかりせず早めに交換した方が無難なようです。^^
完




