終章②
キョロキョロと部屋の中を見回すと、窓際でノエルがひっそり佇んでいるのが見えた。イメージ的にノエルは居酒屋でワイワイ騒ぐよりバーで静かにお酒を傾けるのが似合ってるので、そこまで浮いている印象は受けない。
しかしここはバーではなく、皆で楽しく語り合う場だ。俺はノエルの好きなオレンジジュースを手に歩み寄る。
「ほい、オレンジジュース」
「ん、感謝する。……こういう場は苦手だ。どのように振る舞えばよいのか、頭で考えてしまう」
「……く」
思わず含み笑いが漏れてしまった。ノエルが咎めるような目付きを寄越してくる。
「何故笑う? 我とて不得手に思うことくらいあるのだぞ?」
「いや、違うんだ……悪い。ただ他の皆のことを考えてくれてるんだなあって思ってさ」
どう振る舞えばいいのか分からない――盛り上げればいいのか、全員の様子を把握すればいいのか。つまりノエルは少なからず、他者の為に動こうと考えてくれていたのだ。
彼女自身気付いていなかったらしく、そのことをどう受け止めればいいのか悩む風な表情を作る。初めて出会ったときよりも格段に表情が豊かになったのも、成長の一つだろう。
ノエルと初めて出会った頃、か……。
「……そう言えば、さ。どうしてうちに来ようと決めたんだ?」
「? 意味が分からないな」
「あ、断っておくけど別にお前と一緒に過ごすことが苦痛だとか、そういうことが言いたいんじゃないぞ? その……俺らが出会ったとき、お前すっごい警戒してただろ? だからノエルがついて来てくれたのがすごい意外だったんだ」
雨の日のことだった。公園でずぶ濡れになっていたノエルは、最初鋭利な刃物みたいな眼差しで俺を睨んできたのだ。正直チビリかけました、はい。
当時既にシェアハウスをしていた大名寺から、「近くに転生者の反応がある」と聞かされ、興味本位で探しに出かけて、一目でノエルが転生者なのだと分かった。人間の纏う雰囲気じゃなかったし。
俺と同じように記憶を遡っていたノエルが、ふと瞼を上げて話し始めた。
「……別に、特別なことはない。あのとき我が拒否したとしても、この男は根気強く誘ってくるに違いない、と感じたからだ。貴様自身そう言っていたではないか」
「あー……そうだったっけ?」
「そうだったのだ。待ち構えている過干渉が煩わしくてな、つい首を縦に振ってしまった。――それだけの話だ」
思ったより受け身な答えだった。ロマンス的な何かを期待していたつもりはないけど、ちょっとだけガッカリ。
だけどそんなもんだよな、蓋を開けてみれば理由なんて。たとえるなら惚れた理由が『顔』みたいな、人生聞かなきゃよかったと思うことばっかりだ。
げんなりしていると、ノエルが小さく俺の名前を呟いた。
「……此度の製作を通じて、人とは変わるものだと知った。良い方向へと働くことがあれば、悪い方向へと傾くことも当然ある。変化とはそういうものだからな。それ故に、我は恐ろしく思う。この先我らは……映研はどう変わっていくのか」
その問い掛けに対し、俺は即座に答えることができなかった。普段目を逸らしていることを目の前に突き付けられたからだ。
人間、悪い方へと進んで努力することはない。けれど進む先を間違えることは大いにあるのだ。懸命な努力が実を結ばずに終わることなど山ほどある。
人はいつだって、暗闇の海を手探りで進むことを強要され生きている。それの善悪なんて辿り着いてからじゃないと分からない。
俺が何も言えずにいると、切々とした声でノエルは続けた。
「今後我らは、正しい方角へと進んでいくことができるだろうか」
「……分からん」
素直にそう答えた。
変化を恐れるならば停滞を選ぶことも一つの選択だ。そうすれば少なくとも傷付くことはない。わざわざ真実の口に手を突っ込まずともよいのだから。
お互いに黙り込んだまま、少しの間目の前の喧騒をじっと眺めていた。この光景をずっと忘れないよう、網膜に焼き付けているようでもあった。
「皆、映画の再生準備が整ったぞ」
先ほどからDVDプレイヤーを弄っていた野田くんが、リビングにいる全員に呼びかける。今回の打ち上げは試写会も兼ねているのだ。
北大路と乙原が先んじて映画の見えやすい位置を確保する。先程まで料理を作っていた大名寺もひょっこり顔を覗かせている。野田くんはテレビリモコンを持って、今にも再生ボタンを押そうとしている。
ここからでは良く見えないと、ノエルが壁から背を離してその輪に近付こうとするのを俺は留まらせる。
「……ノエル」
彼女が首を捻った顔だけをこちらに向ける。俺はノエルの隣に立って、肩にポンと手を乗せた。
「これから先、俺たちがどうなるかだなんて分かるはずもないけどさ」
動画の再生が始まり物語の冒頭部分が流れていく。
初っ端から俺の拙い演技が晒されている。反射的に目を逸らしたくなるが、その気持ちを懸命に抑え込みながらも俺は視界から外さなかった。
たとえ無様な演技でも、費やした努力が実らなくとも、俺が積み重ねたものは決して消えないのだから。
俺はさらに一歩前へと踏み出して、
「それでもきっと俺たちは、同じ方向を見つめていられると思う。……だから、間違えたって平気だろ」
孤独な暗闇の中でも、誰かが傍にいれば乗り越えられる。
皆が皆苦労して、道を間違えることもあるかもしれないけれど――――正解に辿り着いたときの喜びを分かち合うことができる。
ノエルは一瞬俺を見上げて、すぐに俺と同じように前を見つめた。視界の端で彼女の口元が緩んだようにも見えた。
「……ああ、その通りだな」
だから今は、しっかりとこの映像を覚えておこう。
これが俺たちの苦悩の末に辿り着いた答えなのだから――――