一章
不気味な空を天井に公園はほの暗さと静けさが彩っていた。
そんな劇場を一人の女優が舞台の中央、主役の待つ噴水の方へとゆっくりと優雅に歩を進めている。
「あら、こんにちは。坊や」
濡れたようなそれでいて全てを飲み込むような黒い髪をたなびかせ、善悪美醜を一人で体現している薄い笑みを湛え、老若男女問わず虜にする母性を抱えた肢体。しかし内包するのは害虫を何百何千寄せ集めて無理やり押し込んだような不気味さ。
薄気味悪い芸術を飾る額縁は血で真っ赤なのか元々そういう色なのか定かではないが、とにかく、合っていた。嫌になるほどに。
「いつぞやの夜は、挨拶もろくにできなかったわね」
その女は、小脇に抱えた大柄の男を意に介した素振りもなく放り棄てて、優雅に腰を折ってみせた。
怪力などという話ではない。元からそのくらいはできてしまう体質なのだ。
サバイバルゲームの参加権を得た今だからこそ鮮明に解る。読み取れてしまう。視界に映る毒婦に宿るイデアの質と量は狂留三佐の比ではなかった。表面上は彼女や、先ほど乱入してきた男と大して変わらない。しかし、色合いや粘度が違うと言えばいいのだろうか。彼らが透明水彩絵具に対してこの女は油絵具。ドロドロとしており、奥が覗けない。塗り重ねることでようやく奥行きを感じるが、彼女のイデアは濁り毒々しく、もはや一つの壁か面のようだ。
イデアは純度が高いほど質が良い訳ではない。内包するモノによって質が変わる。薄い水よりも、濃い油の方が価値がある世界なのだ。
それを感覚で知り、捉えた穂希は疲れなど忘れ、むしろ呼吸すらも忘れて金縛りにあう。
「あら、私の美しさに当てられちゃったのかしら」
魅了ではない呪縛の類だろう。そう口を動かしたいが口角すら上がらず、表情筋もピクリともしない。
「あ、自己紹介がまだだったわ、私は濡羽。君は平座穂希君ね。どうして知っているかは企業秘密よ――因みに住所から親戚一同、交友関係、全部把握しているわ」
一方的。
そう感じざるを得ないが、その美貌や仕草がその感情を中和――いや濁らせる。
だからこそ、自身に眠るイデアを無我が勝手に放流させた。
「だから、なんだ。僕の身辺を知ったところで、どうしたところでなんだ……今貴女を殺せば関係ない話だろう」
「威勢の良い子は好きよ。ただ、同族として言わせてもらうと目覚めたては過信や自惚れで死んで行くものよ」
「そんなのはやってみなきゃ――ガハッ、ゴホッ」
吐血、喀血。
どちらが正解なのだろうか。
思考を割く余裕すらないほどに身体を何かが蝕んできている。地面と空が逆転してしまったかのように転げまわる。
「やってみなきゃ……まずその機会すら与えないわ。〝規格外〟同士、丸腰の相手が特に君の様な美味しく育った家畜を前にしては、ね」
そうだ。そもそもとしてこの空間を形成した者が武器を手にしていないわけがない。もしかしたら、この〝場〟こそが武器なのかもしれない。
「ふざけるな……ぼ、くはこんな所で――」
頭をトンカチで殴りつけられるような鈍痛に関節の節々を炙られるような熱い痛み、体内をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているような吐き気を伴う痛み。その他にも大なり小なりの痛みが全身を支配している。
そんなのはどうだっていい。
ここで死ぬのが嫌なのだ。
「死ね、ないんだ。死、ぬわけ……には」
「ねぇなんで、諦めないの? ねぇ私に食べられる気はないの?」
動くことすらままならなくなり、アスファルトの上で這いつくばる姿は芋虫のようだ。そんなゴミ同然の穂希に、最低最悪な女神が優しく無慈悲な言葉を投げる。
「や、なんだ――よ」
――やっと豪奢な檻から出られた。醜悪な海へと浸かれた。
「ふざ、け、ろ」
――なのに。すぐ飲まれて食われてしまうなんてのは……。
「面白く――とも、なんとも、ない……じゃないか」
自慰を慈しみながら見下げる濡羽が、ひどく極上な笑みを浮かべて一拍。
「それじゃあ、願いを一つ叶えてあげる。例えば、私を抱くなんてどう? 恋人プレイでも、レイプ、逆レイプ、変態プレイ、SM……どんなシチュエーションが好み? その痛みを拭い去って、知覚しないまま、自覚無きままその命の灯火が消えるまで君を包み込んであげるわ」
願い? 押しつけだろう。
快楽に溺れるのもまた一興。長くても数時間。しかし、この特殊な力は一生付き纏ってくれるだろう。そちらの方が何倍も気持ちいいはずだ。
「い、らねぇよ。あんた――みたいな整った、芸術品は」
喋ることすらぎりぎりだというのに穂希の口がその意思を勝手に代弁する。
「もっと――ぐちゃぐちゃの、汚い、ものが……僕は好み、なんだ」
「ハァ~。私、これでも抱いてくださる男の方々に、今まで一番、お前を味わったら他のなんて無理だ、俺のものになれ、最高の奴隷、って言われてきたのよ」
自分を飾ってくれる台詞を、彼女は無感動に無感情に、いやほんの少しの自虐や憤りが垣間見える口調で零した。
「せめて人生で一回くらいは私みたいな女を抱きたいとは思わないの?」
「今は、そんなの……要らない」
「ああ、そういうことね。なら少し変えるわ」
穂希の足元まで来ると彼女が屈みこみ、穂希の顔を中指一本で上げ、面と向かい合う。濡れたような輝きを放つ双眸は、男全てを虜にしてしまう。しかし、〝規格外〟からすれば餌を見つけた肉食獣のそれにしか映らない。
「君を蝕んでいる『ソレ』を克服できたら、何でも言うことを訊いてあげるわ――その方が美味しく食べられそうだもの」
穂希の頬を蛇のように長い真っ赤な舌が弄ってくる。淫靡な仕草がひどく怖く気味が悪い。
だが僥倖。
可能性が見えた。
この肉体に蔓延る毒は倒すことができる。それを知れただけで穂希は力なくそれでも笑ってみせる。
濡羽が噴水の縁に腰を掛け、足を組む。たったそれだけなのに目を奪われる。肉欲を駆り立てるようにできているのだろう。
「さて待ち遠しいわ――後一〇分で落ちると思うと」
ここに来て彼女は内包していた醜悪さを曝け出した。
――残り一〇分――六〇〇秒。
これと同じようなことが金曜日の夜、狂留三佐にも起きていたが、彼女はどういう訳か月曜日には万全の状態で登校していた。
それこそ〝規格外〟としての能力の一端なのだろう。それを自分も起こさないといけない。力の差は歴然。それを埋める何か。
「そうね、いくつかヒントを上げるわ。能力を動かすにはイデア(ガソリン)が要るわね。でもそれだけで
は進まないわ。なら後は何が必要か……運転手とは言わないでね」
後は何か。一手だ。それさえ解れば解けるのだ。穂希には鍵が必要なのだ。
――鍵?
車を動かすには鍵がなければ駄目だ。
しかし〝規格外〟においての鍵とは何だ。
必要なものは解ったが、それの形、中身、情報が欠如している。
――そもそもとして〝規格外〟とは?
傍からは異能力を振るう人外。
成ってしまえば、人から踏み堕ちた獣。
――それらを形成するものは?
――――…………
空白。空欄。
空っぽで真っ白。
「ああ、そういうことか(、、、、、、、)」
地から何かを汲み上げていくと同時に、身体を蝕んでいた痛みが引いていく。
「ッハハハハハ、ハハハハハハハハハ! ……僕の〝矜持〟は渇望、欲望、未知との遭遇。不偏で不変、普遍的な日常を壊すこと――〝平穏という檻を出て、僕は不穏の海に溺れたい〟」
そう願いを口にした瞬間、エンジンは掛かった。高らかに轟音を。賞賛するように。招くように。
イデアが奏でる。ようやくやっと手に入れたのだ。そして平座穂希はプレイヤーとしてゲームボードに立つことを許された。
「ええ、おめでとう――そしてさようなら」
大の字で笑い狂う穂希の顔面に真っ赤なヒールが降ってくる。
「『権限対象』――『 』」
音も響きもない。
しかし確実に、現象として世界に起きた。
踏みつぶされるはずだった相貌は無事であり、中空で濡羽の足が止まっている。まるで凍り付いたかのように。
「あらら。まさか一足飛びでその段階まで登ってきたなんて……」
素直に賞賛の言葉を述べる。だからこその違和感。
相手の手の内も解らないというのに余裕顔。
一部とはいえ身動きを奪っているはずなのに、この魔女は易々と破ってきそうな雰囲気。
即座に立ち上がり、距離を取る。
まるでそうするのを待っていたようで彼女は糸を切る様に易々と穂希の拘束を解いた。
「これは本格的に美味しく頂けそうかしら、フフフフフフ」
「あなたは僕が、あなたの〝毒〟を克服したら言うことを一つ聞いてくれるっていう話じゃなかったかな?」
「そういえばそんなこと言ったかもしれないわね。けれど、坊やに与えた〝毒〟はあれで全部ではないのよ」
「ああ、そういうこと」
即ち。眼前の悪女を斃せ。そういうことらしい。
既に過信と自惚れは捨てた。
だからこそ、答えは決まっていた。
「じゃあここは引かせてもらうよ。恐らく、あなたの能力は真正面から倒すのが正解なんだろうけど、時間をかけすぎると逆に飲まれる、かと言って奇襲もまたあなたの得意分野……決定的な一撃を刹那の間に与えてやっと勝てる……骨が折れる作業だね」
「その口ぶりから察するに、ある程度、私の能力には気づいたのかしら?」
不敵な笑み。気付いたところでどう対応して対処する。過信や自惚れではない実力に見合った自信が彼女には滾っている様子。
実際、その濁ったイデアを見れば一目瞭然。
「ええ、察しは着きましたがここで口にするのは興が冷めるでしょう。次――あなたを倒すときに改めて。では……」
さも存在が元から無かったように、穂希の身体は薄くそして霧のように細かな粒子となって闇へと溶けていった。