EP 7
モンスタークライアントの激怒と、大陸水没の危機
ルナ・シンフォニアの放った『過剰な演出』により、俺たちが死に物狂いで構築したフロントエンド(偽装環境)は、たった一瞬で完全に吹き飛んだ。
豪華絢爛な大理石の宮殿は、ただの木箱とロープで支えられたペラペラの岩の壁へと戻り、無惨に崩れ落ちた。
そして、光のホログラム(光学迷彩ドレス)に包まれていたはずのトップアイドルは——みかん箱の上で、オリーブ色の『芋ジャージ』を着て汗だくになっている、極貧の地下アイドルの姿へとロールバックしていた。
……しん、と。
広場を包み込む沈黙は、システムが完全にフリーズ(クラッシュ)した時の、あの絶望的な静寂そのものだった。
「……娘?」
VIP席で扇子を握りしめたまま、女王リヴァイアサンが震える声で呟いた。
彼女の高貴な青い瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
「これは……何ですの……? 宮殿は……? 数百万のファンは……? そして、貴女の……そのドブ泥のような『ボロ布』は、何ですの……!?」
女王の視線が、崩れたハリボテの裏側に置かれている『泥が入ったバケツ』と『むしり取られたタンポポの残骸』に釘付けになった。
「ま、まさか……先ほどの、大地の風味がする最高級のキャビアとトリュフ……あれは、本当にただの『泥と雑草』だったというのですか……!?」
「あ、あわわわ……お、お母様、違うんですの! これは、その……」
リーザがみかん箱の上で激しく動揺し、芋ジャージの裾を握りしめる。
だが、最強のモンスタークライアントの脳内では、すでに最悪の『要件の再解釈(事実誤認)』が完了してしまっていた。
「……騙したのですね」
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
女王の足元から、尋常ではない魔力の奔流が噴き出し始めた。大気が悲鳴を上げ、村の広場にヒビが入る。
「この下等な人間どもめ! 私の愛しい娘を騙し、こんなドブ泥のような環境に閉じ込め、あまつさえ『泥と雑草』を食わせて虐待していたのですね!!」
「ち、違います女王陛下! これは完全な仕様の誤解で——」
俺が必死に弁明のプロセスを立ち上げようとしたが、女王は扇子をバキィッ!と真っ二つにへし折った。
「黙りなさい、悪徳プロデューサー(詐欺師)!!」
女王の咆哮が、音の暴力となって俺たちを吹き飛ばした。
「よくも……よくも私の誇り高き深海の姫を、みかん箱の上の見世物にし、ボロ布を着せて奴隷のように扱ってくれましたわね! 許しません……絶対に許しませんわ! 貴様ら人間どもなど、この大陸ごと、深海の底へ沈めて差し上げますわぁぁぁっ!!!」
——ブォォォォォォォォォンッ!!
女王の絶叫に呼応するように、村の船着き場に接岸していた三千隻の無敵艦隊から、一斉に耳を劈くような警笛が鳴り響いた。
だが、真の脅威は軍艦の砲撃などではなかった。
「海よ! 我が怒りに応え、この忌まわしき大地を浄化しなさい!!」
女王リヴァイアサンが両手を天に掲げた。
その瞬間、ポポロ村のすぐ横を流れる大河の様子が激変した。海から尋常ではない質量の海水が逆流し、河口が爆発したかのように水柱が立ち上がったのだ。
「なっ……!?」
俺は空を見上げ、完全に言葉を失った。
村の背後に、高さ数百メートルにも及ぶ、黒く濁った『超絶巨大津波』がそびえ立っていたのである。
それは単なる自然現象ではない。女王の絶大な魔力によって形成された、大陸全土を物理的に削り取るための『質量兵器』。ITの概念で言えば、村というサーバーに対する、防ぎようのない超特大の『DDoS攻撃(トラフィックの津波)』だ。
「ひぃぃぃぃぃっ! つ、津波だぁぁっ!!」
「逃げろぉぉぉっ! 死ぬ、村ごと消し飛ぶぞ!!」
洗脳が解けた五千人のエキストラ(特定班と兵士たち)が、パニックを起こして一斉に逃げ惑い始めた。
「あわわわ! カナタさん、どうしましょう! トンファーじゃ水は殴れませんぅ!」
キャルルがウサギ耳を垂らして俺の背中にしがみつく。
「配信機材が……私の全財産が水没しちゃうよぉぉっ!」
キュララが白目を剥き、アマネは「ガチャの神様、今すぐSSRの水陸両用ボートを引かせてくださいぃっ!」と虚空に向かって祈り始めた。
「お、お母様! やめてください! カナタPたちは悪くありませんの! 私が、私が見栄を張って嘘の手紙を書いたせいで……!」
リーザがみかん箱の上から必死に叫ぶが、激怒したモンスタークライアントには、もはやユーザーの声(真実)など1ビットも届いていない。
「可哀想なリーザ! 今、悪しき人間どもを排除して、貴女を救い出してあげますわ! ——沈みなさい!!」
女王が腕を振り下ろす。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!!
数百メートルの巨大津波が、村を、そして逃げ惑う人々を完全に飲み込もうと、雪崩を打って崩れ落ちてきた。
圧倒的な自然(魔力)の暴力。誰もが死を覚悟し、目を閉じた。
だが。
俺は、逃げなかった。
「……炎上案件の責任を負うのが、プロジェクトマネージャーの仕事だ」
俺はスラックスのポケットに手を突っ込み、激痛を訴える胃を庇いながら、一歩、また一歩と、崩れ落ちてくる津波の正面へと歩み出た。
「カナタの兄貴!? 何やってんだ、早く逃げろ! 死ぬぞ!!」
フェイトが叫ぶ。
「カナタさんっ!!」
キャルルが手を伸ばす。
だが、俺は背を向けたまま、右手に握りしめた『銀色の鍵(アパートの鍵)』を、目の前に迫る数百メートルの水の壁に向かって、真っ直ぐに突き出した。
「逃げても無駄だ。あんな規模のバグ(津波)から、物理的に逃げ切れるわけがない。なら……正面からシステムをハッキングして、強制終了させるまでだ!」
俺の眼前に、数千万トンもの海水が迫る。水飛沫が俺の顔を打ち、視界が真っ黒に染まる。
死の恐怖が脳を焼き切ろうとする中、俺はSEとしての極限の演算能力をフル回転させた。
対象は、ただの水ではない。魔力によって『座標』と『運動エネルギー』を与えられた、巨大なデータの塊だ。
ならば、その変数を書き換えることは可能なはずだ。
「システム・オーバーライド!!」
俺は、迫り来る津波の『空間そのもの』に向かって、鍵を突き立てた。
対象が巨大すぎる。俺の保有する魔力の全てを注ぎ込まなければ、確実に押し潰される。
「対象、目前に迫る『海水全域の物理座標データ』および『運動ベクトル』! 管理者権限において、現在の座標値(X、Y、Z軸)を、この瞬間の数値に【完全固定】する!!」
俺は限界を超えた魔力を鍵に流し込み、虚空に向かって鍵を捻った。
——カチャァァァァァァァァァァンッ!!!!!
世界を揺るがすような、巨大な解錠(施錠)音が鳴り響いた。
その瞬間。
俺の頭上わずか数メートルの位置まで迫り、今まさに村を飲み込もうとしていた数百メートルの巨大津波が。
ピタリ、と。
まるで、再生中の動画の一時停止ボタンを押されたかのように、完全に空中で静止したのだ。
「……え?」
逃げ惑っていた群衆が、足を止める。
「な……?」
激怒していた女王リヴァイアサンが、扇子を落とす。
「ぜぇっ……はぁっ……!」
俺は鍵を突き出した姿勢のまま、全身から滝のような汗を流し、肩で息をしていた。
空中にせり出した巨大な水の壁。その水面には白波が立ち、水飛沫すらも空中で静止している。重力という絶対の法則すらも無視し、何千万トンという水が、俺の『鍵』のシステムロックによって物理的に空間に縫い付けられていた。
「物理法則(自然災害)だろうが……デッドライン(納期)を守るためなら、ハッキングしてやる……」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、静止した津波の向こう側に立つ女王を、鋭く睨みつけた。
「これが、人間界のプロデューサー(俺)のやり方だ、モンスタークライアント。……これ以上の理不尽な仕様変更は、俺のシステム(村)には通さないぞ!」
静止した絶望の壁を背に立つ、ただ一人の社畜(PM)。
物理法則の強制フリーズという前代未聞のハッキングを前に、ついに女王リヴァイアサンの絶対的な権力に、僅かな『綻び(エラー)』が生じた瞬間だった。
だが、俺の魔力が尽きれば、このロックは解除され、津波は再び村を飲み込む。
残された時間は、わずか。
この膠着状態の中で、クライアントの要件定義(価値観)を根本から覆さなければ、俺たちに明日というリリース日(日常)は訪れないのだ。
読んでいただきありがとうございます。
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