第一章 異世界の社畜鍵使い
月曜日の社畜、異世界で「鍵」を握る
「カタッ、ターン。よし、これでサーバー保守の全工程が完了、だ……」
「ピーーーーーーーーーー」
目を開けると、ピンクの芋ジャージを着てみたらし団子を頬張る女が、俺を見下ろしていた。
「もぐ、ごっくん。あ、起きた? お疲れ様! 君、一週間連続ワンオペ徹夜の末に心不全で過労死しちゃったよ!」
ここはどこだ。俺は高木夏那太、25歳のしがない社畜SEだ。
たしかに、エナジードリンクとカフェイン錠剤を胃に流し込みながら、クラッシュしたサーバーの復旧作業を丸七日間、一睡もせずに続けていた記憶はある。無事にシステムを再起動させ、最後のエンターキーを力強く叩いた瞬間——心臓が、文字通り爆発するような激痛に襲われて意識が飛んだ。
「過労死、ね……。まあ、あの地獄のデスマーチから解放されるなら、死んだ方がマシだと思っていたところだ」
俺は冷静に状況を受け入れ、周囲を見渡した。どこまでも続く真っ白な空間。
そして目の前には、胸元に初心者マークの刺繍をつけた芋ジャージ姿で、足元には健康サンダルを突っかけた、どう見てもドン・キホーテの深夜帯に生息していそうな女がいる。
彼女は片手に握った分厚いハードケース付きのスマートフォン——背面には羽のマークが描かれている——の画面を、親指で必死にスワイプしていた。
「あーもう、最悪! エンジェルすまーとふぉんのクレジット限度額、もう90万超えてるじゃん! ルチアナ先輩のソシャゲ課金に付き合ったせいだ……。今月あと6万8千円払えなかったら、天界の黒服にスーツケースに詰められてマグローザ漁船にドナドナされちゃう!」
「……あの、すいません。天界の懐事情は知りませんが、俺はどうなるんでしょうか」
「あ、ごめんごめん! 私は見習い女神のリリス! というわけで、ゴッドチューブのPV稼ぎ……じゃなくて、異世界アナスタシアの救済のために君を転生させてあげるね! あ、これ転生特典のユニークスキル!」
リリスはスマホから目を離さずに、俺の額へペチッと適当な札を貼り付けた。
途端に、俺の脳内へ直接システムメッセージのような文字が浮かび上がる。
【ユニークスキル:鍵使い】
「……なんだこれ」
「名前の通りだよ! どんな物理的な鍵穴でも、カチャッと一瞬で開けられるの! 便利でしょ?」
えっへんと胸を張るリリス。俺は思わず頭を抱えた。
「ちょっと待て。ただのピッキング泥棒のスキルじゃねえか! 普通、こういうのは聖剣の才能とか、国を滅ぼす大魔法とかあるだろ! 俺はSEであって空き巣じゃないんだぞ!」
「あーもう、文句言わないの! 私の今月の予算はカツカツで、そんな高価なスキルを発行する枠なんて残ってないんだから! 文句があるなら上の神様に言って! じゃあね、異世界でも元気に頑張って生きてねー!」
抗議する間もなく、俺の足元にポッカリと黒い穴が開く。
「ちょ、まっ——!」
俺の叫びは、虚空へと吸い込まれていった。
◆
「痛っ……」
ドサリと尻餅をついた先は、うっそうと茂る森の中だった。
土と緑の匂い。すぐそばを、透き通った綺麗な川が流れている。どうやら本当に異世界に放り出されたらしい。服装はワイシャツにスラックスと、死んだ時のままだ。
「ステータス……いや、あの女神の言っていたことが本当なら、俺の武器はこれだけか」
俺はスラックスのポケットを探った。
出てきたのは、電池の切れたスマホと、薄い財布。そして、俺が住んでいたボロアパートの、安っぽい銀色の『鍵』。
「異世界に来てまで、俺が握れるのは1Kのアパートの鍵だけかよ……」
ため息をついた、その時だった。
ザバァアアアアンッ!!
「うおっ!?」
川面が文字通り爆発したように弾け、巨大な影が飛び出してきた。
全長は2メートルを優に超えている。鯛のような丸っこい体型だが、その口にはピラニアもかくやという、ノコギリのように鋭い牙がびっしりと並んでいた。
「ギシャアアアアッ!」
魚型魔獣『ピラダイ』。
そいつは空中で身をよじると、俺のすぐ横にあったドラム缶ほどの巨大な岩に激突した。
ゴッッ、バキィイン!!
信じられない音が響いた。ピラダイが、ただの一噛みで、硬い岩盤をクラッカーのように粉砕してのけたのだ。
「冗談だろ……」
背筋が凍りついた。
地球の常識が通用しない化け物。あんな顎で噛みつかれれば、人間の柔らかい肉体など一瞬で真っ二つにされる。俺の身体能力は、激務ですり減ったただの一般人だ。逃げることすら不可能。
岩を砕いたピラダイが、ギョロリとした血走った瞳をこちらに向けた。
水しぶきを上げながら、再び強靭な尾ビレで地面を蹴り、俺の喉笛目掛けて一直線に飛びかかってくる。
死ぬ。転生してわずか5分で、また俺の人生は終わるのか。
——いや、待て。
極限の恐怖とアドレナリンの中で、俺のSEとしての脳細胞が恐るべき速度で回転し始めた。
周囲の景色が、スローモーションのようにゆっくりと流れていく。
俺に与えられたスキルはなんだ?
『どんな鍵でも開けられる』。
それは単にドアノブを回すということじゃない。俺たちSEの観点から言えば、対象の構造を理解し、アクセス権限を奪って『ロックを解除する』ということだ。
ならば、生物という名のシステムにも、それを動かすための『鍵』が必ずある。
脳からの電気信号。神経伝達物質。そして、筋肉を収縮させるための細胞の扉——ナトリウムチャネル。
それが生体活動の『鍵』だ。
問題は、俺のスキルが『直接触れないと発動しない』こと。そして、俺の手に握られているのが、概念的なマスターキーなどではなく、ただの物理的な『アパートの鍵』であることだ。
俺の推論が間違っていれば、あるいはこの安っぽい鍵がシステムのハッキング媒体として認識されなければ、次の瞬間、俺の上半身はあのノコギリ状の牙に噛み砕かれて吹き飛ぶ。
命を賭けた、一発勝負のギャンブル。
「やってやるよ……!」
俺は逃げなかった。いや、逃げる代わりに、迫り来るピラダイの軌道へ向かって、自ら半歩だけ踏み込んだ。
生臭い突風が顔を叩く。巨大な顎が、俺の頭蓋骨を砕こうと開かれる。
俺はその死角——エラの内側、装甲のないむき出しの粘膜に向かって、握りしめた『アパートの鍵』を渾身の力で突き立てた。
プツリと、鍵の先端が柔らかな肉に触れる。
「システム・オーバーライド。対象、生体ナトリウムチャネル——」
俺の声は、まるで深夜のオフィスでターミナルにコマンドを打ち込んでいる時のように、冷たく澄んでいた。
「——『ロック解除』」
カチャリ、と。
脳内で、ありえない金属音が鳴り響いた。
その瞬間。
細胞の扉を強制的にこじ開けられ、全身の電気信号を暴走させられたピラダイの巨体が、空中でビクンッと不自然に反り返った。
「ご、ごボボボっ!?」
断末魔にもならない奇声を上げ、ピラダイの巨体が内側から破裂した。
ドパーンッ!! という間抜けな破裂音と共に、血や内臓の代わりに、信じられないほど上質な『綺麗な白身魚の切り身』がバラバラと俺の周囲に降り注ぐ。
「……まじかよ、本当に効きやがった」
生魚の切り身を頭からかぶりながら、俺は自分の手にある銀色のアパートの鍵を見つめた。
魔法も使わず、剣も振るわず、ただ『開けた』だけ。
俺は全身の震えを抑えながら、確信した。使い方さえ間違えなければ、これは生態系そのものを破壊できるとんでもない凶悪スキルだ。
だが、ハズレチートの無双に浸れたのも束の間だった。
「——おい、今のヤバい爆発音はなんだ!?」
「急いでくださいフェイトさん! 村の近くに魔物が!」
俺の背後の茂みがガサガサと大きく揺れ、美しい杖を持った小柄な美少女と、全身を立派なミスリル鎧で固めた重武装の剣士が飛び出してきた。
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