12:今、夜明け前の世界で
「……ノア?」
突如響いた呼び声を聞き、海辺を見ていた模造骸骨が振り向く。
突然のことで状況が呑み込めなかったのか、一心不乱に駆け下りるノアの姿を認めた彼は「そんなに急ぐと落ちちゃうよ」と窘めながらノアのもとへ向かった。
「エル……!」
「わ、っ!」
やや急な階段を踏み外すことなく下りたノアは、カンテラを投げ置くとそのままの勢いでエルトゥスに抱き付いた。
もしエルトゥスが人間であれば、比較的小柄で体重の軽いノアを問題なく受け止めきれたのだろう。しかしエルトゥスは骨身で、魔力で創られた体も人骨程度の重さしかない。勢い良く抱き付いたノアを簡単には受け止めきれず、地面に倒れ込まないよう踏ん張るのが精一杯だった。
「ノア――」
危ないよ、とエルトゥスは注意を促そうとした。だが、自分に抱き付いたままのノアを見たことで、言葉は「どうしたの?」に変わる。
「エルが……いなくなったと、思って……」
「……僕はいなくならないよ」
涙声で答えたノアの髪を優しく梳きながら、エルトゥスは囁く。
「心配かけてごめん。ノアが起きる前に戻るつもりだったんだけど、書き置きすればよかったね」
「違うよ。ボクが勝手なこと、言ったから……」
ノアの力になりたいと申し出たエルトゥスを拒み、どういう気持ちで提案したのか知った直後も「何故理解してくれないのか」と思うばかりで。
「言わなきゃ何も伝わらないのに、どうして怒ったか説明もしないで部屋に籠もったから……きっとボクのこと嫌いになったんだって、思って……」
だからいなくなったのだと――「もう傍にはいられない」と判断されたのだと、そう思った。
「エル、ごめん。ごめんね……っ」
「……うん」
エメラルドグリーンの瞳を涙で潤ませながら、心からの謝罪を口にする。
そんなノアの背を、エルトゥスはそっと撫でた。
体温を持ち得ず、手袋を着けていても厚みに欠けるその手は、人間のそれとは違っているものの、震える体を撫でる仕草はどこまでも優しい。
そうして撫でられているうちに涙も止まり、落ち着いたノアはエルトゥスから体を離した。――こうやって慰めてもらうのは、これで二度目だ。
寄せては返す波の音が静かに響く中、投げ置いたカンテラを拾ったノアはここに来るまでの経緯を説明し、ハヅキが待っていると伝えた上で話をさせてほしいと申し出た。
エルトゥスもそれに応じ、かつて夜明けを見たときと同じように二人並んで防護柵の前に立つ。
「――父さんや兄さんの声を聴きたくないって言ったら嘘になる」
カンテラを腕に抱え、黒い海を眺めながら、ノアはぽつりと呟いた。
「でも、ボクはエルを二人の代わりにしたいわけじゃないんだ。ボクにとってエルは新しい家族で、友達で、特別な模造骸骨で……。言い表すのは難しい関係だけど、エルの代わりは誰もいないんだって分かってほしい」
「うん。……ありがとう、ノア」
ノアの言葉を聞き、エルトゥスは微笑んだ。
自分の気持ちをきちんと伝えられたノアも同じく微笑み、説明を続ける。
「その上で、ボクは誰かに声を届ける仕事がしたいと思ったんだ。エルの能力を使えばきっと誰かの役に立てるから。……人付き合いが好きじゃないのに『誰かの役に立ちたい』なんて意外でしょ」
「そんなことないよ」
「本当?」
即答したエルトゥスに疑うような視線を向けたノアは「エルとハヅキ以外の人は多分信じてくれないよ」と笑った。それから海の彼方に視線を戻し、昔を懐かしむように目を細める。
「……ボクの父さんはね、ボクが小さかった頃から『誰かの役に立つことをしなさい』って言ってた。それが自分の幸せに繋がるって信じてたんだ。――父さんが言いたいこと、分かる?」
「えっと……誰かの役に立てたと思えたら、自分も幸せな気持ちになれるってこと?」
「大体合ってる。……ちゃんと分かっててすごいね。ボクは最近まで分からなかったのに」
誰かの役に立つことが何故自分の幸せに繋がるのか、ノアには分からなかった。フェンネルは、周囲から浮きがちだったノアに「社会貢献を通じて〝周囲とは違う自分〟を肯定してほしい」と考えていたのだが、他人との交流を拒絶していたノアには理解できない概念だったのだ。
「父さんは社会貢献を実現してた。貿易業で稼いだ分の一部を各地の孤児院に寄付したり、兄さんと一緒に海洋ごみを掃除したり……。『誰かの役に立ちたい』って本心から考えて行動してたんだ」
「立派な方だったんだね」
「うん。当時のボクはただ眺めてるだけだったけど、それでもすごいと思ってたんだよ。……だけど兄さん共々事故に巻き込まれて、社会不適合な息子を残して死んじゃってさ。誰かの役に立ったって結局は何の意味もないんだって思った」
フェンネル・アングレカは素晴らしい人物だったかもしれないし、フェンネルのおかげで救われた人だって少なからずいたかもしれない。
だが、素晴らしい人物だからといって『死』は遠慮も躊躇もしない。「特別に長生きさせてやろう」などとは決して思わない。
結果として、ノアは一人、この世界に残された。アングレカ家の中で一番社会貢献していない、誰の役にも立てていないノア・アングレカが。
「でも、最近こう思えるようになったんだ。――父さんだからこそ繋げたものがたくさんあるんじゃないかって」
黙って話を聞いているエルトゥスに、ノアは微笑む。
「優秀な部下に恵まれて会社が残ったのも、社会不適合な息子が田舎でやっていけてるのも――こうやってエルに出会えたのも、父さんが誰かの役に立ちたいと思って行動し続けたから。全部、父さんが繋いでくれたんだ」
もしもフェンネルが自分の利益しか鑑みない人間であれば、ノアは今頃苦境に立たされていただろう。エルトゥスと出会えなかったばかりか「誰かの役に立ちたい」と一度も考えることなく生涯を終えたに違いない。
そういう意味でも、フェンネルは十分社会に貢献したのだ。
「だからね。ボクも、誰かのために何かしてみようかなって……そう思えるようになったんだ」
「……そっか」
「うん」
ノアは頷き、浮かべていた笑みに苦笑を混じらせる。
「まあ、ボクには父さんと同じやり方はできないけど」
フェンネルは心優しく立派な人物だった。
だが、ノアは違う。心優しいかどうかはともかく立派ではないし、人付き合いは壊滅的。フェンネルと同じやり方で社会貢献を行うことは事実上不可能だ。
けれど。
「ボクたちだからこそできるやり方も、きっとあると思うんだ」
エルトゥス・アサラとノア・アングレカの二人だからこそできる社会貢献。
それが『誰かに声を届ける仕事』だ。
家族、恋人、恩人――。
この世界には「失ってしまった大切な誰か」の声を必要としている人が大勢いるはずで、その想いに応えられるのは、現状エルトゥスだけなのだ。ボランティア活動ではなくても十分社会貢献と言えるだろう。
「ただ……」
「ただ?」
「事業として継続できるか分からないんだ。他とは違う仕事だからね」
誰かに声を届ける仕事――発話代行サービスとでも呼ぶべき仕事は極めて特殊だ。模倣した声をストックできない以上、複数の依頼を同時に引き受けることはできないし、そもそも「誰かの声を模倣する」ことが困難で、エルトゥスの負担はかなり大きくなってしまうだろう。始めることは簡単でも、継続することは決して容易ではない。
「ボクに手伝えることは限られてるし、きっと大変な思いをすると思う。その上でエルに訊くよ」
――それでも、ボクと一緒に声を届けてくれる?
落ち着き払った声が問う。
カンテラに照らされた顔は年相応に幼いのに、エメラルドグリーンの瞳は力強く輝いている。
そんなノアを、エルトゥスは見つめ――やがて、ふっと首を傾げた。
「断る理由なんてどこにもないよ。『Lを目覚めさせてくれたノアに恩返ししたいから』じゃなくて、僕が――エルトゥス・アサラがそうしたいって思うから、引き受けるんだ」
「……そっか」
微笑むエルトゥスに相槌を打ち、ノアは水平線の彼方を眺める。
眼前に広がるのは、呑み込まれてしまいそうな闇を抱いた空と海。
けれど、ノアは知っている。
黒一色に塗り潰された世界にも、いつか夜明けが訪れることを。




