11:思い出の場所
寝静まった町はずれに車の走行音が響く。
アングレカ邸のドアチャイムが鳴ったのは、通話を終えて四十分後のことだった。
「ハヅキ?」
「はい、坊ちゃん」
緊張した面持ちで玄関に向かったノアが呼びかけると、ハヅキの声が聞こえた。
エルトゥスは見つかったのだろうか。
恐る恐るドアを開け、外の様子を窺う。
玄関先には、ハヅキしか立っていなかった。
「……いなかったの?」
「駅付近をくまなく確認してまいりましたが……彼の姿は確認できませんでした」
「そんな……」
全身から血の気が引くのを感じた。ミルクティーで温まった手先が急激に冷えていく。
「失礼」
ドアを閉め、玄関内に入ったハヅキが尋ねる。
「フラッタ駅以外でエルの行き先に心当たりはありませんか?」
しかし、心当たりなどない。まだ存在が公表されていないエルトゥスは自由に外出できなかったのだから――。
「……あっ」
「どこか思い当たる場所が?」
「海……」
エルトゥスが目覚めた翌朝、ノアが連れて行ったあの場所。
初めて外に出た模造骸骨が「世界で一番綺麗な光景」と形容し、思い出を残すため名字を付けてほしいと願った海辺。
もしもフラッタ駅に行っていないのだとしたら、エルトゥスが向かう先は、あの場所しかない。
「ハヅキに連絡した日の朝、二人で海に行ったんだ。夜明けの瞬間を見せたくて……」
「なるほど。……どうにも外出の手筈が整いすぎていると思いました」
本当に坊ちゃんらしくないことをする。
ハヅキはやれやれと言いたげな視線をノアに向けた。だが、説教するつもりはないようで、ノアにコートを着るよう促した。
「確認しに行きましょう。助手席で道案内をしてください」
「でも……もし、いなかったら……」
もしも思い出の場所にいなければ、エルトゥスはきっと。
確認しに行きたいのに、最悪の事態を想定すると、どうしても臆病になってしまう。
「……はあ」
ため息を吐いたハヅキは、ノアの頭上に手を翳すと――年齢の割に小さな頭を無造作に撫で回した。
「ちょっと! 何――」
「そのときはそのときです」
抗議しかけたノアに、ハヅキはきっぱりと断言する。
「最悪の事態を想定することは大切ですが、エルがいるかどうかは行かなければ分からないのです。行動する前に悩んでも仕方ありませんよ」
ハヅキらしい正論だ。
またしても返す言葉がなくなったノアは無言で頷き、乱れた髪を整えた。――どんな状況でも、ハヅキには敵わない。
ハヅキの勧めでやや厚手のコートを着込み、灯りを点けたカンテラを手に家を出る。
夜明け前の外気は、想像以上に冷え込んでいた。まだ秋口ではあるが、じきに冬が来るのだろう。ノアがどのように過ごそうと、季節は留まることなく巡っていく。
車に乗り込んだノアは、ハヅキの運転のもと、寝静まったミシサジ地区を進んだ。歩くと二十分を要する距離も、車で向かえば五分とかからない。
舗装された道へと向かう道中、ノアもハヅキも黙っていた。土の道を踏みしめて走る車の走行音だけが、小さな空間に満ちた沈黙を破っている。
そうして辿り着いた道の直前、停車したハヅキが尋ねた。
「歩道の階段を下った場所にエルがいるかもしれないのですね?」
「うん……」
「分かりました。――では、私はここでお待ちしております。坊ちゃんは確認を」
「えっ」
ハヅキの言葉に、思わず間の抜けた声が出る。てっきり一緒に確認してくれるものだと思っていたのだ。
「……一緒に来てくれない?」
「私が同席していては落ち着いて話し合えないでしょう」
カンテラの灯りに照らされる中、苦笑を浮かべたハヅキは宥めるような声で断りを入れた。
「坊ちゃん。この先、私や時間のことは気にせず過ごしてください。私は坊ちゃんに近付く者の影がないかここで見張っていますから」
「……分かった」
できることなら同行してもらいたいが、これもハヅキなりの思いやりなのだろう。――もしエルトゥスがいなかった場合でも、ノアには気持ちの整理をつける時間が必要だと。
覚悟を決めたノアは車を降り、舗装された道へと向かった。
カンテラでは照らし切れない夜の闇が――一人で行動することがこんなにも心細く感じるのは、いつぶりだろう。夜明け前の冷えた空気が自分の周りにだけ纏わり付いているかのようだ。
(どうか、どうかエルがいますように)
神に祈るわけではなく、かといってどのような存在に祈っているかも分からないまま、ノアは歩いた。
そうして一分が過ぎ、階段下の空間が視界に入る。
直階段で二メートル下った先、レンガ調の舗装がなされた半円形の空間。
木製の防護柵で陸と海が区切られた境に、空と同じ色の布を全身に纏った人物が立っていた。
身長よりもやや低い柵に左腕を乗せ、右腕で何かを抱えた彼は、身動き一つしないで水平線の向こうを眺めている。
「……エ、ル……」
思い出の場所に立つ彼が間違いなくエルトゥス・アサラであると認識した途端、頬が、手が、全身が熱を帯びていく。
抱いた様々な感情は一瞬のうちに混ざり合い、衝動という形でノアの足を動かした。
「――エル!」
静かな空間には不釣り合いな大声で彼を呼びながら、灰色の階段を駆け下りる。
耳の奥で鳴り響く鼓動の音がうるさくて堪らない。手に持ったカンテラも、少し重いコートも、今のノアには投げ出したいほど邪魔だった。




