4:「エル」として
鉄製フライパンの中、白く細長い食材が具材に交じって踊っている。
食欲をそそる匂いが充満したキッチンの一画で、ノアは調理を楽しんでいた。火を止める直前、鍋肌から具材全体へと渦を描くように加えられた醤油の香りがふわりと漂い、鼻孔をくすぐる。
「これで醤油炒飯の完成だよ。いい匂いでしょ」
パラパラに炒めた炒飯を皿に盛り付けながら、隣で見学しているエルに声をかける。
皿を受け取ったエルは「これはどういう匂いなの?」と尋ねた。
「『醤油が香ばしい』でいいんじゃないかな」
「しょうゆが、こうばしい……香ばしい……」
なるほど、とエルは頷く。一つ知識が増えた彼の表情はどこか満足げだ。
ノアがエルの前で大泣きしてから約八時間。
泣き疲れて寝てしまったノアが目を覚ますと、窓の外は真っ暗になっていた。日付は既に変わっていて、静けさだけが辺りを包んでいる。
エルは、ノアが起きるのを行儀良く待っていた。その間に発声練習をしていたらしく、不明瞭だった彼の言葉はかなり聞き取りやすくなっている。
かつてのエルが魔人と日常的に会話していただろうことを踏まえると不思議ではない上達速度だが、寝起きに「おはよう」と言われたときは流石に驚いた。
(それにしても、泣き疲れて寝ちゃうなんてね)
二人の葬儀でさえあんなふうに泣かなかったのに、事情も知らない模造骸骨の前で号泣するなんて。そう思うと頬が熱くなる。
ただ、泣いたおかげで心身共にすっきりしたのは確かで、だからこそノアは炒飯を作っているのだ。
この三か月間、空腹感はあっても「おいしいものを食べたい」と感じることはほとんどなく、生きていくために仕方なく食事をしている状態が続いていた。
しかし、今のノアは「おいしいものを食べたい」と自発的に考えた上で自炊し、食事しようとしている。
おいしいものをおいしく食べられるのは、抱えていたものを吐き出して余裕が生まれたからに他ならない。
「それにしても、何も食べられないのは残念だよね」
キッチンからリビングへと移動しながら、ノアは言う。
「せっかく長い眠りから覚めたのに」
「うん。でも、匂いは分かるからいいんだ」
二人掛けソファーの左側に腰かけたエルが答える。
当然と言えば当然だが、模造骸骨であるエルは食事ができない。味を感じる舌はおろか消化器官すら持っていないのだから仕方ないことだろう。
しかし、嗅覚はそれなりに発達しているようで、炒飯を作っている間「おいしそう」だと言っていた。味覚を持っていなくとも食の感覚はヒトと似通っているようだ。
(エルにも食べさせてあげたいのにな)
もし食事ができれば、エルはきっと目を輝かせて――目はないが――炒飯を食べただろう。そして「おいしい!」と声で喜びを表したに違いない。
そう思うと残念でならなかったが、無い物ねだりをしても仕方がない。できないことに目を向けるより、できることを積極的に探していくべきだ。
「おいしい?」
「うん。おいしくできてる」
ノアは頷く。
イネが特産品の一つであるフラッタでは古くから米料理が好まれており、東の国由来だという炒飯もよく作られているのだ。料理上手なイオに教わって何度も作った炒飯の味には自信がある。
「そういえば、エルはいつ生まれた模造骸骨なの?」
醤油をたっぷりかけたレタスと玉子の炒飯を頬張りながら尋ねる。魔人と共に滅んでしまった模造骸骨には未だ謎が多いから、エルの出自に興味があったのだ。
しかし、エルは「分からない」と答えた。「覚えていない」とも。
「覚えてない?」
「自分が模造骸骨だってことは分かってるんだけど……昔のこと、覚えてないんだ。気が付いたらノアが目の前にいたから……」
「ふーん……」
表情は分からないが、エルに嘘を吐いている様子はない。
人間や物に対する知識は一通りあるようだから、当時の記憶がない理由として考えられるのは二つ。――創られてから一度も稼働せず眠りについていたか、事情があって当時の記憶を消されているか。
「まあ、覚えてないんじゃ仕方ないよね。思い出はこれから作ればいいんだし」
「そう、かな」
「そうだよ」
「……そっか」
エルは安心したように頷いた。
どうやらエルは自分が人間でないことや記憶を持っていないことに引け目を感じているようだから、ノアが積極的に肯定しなければいけないだろう。自信がないと卑屈になってしまうのは人間も模造骸骨も変わらない、はずだ。
「ああ、おいしかった。お茶淹れてくる」
濃い目の味付けにしたせいで喉が渇いてしまった。皿いっぱいの炒飯を平らげたノアはキッチンに向かった。
小鍋で湯を沸かし、茶こしがセットになった小さなティーポット――舶来品の「急須」にくすんだ黄緑色の茶葉を入れる。炒飯のような料理のあとには発酵度合いの少ない茶葉のほうがおいしく感じられるのだ。
「エル、これ持って」
「え?」
何故かカップを二つ持って戻ってきたノアは、そのうちの一つをエルに手渡した。カップの中には茶が半分程度注がれ、湯気と共に香りを立ち上らせている。
「エルのお茶だよ。飲めなくても香りは楽しめるでしょ?」
香りを楽しんだあとはボクが飲むから無駄にはならないよ、と続けたノアのカップには茶が半分注がれている。一人前を分け合ったのだ。
「……ありがとう」
エルは下顎骨を少し下げ、首を僅かに傾げて礼を言う。
模造骸骨であるエルは表情を持たない。ただ、もし表情があればきっと微笑んでいるのだろうと、そう感じた。
「ねえ、ノア。訊いてもいい?」
「何?」
「その……ノアのご家族って……」
エルの感情が読み取れるようになってきた、と内心喜んでいたノアにエルが尋ねる。ノアを悲しませるかもしれない質問だと思ったのか、いつになく遠慮がちだ。
「……母さんはボクが小さいときに病気で、父さんと兄さんは三か月前に事故に遭って亡くなったよ」
温かな茶を一口飲んで答える。視線の先にあるのは正面のキャビネット。
ガラス扉付き木製キャビネットの上、ちょうどエルの目線の高さに飾られたコルクボードには家族写真が四枚飾られている。撮影時期や場所はすべて異なっているものの、ノアはいずれも明るい笑みを浮かべていた。
「そっか……そうなのかなって思ってた。すごく立派な家なのに、他には誰もいないみたいだったし……」
「まあ、三人で暮らしてたときでも広かったけどね。……でも、家が大きいっていいことだよ。物がたくさん置けるから」
そう言ってノアは微笑む。
「本って結構嵩張るんだよ。そこのキャビネットに入ってるのはほんの一部」
「……ノアは読書が好きなの?」
「まあね」
「知識が増えるから?」
「それもあるけど、別の世界を見たいからかな。読んでるときは半分別世界の住人なんだ」
読書の楽しみ方は人それぞれ違う。ノアの場合、知識量を増やすためだけでなく別世界へ旅行するために読書していた。
本を読めば、見ず知らずの国だけでなく過去や未来にだって行ける。美しく紡がれた言葉の力を借りて、そこにないものを自らの頭の中に創り上げることができる。
たとえ知識が増えなくとも別の世界に旅立つことができるのなら、まったく無名の本であっても読む価値があると思えた。
「そっかあ。……読めるか分からないけど、僕も読んでいいかな?」
「もちろんだよ。読書仲間が増えるのは嬉しいから」
エルの申し出にノアは明るい笑顔を見せて応じた。
もしエルが本を読むようになり、ノアのように読書を好むようになれば、内容だけでなく筆者の文体や描写についても語れるようになるかもしれない。もちろんエルが読書を好んだところで語り合いを無理強いするつもりはないが、現状話し相手がいないだけに期待が高まってしまう。
「エルはボクと同じ言語を喋ってるけど、もしこの国の文字が読めなかったら、執務室に海外の本が――……あっ」
「何?」
「今さらだけど、『エル』って呼んでよかった?」
「エル」というのはフェンネルが付けた仮名だ。本来ならエルが喋れるようになった時点で正式な名前を訊くべきだったのに、泣き疲れて寝たせいですっかり忘れていた。
「昔の記憶はないかもしれないけど……別の名前がよかったらそっちで呼ぶよ」
「うーん……このままで大丈夫。『エル』って良い響きだから」
「そう?」
当人に不満がないならわざわざ変える必要もないだろう。
そうは思うのだが、もう少し名前に捻りを加えたいという気持ちもあった。現代で唯一の模造骸骨として、何か特徴があったほうがいいのではないかと思ったのだ。
「……ねえ。愛称で『エル』って呼べる名前を考えてもいい? 気に入らなかったら採用しなくてもいいから」
「いいけど……どんな名前?」
「うーん……骸骨だから、一部を取って『エレトス』とか? ……なんか違うなあ」
どうにもしっくりこない。
候補を考え始めたノアは首を傾げながら呟く。
「『エルトス』……響きが硬すぎるかな。どうせならエルの雰囲気に合わせて柔らかくしたいし……トス、トース……トゥス……――エルトゥス」
より良い雰囲気にしようとぶつぶつ呟いていたノアは最終的に「エルトゥス」と呟き、何度かその名前を口にした。
「エルトゥスか……『骸骨』の語源になった国だと名前の最後が『トゥス』で終わる男の人も多いって話だっけ。模造骸骨のエルトゥス……うん、悪くない」
頷いたノアは満足げな笑みを浮かべてエルを見た。
「『エルトゥス』はどう? ちょっとかっこいい響きが出たと思うんだけど」
「エルトゥスかあ……」
名前の候補を口にして、エルは考えを巡らせた。喋るのをやめ、動きを止めた彼の姿は精巧な模型にしか見えない。
「……うん、気に入ったよ。僕にはちょっと格好良すぎる気もするけど、すごくいい名前だね」
「本当? ……無理してない?」
「うん。僕はこれから『エルトゥス』を名乗るよ」
骸骨の面に微笑みを浮かべたエル――エルトゥスは、「改めてよろしくね」と穏やかな声で挨拶した。少し首を傾げ、ノアをまっすぐ見つめるエルトゥスの姿は、思わず息を呑むほど美しい。
「ノア?」
「……うん、よろしく」
すごいものを見てしまった。どこか恐れに近い感情を心の中に押し留めながら、ノアは笑顔で答えた。
模造骸骨のエルトゥスは人間のように特定の容姿を持っておらず、表情と呼べるものもない。
恐らく、エルトゥス本人はそれを欠点だと感じているだろう。「自分に人間のような魅力はない」と。
だが、実際は違っているとノアは感じた。
――精巧に作られた骨身だけでなく、内面も優れていると知ったとき。もしくは、表情以上に心を表す声の穏やかな響きを耳にしたとき。
エルトゥスが「がいこつ」であるからこそ体現できる魅力に、一部の人間はきっと気付いてしまう。
(「傾国の美人」って表現、もしかしてエルにも適用できたりする?)
ふとそんなことを考えたのは、作りの精巧さこそ認めていても外見にまったく興味を抱いていなかったノアですら「がいこつにしかない美しさ」を見いだしてしまったからだろう。
「……すっかり遅くなっちゃったね」
もしかしたら自分は恐ろしい存在を見つけたのかもしれない。そう思いながら、ノアは呟いた。時刻は既に午前二時を回っていて、普段ならとっくに眠っている時間だ。
「エルは寝ないの?」
「多分……。分からないけど、今は眠くないと思うから。ノアは?」
「さっき爆睡したから眠くない。今日は土曜で授業もないし、朝まで起きていようかな」
眠くもないのに欠伸をしながら答える。
ノアは飛び級の学生としてンノー大学に籍を置いているが、毎日通っているわけではない。必要な単位の大半は、大学二年の時点で既に取得しているからだ。
ただ、読書が趣味のノアは大学に併設された巨大図書館を利用することが多いため、目的の授業がない日に通うこともある。
眠くなるまで何をして時間を潰すべきか。一人なら読書一択だが、今はエルトゥスがいるのだ。いつもと違った過ごし方をしてみるのも悪くない――。
そこまで考えて、ノアは「いや」と呟いた。
エルトゥスはこの家のことを知らないから、まずは家の中を案内しなければならないし、今後エルトゥスが過ごすための部屋も準備しなければならない。
服は明日買いに行くとしても、袖や裾に過不足が出ないよう予め採寸しておいたほうがいいだろう。それに、海外の文化を取り入れたアングレカ家自慢の風呂に入れるかどうかの確認も必要だ。
「……そうだ」
「何?」
やることリストはすぐに埋まりそうだが、どうせ夜が明けるまで起きているのなら、朝方にしかできないこともリストに加えておくべきだろう。
そう考えたノアは、悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「――ねえ、あとで外に出てみない?」




