3:普通の人間
「…………」
「……ごめん、別のタイプのズボンにすればよかったね」
ズボンを穿くことができないままノアを見つめたエルに、ノアが謝罪する。
エルはちゃんとズボンを穿いた。しかし、確かに穿いたはずのズボンは、エルの足元で縦方向に潰れている。
骨身のエルは尻たぶがないから、ウエスト部分がゴムになっていてもズボンを腰に押し留めることができなかったのだ。ベルトで無理やり固定するより安定するかと思って選んだのだが、見立てが甘かったらしい。
「うーん、この分じゃサスペンダータイプじゃないと無理か。でも兄さん持ってなかったしなあ……」
家にない以上、サスペンダー単体もしくはセットのズボンを購入するしかないが、今から買いにいくには少し時間が遅い。フラッタの端の端に位置しているアングレカ家は何かと不便なのだ。
「……上の服だけっていうのはねえ……」
ひとまずズボンは諦めるとしても、上の服だけ着せるというのは如何なものだろうか。いくら模造骸骨とはいえ問題があるような気がしてならない。
「……そうだ」
解決策を思い付いたノアは再び二階に向かった。ただし、今度は兄の部屋ではなく自分の部屋に入る。
ノアは一分と経たないうちに戻ってきて、手に持っていた布を広げるとエルの背面から前面へと移動させた。
「洗い替え用の綺麗なシーツだよ。足は出るかもしれないけど……これなら全身覆えるでしょ?」
前に回したシーツを書類用の大きなクリップで留め、エルを姿見の前に立たせる。
ノアの言う通り足は少し出ていたし、袖がないせいで腕を動かすと捲れてしまう部分もあったが、骨身の大半は隠れている。
エルもまんざらではないのか、鏡を見つめながら腕を動かしたり後ろ姿を確認したりしていた。
「気に入ってくれた?」
鏡を見つめていたエルはノアに視線を移すとはっきり頷いた。下顎骨しか動かす部分がないので表情から感情を読み取るのは不可能だったが、それでもノアの目には彼が喜んでいるように思えた。
「――……」
「ん?」
じっと見つめてくるエルに、ノアは首を傾げた。何か伝えたいことがあるのだろうか。
「……――ぁ」
「え?」
突如発せられた小さな音に、エメラルドグリーンの瞳が瞬きで隠される。
(――今、声が)
エルのほうから音が聴こえた。
小さく不明瞭なそれは確かに音で、そして、エルの声だった。
「ぉ……ぁ」
「なんて……なんて言ってるの、エル」
不明瞭に紡がれた言葉を聞き取ろうと、ノアはエルに耳を寄せる。どういう仕組みで喋っているのか分からなかったが、不明瞭な声はエルの口元から聴こえた。
「ぉ、あ……の、ぁ」
「……ボクの名前……?」
下方に動いた下顎骨が、声帯を持たない喉が、不明瞭に名前を紡ぐ。たった一度告げただけの名前を。
「の、あ……――ノ、ア」
「……何? エル」
「ノア……あり、がと……」
下顎骨をぎこちなく動かし、即席ローブを骨の手でつまみながら、エルは告げる。
「ありがとう」と。
「ぼく……うれしい……だぃじに、してくれて……」
「……うん」
懸命に想いを伝えるエルを、ノアはそっと抱き寄せた。シーツ越しに触れる体は硬く、少し冷たい。
「ねえ、エル。……ボクと一緒に暮らしてくれる?」
「いっしょに……いても、いいの……?」
未だ不明瞭な発音を補うように言葉を区切りながら、エルは首を傾げた。
「ぼく……ノアとは、ちがう……れぷりかすけれとす、だよ……?」
「何が違うのさ」
ノアが問う。
模造骸骨はヒトではない。体は骨だけで構成されていて、動力源は恐らく魔力。抱きしめても体温は感じられないのだから、エルの言う通り、ヒトとは違うのかもしれない。
けれど。
確かな自我を持っていて、大事に扱われることを嬉しいと感じ、不明瞭にしか喋れなくても感謝の気持ちを伝えたいと思うエルと「ヒト」の何が違うというのだろう。たとえ外見や体の構成が違っても、その本質は同じではないのか。
少なくとも、ノアはそう感じた。
「エルは『違うところがいっぱいある』って思うかもしれないけど、ボクにとっては些細な違いだし……違うところと変わらないくらい、同じところもあるんだよ。だから……ボクのことが嫌になったら、いつでも好きなところに行っていいから……」
――嫌じゃないなら、一緒にいて。
小さな声で伝えた申し出は、祈りのようでもあって。
意地っ張り気質なノアには似つかわしくない気弱な言葉でもあった。
金色の睫毛を伏せ、ノアはエルの返事を待つ。背中に回したままの手が柄にもなく震えそうで、シーツローブを軽く握りしめた。
「……うん」
小さく、短く。それでいて優しい響きを含んだ答えが頭上から落ちてくる。
「ぼく……ノアといっしょに、いるよ」
それでノアの寂しさがなくなるなら。
そう言いたげに、エルはノアの頭を撫でた。触れる手は硬くて無機質なのに、ぐずる幼子をあやすような手付きはどこまでも優しい。
――ノア・アングレカは、子どもらしくない子どもだった。同じ年頃の子どもよりも感情の起伏が少なく、大人よりも理屈っぽく、冷めた目で物事を見ることが多い子ども。
そのせいで同年代の子どもからは「自分たちとは違う気持ち悪い存在」と年相応に振る舞う居場所を奪われ、大人からは「頭と外見が良いだけで調子に乗っている生意気な子ども」と中身をろくに知ろうともせず拒絶されて。悪事を働いたわけでもないのに「関わりたくない子ども」のレッテルを張られ続けてきた。
けれど、と思うのだ。
「ボク……案外普通の人間だったんだ……」
家族を失って三か月経っても心の整理がつかなかったり、突然動き始めた骸骨を見て腰を抜かしたり、自分を新たな所有者と認めた無垢な存在に縋りたくなったり、優しく頭を撫でられただけで泣きたくなったり。
ノア・アングレカは、周囲が思い描いていたよりずっと――自分が考えていたよりずっと一般的な子どもで、一般的な人間だった。
「ありがとう……ありがとう、エル……っ」
声を震わせ、閉じた瞼の隙間から大粒の涙をこぼしながら、ノアはエルを抱きしめた。
体温がなく硬質な、がらんどうの体。
ノアの寂しさを受け止めてくれる、世界でたった一つの模造骸骨の体。
止めどなく溢れる涙がエルの即席ローブを濡らし、灰色の染みを作っていく。
それでも泣き止まないノアを、模造骸骨は黙って抱きしめ続けていた。




