8:二人の決断
「話さなきゃいけないこと?」
「うん」
エルトゥスはゆっくりと立ち上がり、ラーダを見つめる。
夜が明けるのを待ったほうがいいのかもしれない。ノアとドラゴが無事戻ってきたことを確認してから対処したほうがいいのかもしれない。
だが、エルトゥスの直感は「今話すべきだ」と告げていた。エルトゥスの〝大切な人〟がラーダの眼前で失われた今でなければ彼女の理解を得られず、その魂を神の御許へ導くこともできないと。
(――決断するって怖いね、ノア)
今にも震え出しそうな手をきつく握り込みながら、青年の顔に笑みを浮かべる。
仕事のパートナーであるノアはともかく、ドラゴは依頼人だ。自分の判断ミスで彼を永遠に失うようなことになれば責任など取りようがない。そのことを理解した上で決断するというのは、心が潰れてしまいそうなほど恐ろしい行為だ。
けれど、それでも。
それでもきっと、人生には決断しなければならないときがある。
そして――決断したからには、死に物狂いで最善を掴み取らなければならない。
「……これから話すことは、もしかしたらラーダさんの心を傷付けてしまうかもしれないことなんだ。だけど、それでも伝えなきゃいけないと思うから……僕の話、聞いてくれるかな」
「…………」
ラーダは躊躇しているようだった。その目は伏せられ、闇に濡れた地面を見つめている。
未だ夜が明けない森の中、居た堪れない沈黙が落ちる。
ラーダが口を開いたのは、場の空気に堪えかねたエルトゥスが何か話そうとしたときだった。
「がいこつさんの話を聞いたら……リトマさまがどこにいるか、わかる?」
「……うん」
リトマ牧師に関する話題だと察したのだろう。地面を見つめたまま尋ねたラーダに、エルトゥスは頷く。
「じゃあ、聞く」
しっかりとした声で答えたラーダはエルトゥスを見上げた。揺れることのない瞳には決意が宿っている。
そう、彼女も決断したのだ。エルトゥスの話によって傷付くことになったとしても、自分一人では解決できない事態に向き合いたいと。
「……ありがとう」
彼女の決意に礼を述べたエルトゥスは「はっきり言うね」と前置きした上で事実を告げた。
「君は……四十年前に亡くなっているんだよ、ラーダさん」
「……えっ?」
ラーダは目を瞬かせる。だが、エルトゥスは説明を止めない。
「子どもを狙った犯罪に巻き込まれて……殺されてしまったんだ。ラーダさんの本物の体はサ・リュダ教会の共同墓地に埋葬されているんだよ」
「うそ……」
そんなことって。小さく呟いたラーダは自らの体を見下ろした。
ぼんやりと光り輝く両手を目の高さまで持ち上げ、エルトゥスの言葉を確かめるように指先を触れ合わせる。――細く小さな指は、互いに重なり合うことなく突き抜ける。
それと同時に、ラーダの全身がうっすらと透け始めた。今ここに存在している自分は幽体であるとラーダが認識したためだろう。
「じゃあ……おひさまがのぼると眠っちゃうのも、リトマさまが『ゆっくり眠りなさい』って話しかけてくれたのも……」
「……悲しい事件で亡くなったラーダさんが神様の御許で安らかに眠れるよう、祈るためのものだったんだ」
「そんな……」
ラーダはかぶりを振った。信じられないと、信じたくないと言いたげなその顔が青褪めて見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。
「……リトマさま、わたしのこと忘れちゃったの?」
エルトゥスを見つめる瞳がふるふると震え、潤む。
頬を伝い落ちた涙は。ラーダの体から離れた途端、跡形もなく消えた。
「わたしのこと忘れちゃったから、祈ってくれなくなったの……?」
「ううん、違うよ。……リトマ様は亡くなったんだ。七十二歳だった」
「……亡くなった……?」
「うん。心臓発作で突然……。だから、ラーダさんのことを忘れたわけじゃないんだよ」
リトマ牧師は四十年間祈り続けていたのだと、ラーダのことを忘れたことは一日もなかったのだと、エルトゥスはラーダに伝える。
だが、ラーダの涙は止まらなかった。悲しみに震えるラーダは残酷な事実を告げるエルトゥスを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「もう……リトマさまに、会えないの……?」
だったら、わたしはどうしたらいいの。
わたしはただ、リトマさまに会いたかっただけなのに。
震える声で呟いて、ラーダはしゃくり上げた。
寂しい、悲しい、苦しい、つらい、どうして、許せない……。決して地面に落ちることのない涙には八歳のラーダが精一杯我慢していた感情が溢れているようで、彼女をただ見守ることしかできないエルトゥスまで苦しくなる。
「……ごめんね。僕にはどうしてあげることもできない」
『この世界に現存する唯一の模造骸骨』。そう持て囃されてもエルトゥスにできることなどたかが知れている。ほんの少し魔力を操れるだけの、ただの人工がいこつだ。
ただ――。
「僕にできることはほんの少ししかないけど……リトマ様から受け取ったラーダさんへのメッセージを、リトマ様の声で伝えることはできるから」
今は亡きリトマ牧師の想いを、懐かしい声を、心優しい少女に届けることはできるから。
「僕はエルトゥス・アサラ。――昔のことは何も覚えてないけど、誰かの声と想いを届ける仕事をしながら大切な人と生きていくことにした、魔力製のがいこつだよ」
改めて自己紹介をして、エルトゥスはラーダの名を呼んだ。生まれ持った声ではなく、若き日のリトマ牧師の声で。
「……リトマさま」
その声に、目を潤ませていたラーダがエルトゥスを見る。
ぱちりと瞬きをしたラーダはやがて「あっ」と声を上げた。
「さっきリトマさまの声でわたしを呼んだの、がいこつさん……?」
「うん。……騙すようなことをしてごめんね。リトマ様には会わせてあげられないけど……リトマ様から受け取った想い、聴いてくれないかな」
伏せていた事実を告げ、エルトゥスは願い出る。
生前、リトマ牧師はラーダへの想いを活動日誌に綴っていた。
――恵まれない環境の中でも我々の神を信じ、祈りを捧げていたあの子を、私たちは心無い者から守ってやることができなかった。
――だからせめて、ラーダの魂が神の御許で安らかに眠るための手助けをしたい。
綴られた言葉通り、彼は四十年もの間、ラーダのために祈り続けてきた。
だが、彼の活動は思いがけない形で閉ざされてしまった。
だから、発話代行人であるエルトゥスが――彼の想いを受け取ったエルトゥスが、その役目を果たしたいと思う。
ただ、発話代行人は、依頼人や声を届ける相手に望まれて初めて活動を許される職業だ。「リトマさまはこの世にいない」とラーダが知った今、望まれてもいないのに声や想いを一方的に押し付ける存在であってはならない。
頭上に輝く星々の瞬きだけが暁闇を照らす中、夜明け前の森に相応しい沈黙が落ちる。
申し出を聞いたラーダは、エルトゥスを見つめたまま黙っていた。森の景色を透過させたその体は暁闇を映している。
いくら声を再現しようとも、エルトゥスがリトマ牧師の代わりになることはできない。本当の意味でラーダの望みを叶えることは、最早誰にもできない。だからこそラーダも迷っているのだろう。
それでも、がいこつの面を見つめたままのラーダは、小さく頷いた。
エルトゥス・アサラはリトマ牧師になり得ないけれど、もう会うことができないリトマ牧師の想いを聴かせてほしいと。




