3:役人の苦労
「亡霊と話してほしい」という依頼があった翌日、午後一時。
イストリア社を訪れたのは、心労が表面にまで現れたスーツ姿の中年男性だった。
「ドラゴ・イラスと申します。この度は無理を聞いていただき、誠にありがとうございました」
応接室に通された彼――ドラゴは、思わずこちらが恐縮してしまうほど丁寧に挨拶した。アトウという町の役所に勤めているらしく、オールバックにした白髪交じりの黒髪とダークグレーのスーツが「いかにも」という感じだ。
「で? 亡霊だって?」
「はい……。一週間ほど前から、教会付近にラーダという女の子の亡霊が出るのです」
淡いグリーンの瞳を二人に向け、ドラゴは心底困り果てたという様子で状況を説明する。
フラッタの街から普通列車で三十分の場所にある、特産品のベリー類が有名な町・アトウ。
町の中心部から東に位置するサ・リュダ教会に少女の亡霊が現れ始めたのは、今から一週間前のことだ。
彼女は教会の裏手に位置する小さな森に現れることが多く、出現が確認された時間は、概ね夜明け前の三十分前後。日の出前の散歩を趣味にしていた男性が気まぐれで立ち寄った森の中で「ぼんやりと光る何か」を見つけたことが発見のきっかけだったらしい。
「それで? そのラーダって子はどうして化けて出てるの?」
「これは確定情報ではないのですが、一か月前に亡くなったリトマ牧師を探しているようでして……」
ノアの問いに、ドラゴが答える。
リトマ牧師というのはサ・リュダ教会で四十年以上牧師として活動していた古株の男で、「牧師とはかくあるべき」と呼ばれるほどの人格者だったらしい。心優しく謙虚な性格から皆に慕われており、生前のラーダも例外ではなかったという。
「当時八歳だったラーダはリトマ牧師によく懐いていました。身寄りのない彼女にとって牧師は〝損得勘定抜きで自分を気にかけてくれる数少ない大人〟でしたし……もしかしたら、優しい彼に憧れていたのかもしれません」
しんみりと語るドラゴに、エルトゥスは無言で頷く。
(ラーダさんの気持ち、ちょっとだけ分かるかもしれない)
過去の遺物と人間はまったくの別物だから、その境遇を比較することはできない。
ただ――一切の打算なく自分を気にかけてくれる人を想う気持ちは、きっとそれほど変わらない。そう感じた。
隣にいるノアのことを考えていると、ドラゴが困り顔のまま言った。
「あいにく、ラーダとリトマ牧師に関しては不明な点が多いのです。私は当時の彼らを知っているのですが、何せ四十年前の話ですから……」
「……四十年前?」
ドラゴの言葉に引っかかりを覚え、エルトゥスは思わず彼の言葉を繰り返す。
リトマ牧師を探す少女の亡霊。
当時八歳。
四十年前の話。
考えていた時系列が乱れて困惑していると、ノアが不意に口を開いた。
「幽霊や亡霊の類は〝亡くなった当時の姿〟で現れることが多いらしいよ」
「そうなの?」
それは初耳だ。
〝この世ならざる者〟に対する情報をアップデートしたエルトゥスは、あれ、と思う。
(それって、つまり――)
「――つまり、ラーダが亡くなったのは八歳だった四十年前」
エルトゥスが時系列を整理し終えるより早く、ノアはドラゴに話しかけた。
「死因は不慮の事故か、もしくは、誰かに殺されたか。――違う?」
「……ご推察の通りです」
ドラゴは一瞬目を見開き、やがて、悲しみ交じりの声で答えた。
「四十年前、子どもを標的にしていた殺人鬼の男に命を奪われてしまったのです。まだ八歳になったばかりだったのに……」
「……そんな……」
穏やかな声を微かに震わせ、エルトゥスは呟く。
ただその場に居合わせたというだけで、もしくは腕力で抑え込みやすいというだけで、一方的に傷付けられたり殺害されたりすることがある――。
その理不尽な事実を、エルトゥスは報道を通じて把握していた。
だが、こうして被害者の話を聞くと、報道で目にしたとき以上のやるせない気持ちが空っぽの胸に溜まって苦しかった。模造骸骨である自分は呼吸などしないのに――息苦しさなど味わったことがないのに、何かが胸骨の下で暴れているようだ。
「あの……犯人は……?」
「もう生きていませんが、ラーダが殺されて半月経った頃に逮捕されています。別の町でも子どもを三人ほど手にかけていたようでした」
「そう、ですか……」
エルトゥスは目を伏せた。――犯人が捕まったと聞いても、息苦しさに似た何かは治まらない。
「――話を元に戻すけど」
話に区切りがついたと感じたのか、二人のやりとりを聞いていたノアが口を開いた。
「ラーダがリトマ牧師を探してる可能性は高いんだよね?」
「はい、恐らくは……」
「煮え切らない返事だなあ。ちゃんと確かめてないの?」
「すみません。私を含む数名で確認したのですが、皆、実物を目にすると怖がってしまって……。正確には分からないのです」
ノアに追及され、ドラゴは申し訳なさそうに謝罪した。
「ただ、私が確認した限りでは、リトマ牧師を探しているようでした」
「彼女の目的が牧師さんだって、どうして分かったの?」
「ラーダがそう言ったのです」
森での出来事を思い出すようにしながら、ドラゴは答える。
「目撃された亡霊の特徴がラーダに似ているということで、私が彼女を確認することになりました。当時の彼女を知っている者はほとんどいませんでしたし、私は役所勤めですので……」
本来の業務からは外れているが、住民から「何とかしてほしい」と言われてしまえば要望を聞かないわけにはいかない。ドラゴのように役職持ちなら、なおさら。
かくして「亡霊嫌いで怖がり」のドラゴは、夜明け前の森へ向かうことになった。
「すると、昔彼女が花を摘んでいた辺りに、ぼんやりと光り輝くラーダがいて……私のほうをちらと見るなり言ったのです」
――リトマさまは?
――どうして話しかけてくれないの?
そう尋ねる声は、どこか遠くから話しかけられているような不明瞭さがあったという。
一方、ドラゴは恐怖に震えながらも「ラーダなのか?」と尋ねたが、彼女は答えを返さず、次の瞬間には姿を消したらしい。
「翌日以降は教会関係者が確認に向かい、神に仕える身として何かできないかとあれこれ試しているのですが……現状、進展はありません」
「ふーん」
相槌を打ったノアは、別の質問をぶつける。
「ラーダの言葉から察するに、リトマ牧師は彼女のために何かしてたってことだよね。その辺りは分かってるの?」
「はい。教会関係者によると、ラーダが安らかに眠り続けられるよう、毎日祈りを捧げていたようです。身寄りのなかった彼女は教会の共同墓地に埋葬されていたので……。現在は後任の牧師が代わりに祈っているのですが、先程述べた通り進展がない状態なのです」
「なるほどね。それで、エルなら何とかできるかもって思ったわけだ」
「はい。イストリア社に依頼すれば声を忠実に再現してもらえると、偶然耳にしたもので……」
エルトゥスに視線を向けたドラゴが目を伏せる。
「模造骸骨ならもしかして」という気持ちはあるのかもしれないが、「亡霊と同じ〝この世ならざる者〟だから」という理由だけで依頼したわけではなかったようだ。
「アングレカさん、アサラさん。どうか、どうか引き受けていただけないでしょうか」
ドラゴはソファーに腰かけたまま深々と頭を下げ、願い出る。
「ラーダが出没するのは夜明け前の限られた時間だけですが、町の子どもたちは教会そのものを怖がり始めているのです。このままでは心安らかに日々を過ごすことはおろか、満足に祈りを捧げることすらままなりません。ですから、どうか……!」
「……どうしたものかな」
必死に頼み込むドラゴに、ノアは小さく呟いた。
それからエルトゥスに視線を向け、「エルはどう思う?」と尋ねる。
最終的な決定権は社長のノアにあるが、だからといって、ノアがエルトゥスの気持ちを無視することはない。この仕事を始めたときから、ノアはエルトゥスの意見を必ず確認していた。
「……僕は亡霊を見たことがないし、そもそもヒトじゃないからラーダさんが見えるかどうか分からないけど……僕で力になれるなら、引き受けるのは嫌じゃないよ」
「本当ですか!」
「待って。依頼を受けるかどうか判断するのはボクで、まだ決めたわけじゃないからね」
顔を上げたドラゴにノアが宣言する。
それでも引き受けてもらえる可能性がゼロではないと感じたのか、ドラゴは「依頼料は必ずお支払いしますから……!」と続けた。
「……声のサンプルはあるの?」
「は、はい! 最近のものではありますが、録音がいくつか……」
どうやら今回は手本となる声のサンプルが複数あるらしい。
それならノアも引き受けるかもしれないと、エルトゥスは思った。
声だけであればサンプルがなくても再現可能だが、サンプルがある場合に比べて遥かに時間がかかってしまう。
第一、サンプルなしではイントネーションを含む話し方や言葉選びを再現するのが非常に困難で、できたとしても相当な日数を要するのだ。そうなると依頼料が段違いに跳ね上がるため、見積もりを見て断念する依頼人も少なくなかった。
口を挟まず見守っていると、ノアがドラゴに質問した。
「ボクから一つ、イラスさんに訊きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか」
「『声を再現する行為』は『他人の声で勝手なことを喋る行為』でもあるでしょ。――亡くなったリトマ牧師がそれを許す保証はどこにあるの?」
想定外の問いかけに虚をつかれたのだろう。狼狽えた様子のドラゴは唇を固く結び、視線を落とす。
もしかしたら、このまま帰ってしまうかもしれない。
口を挟むべきか迷っていると、視線を落としたままのドラゴが言った。
「……アングレカさんの言う通り、声の再現をしてほしいと思うのは、私どもの都合です。リトマ牧師が許可をくださったわけではない」
答えるドラゴの声は、何故か、先程よりもずっと落ち着いている。
「ただ――。声の再現をすることでラーダが安らかに眠れる可能性が少しでもあるのなら、リトマ牧師は必ずそれをお許しになる。私はそう確信しています」
静かに、けれどきっぱりとした口調で断言したドラゴが顔を上げる。
淡いグリーンの瞳に宿るのは、四十年間ラーダのために祈り続けた牧師に対する無二の信頼。
「……分かった」
ドラゴを見つめていたノアは小さく頷き、口を開いた。
「イラスさんの依頼、引き受けるよ」
「あ……ありがとうございます!」
声を震わせたドラゴが座ったまま深々と頭を下げる。
「役所勤め」という立場からではなく、ドラゴ個人として感謝しているようだった。
(――よかった)
『声の再現』は、場合によっては個人の尊厳を踏みにじりかねない行為だ。それを生業にする以上、一個人の感傷で依頼を引き受けられないことはエルトゥスも当然理解している。
けれど、藁にも縋る思いで来訪した依頼人の力になれない、という状況は何度経験しても心苦しいものだ。きっと、ノアだって同じだろう。
内心安堵していると、ノアが「ただし」と言った。
「引き受けるにあたって条件が三つあるよ」
「条件、ですか?」
「そう。エル、メモ取ってくれる?」
「あ、うん」
ノアに促され、エルトゥスは慣れた手つきでメモを取り始める。
「一つ目は、ボクたちがラーダに接触ができるかどうか事前確認する機会を設けること。確認のための出張費はそっち持ちで、イラスさんには立会人として同席してもらうよ」
「分かりました」
「二つ目は、接触可能と判断して依頼を引き受けた場合、依頼料の三分の二を前金として支払うこと。ここで言う依頼料は追加料なしの基礎料金ね」
エルトゥスが書き終えた頃を見計らい、ノアは二つ目の条件を提示した。
エルトゥスの向かい側ではドラゴが頷いている。
「三つ目は、たとえ残念な結果に終わったとしても、イストリア社やボクたちの悪い噂を広めないこと。もし今後の仕事に影響するような事態に陥ったら裁判所に訴えるからね」
その条件は確かに必要だと、エルトゥスは内心呟いた。
はっきり言って、今回の依頼は成功するかどうか分からない。再現自体が上手くいっても、ラーダの望みを叶えられなければどうしようもないからだ。
「この条件でなら依頼を引き受けてもいい。――どうする?」
「それで構いません。よろしくお願いします」
ドラゴは再び頭を下げ、正式に依頼を願い出た。
「了解。それじゃ条件を追加した契約書をすぐ作るから、確認してサインしてくれる?」
「はい」
「あと、ボクたちはいつラーダの様子を見にいけばいい?」
「そうですね……」
ドラゴは少し考えたあと、遠慮がちに申し出る。
「できれば今日、来ていただけませんか?」
「え、今日?」
ノアは目を丸くした。
現状ラーダはヒトに危害を加えていないし、いくらなんでも早すぎるんじゃないかと考えているのだろう。
ただ、ドラゴとしては、できるだけ早くラーダを確認してほしいようだ。膝の上で指を遊ばせた彼は、少し言いにくそうに口を開いた。
「その……私どもとしましても、アサラさんの手に負えないようであれば別の案を出さなければならないのです。初めての亡霊騒ぎで町民が神経質になっているので……」
「なるほどね。――ラーダの知り合いで役人だから、亡霊騒ぎを解決する責任まで押し付けられたんだ?」
「ええ、まあ……」
「お役所勤めは大変だなあ」
ノアは申し訳なさそうなドラゴに目を向けながら言う。「ボクには絶対務まらないだろうな」とも。
「エルは? 今日でもいいの?」
「うん、大丈夫」
「分かった。じゃあ確認に行くよ。その代わり、宿の手配はしてくれるよね?」
「もちろんです! ……あの、電話をお借りしても?」
「いいよ、そこのを使って。その間に契約書作っておくから」
「ありがとうございます。無理を言って申し訳ありません」
恐縮しきりのドラゴが席を立ち、応接室の奥側に設置された電話に向かう。
「税金を無駄に使うことにならなきゃいいけど」
ドラゴが町役場に電話をかける中、ノアはエルトゥスにだけ聞こえる声量で言い、既存の契約書に条件を書き込み始めた。