松島派遣隊
1953年4月23日、米軍が管理していた宮城県松島基地の日米共通使用が決定し、6月には航空自衛隊創設準備の為、保安隊から選抜された隊員30人による「臨時松島派遣隊」が編成されて、米国側は操縦者教育開始に備え、教官要員を松島に派遣している。臨時松島派遣隊の下、整備講習生38人と操縦学生35人は、松島基地で在日米軍により編成された訓練部隊に教育を委託された。
教材となった航空機は、米軍のT-6プロペラ機を使用した。旧帝国陸海軍出身のパイロット経験者の技術回復、つまり飛行機操縦の勘を取り戻すところからスタートしたのである。さて、何を隠そう市田島準平も、保安隊選抜組の一員に加わっていた。実は市田島準平は航空自衛隊が創設される迄は、保安隊に所属していた。無論、先の事を見据えての事だったが。
とは言え、市田島準平自身も他の選抜組のメンバーも、ブランクはあった事は否めない。プロペラ機からスタートしたのは前述の通り正解であった。そう言う米軍の心遣いに謝意を持っていた位である。米軍は日本のパイロット達にブランクが有る事をよく理解していた。終戦から約6年が経過し米軍に安全保障を助けてもらっていた日本だが、部隊を作ると言っても、隊員の育成のノウハウは、旧帝国陸海軍出身者に委ねざるを得ず、兵器調達にも、米国の協力は必須であった。そんな事は、日本よりも米国の方がよく分かっている。
だからこそ先ずは、一定の技術水準まで日本兵のレベルを上げないと話にならない。その為にやるべき事は山の様にある。保安隊や警備隊には、少なからず日本陸軍や日本海軍の気風ややり方が残っていた訳で、敗戦しても新組織である陸海空自衛隊への移行には、わりかし時間はかからなかった。
しかしながら、空の実力部隊である航空自衛隊はそうした過去の遺産はない。何もかもが手探りであったが、幸い良い見本がいた。在日米国空軍である。これを手本に航空自衛隊は組織をスムーズに形成する事が出来た。だが、その歩みは現代に生きる我々日本人が思う以上に、苦難に満ちたものであり、まだそのスタートしてから一歩目を踏み出したに過ぎないのである。
「もう幹部候補生課程終わったのか市田島曹長、いや3等空尉か。」
「何かと急ごしらえの部隊ですからね、詰め込めるだけ詰め込んだら、後は現場にポイ捨てですよ。とにかく今はパイロットの頭数が欲しいみたいですからね。」
「それはそうだが、短期養成は個人的にはあまり肝心しないな。」
「赤紙で何とかしていた戦時中とは違いますがね。」
「それは我々幹部自衛官も承知しているよ。」
「それなら間違いは起こらないでしょうね。」
「徳橋3等空佐がお墨付きをくれたなら、安心して飛べますね。」




