第1話 終電を逃した夜、 僕は異世界でも遅刻した
はじめまして。
数ある作品の中から、 この物語を開いてくださって、 ありがとうございます。
こちらはゆっくり投稿していくので、読者の皆さまも肩の力を抜いて、
ゆっくりででもついてきていただけたら嬉しいです。
ブックマークや評価、 感想が、 何よりの励みになります。
迷子になったら、 その場を動くな。
そう言われるたびに、 僕は動いてしまう側の人間だった。
◇
午前零時四十七分。
腕時計の針を確かめて、 僕は静かに絶望した。
終電は、 とっくに行ってしまっている。
話は二時間ほど前にさかのぼる。
定時を四時間過ぎた総務課のフロアで、 課長が僕のデスクに腰をかけた。
いつもの、 愛想のいい笑顔つきで。
「浅野くん、 悪いんだけどさ」
この枕詞のあとに続く頼みごとで、 悪くなかった試しはない。
「役員会議の原本、 ホテルまで届けてくれない?
専務が出張先で急に『やっぱり紙で見たい』って言い出してね。 明日の朝イチで使うらしいんだ」
「今からですか。 終電が——」
「タクシー代は出すよ。 君、 総務でしょ? こういうの得意じゃない」
得意なわけじゃない。
断れないだけだ。
この会社では、 頼みごとは「得意だから」で押しつけられ、 失敗は「君の責任」で返ってくる。
専務の「やっぱり紙で」は、 先週だけで三回あった。
そのたびに、 印刷と製本と配送を手配するのが総務だ。
誰の手柄にもならず、 誰にも感謝されず、 ただ、 できて当たり前の仕事の繰り返し。
それでも僕は、 いつものようにこう答えた。
「……分かりました。 行ってきます」
課長は満足そうに頷いて、 先に帰っていった。
浅野巡、 二十八歳。
中堅メーカーの総務課に勤めて、 今年で六年目になる。
人事評価は、 五年連続で「C」だ。
面談のたびに、 課長は同じ台詞を口にする。
「浅野くんは真面目なんだけどね。
伸びしろがないっていうか……いや、 使えないとまでは言わないけど」
使えないとまで言わないのは、 言っているのと同じだと思う。
僕には、 悪い癖がある。
遅刻をするのだ。
寝坊じゃない。 むしろ誰より早く家を出る。
ただ、 道すがら困っている人を見つけると、 つい足が止まってしまう。
重い荷物を抱えたご老人。
駅で道を聞かれたら、 目的地までついて行ってしまう。
会社でもコピー機の前で固まっている派遣さん。
その結果、 僕は毎回遅れる。
そして「時間にルーズな使えない奴」という評価が、 また一つ積み上がる。
理不尽だとは思う。
けれど、 言い返したことは一度もない。
言い返す前に、 すみません、 と口が動いてしまうからだ。
タクシーの運転手さんは、 住宅街の入り口で車を止めた。
「お客さん、 この先は一方通行で入れないんですよ。
ホテルはこの道をまっすぐ、 歩いて五分ほどです」
領収書をもらう。
宛名は「上様」ではなく、 きちんと会社名で。
総務が一番やってはいけないのは、 領収書の宛名を間違えることだ。
経験者は語る。
胸ポケットの手帳を開いて、 万年筆で今夜の段取りを確かめる。
新人の頃からの習慣だ。
【持ち物】役員会議原本、 名刺入れ
【届け先】ホテル、 専務
【集合時間】午前一時まで
モバイルバッテリーを忘れたのが、 致命的だった。
歩き出して二分後、 スマホの画面がふっと暗くなった。
「……え、 嘘でしょう」
残業中に資料の確認で酷使した電池が、 最後の力を振り絞って、 そのまま息絶えたらしい。
まっすぐ、 と言われたはずの道は、 いつの間にか二股に分かれていた。
右か、 左か。
僕は、 方向音痴だ。
それも、 かなり筋金入りの。
子どもの頃から、 初めての場所では必ず迷う。
迷ったら人に聞けばいい。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、 僕は人に聞くのが昔から苦手だった。
夜中の住宅街なら、 なおさらだ。
声をかけたら、 不審者だと思われる。
——いや、 これも言い訳だ。
昼間でも、 僕は聞けない。
結局、 勘で左を選んだ。
これが、 間違いだった。
◇
十分後。
僕は、 見知らぬ路地の真ん中で立ち尽くしていた。
街灯の間隔が、 さっきから妙に広い。
民家の灯りもない。
塀に囲まれた細い道が、 ただ静かに続いている。
腕時計は、 午前零時五十七分。
一時の約束まで、 あと三分。
もう、 間に合わない。
「専務に……怒られる、 よな」
怒られるのは、 まだいい。
慣れている。
それより、 鞄の中の原本を抱えたまま朝を迎える自分の姿の方が、 よほどつらい。
そのとき。
「——こっちだ」
声がした。
低くて、 ひどく疲れた、 年配の男の声だった。
僕は反射的に振り返った。
誰もいない。
通ってきた道が、 暗闇に溶けているだけだ。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
けれど、 誰の声かは思い出せない。
気のせいだろう。
深夜残業の疲れのせいだ。
「……あの、 どなたか、 いらっしゃいますか」
返事はない。
けれど、 前方の路地の先に、 ぽつりと淡い光が見えた。
街灯とは違う、 青白い光。
迷子になったら、 その場を動くな。
頭では分かっている。
でも、 このまま立っていても、 専務の怒りは冷めない。
僕は、 動いてしまった。
光に向かって歩くほど、 足元が妙に軽くなっていく。
アスファルトの上に、 薄く光る線が走っているのに気づいたのは、 そのときだ。
線は円を描き、 円の中に、 見たこともない文字が一つ、 また一つ、 浮かび上がる。
「……待って。 これ、 ちょっと、 待って」
足を止めようとした。
でも、 遅かった。
円は一気に広がり、 僕の足元を呑み込んだ。
眩しい光。
身体がふわりと浮く。
足の下の地面が消える。
光の粒が、 砂のように、 さらさらと足元から流れ落ちていくのが見えた。
鞄を、 抱え直す。
専務の原本だけは、 落とせない。
「すみません、 遅れます——」
誰にともなく、 僕は謝っていた。
そこで、 意識が途切れた。
◇
最初に感じたのは、 冷たい石の感触だった。
頬に当たる床が、 硬くて冷たい。
アスファルトじゃない。
もっと磨かれた、 大きな石材の床。
「……っ」
身体を起こそうとして、 肘をついた。
鞄は、 手の中にある。
原本は無事だ。
よかった。
いや、 よくない。
何もよくない。
顔を上げると、 そこは見たこともない広間だった。
天井が高い。
壁は白い石造りで、 橙色の松明が等間隔に並んでいる。
足元には、 直径十メートルはありそうな巨大な魔法陣。
淡く光る円の縁に、 僕は倒れていた。
周囲を、 ローブ姿の人々が取り囲んでいる。
数十人。
全員が、 僕を見ていた。
その目が、 なぜか、 どこか気まずそうだった。
「あ、 来た」
誰かの小さな声がして、 広間の中央から、 制服姿の少年が駆け寄ってくる。
「あっ、 おじさんも来た! よかった、 俺だけじゃなかった!」
短く刈った黒髪に、 紺のブレザー。
肩には大きなスポーツバッグ。
高校生だろう。
日に焼けた顔に、 人の良さそうな笑顔が浮かんでいる。
……おじさん。
二十八歳でも、 高校生から見ればおじさんなのか。
「えっと、 あの、 君は」
「あっ、 すみません! 俺、 神谷光っていいます。
サッカー部の練習終わって、 帰り道にいきなり足元がバァって光って。 気づいたらここにいて。
あの、 おじさん……じゃなくて、 お兄さんも、 そんな感じっすか?」
「……だいたい、 そんな感じです。 あと、 おじさんで大丈夫です。 浅野巡といいます」
「アサノさん! よろしくっす!」
礼儀正しい子だ、 と思った。
まぶしいくらいに。
ざわめきの中から、 断片的な囁きが耳に入ってくる。
「勇者様は、 想定通りの時間に現れたのだが」
「もう一人は、 三分も遅れて……」
「遅れて現れる光など、 聞いたことが」
三分?
後で聞いた話では、 儀式を取り仕切る神官が、 砂時計で刻を測っていたらしい。
ヒカルくんは、 寸分違わぬ定刻に。
僕は、 その三分後に。
それぞれ魔法陣の中に現れたのだという。
異世界に来ても、 僕は遅刻していた。
広間の奥、 数段高い場所に、 豪奢な椅子が二つ。
片方に冠をかぶった壮年の男性が座り、 もう片方の脇に、 細身の男が立っていた。
細身の男が一歩進み出る。
銀の髪を後ろで束ね、 整った顔立ちに、 慇懃な微笑みを貼りつけている。
「ようこそ、 ナヴィアの世界へ。 勇者様がた」
勇者『がた』。
「私は宰相のグレイヴと申します。 こちらは国王陛下、 アルベルト・ローデリア様。
突然のことで、 さぞ驚かれたことでございましょう」
驚いたどころの話ではない。
グレイヴ宰相は芝居がかった口調で、 事情を説明し始めた。
この世界はナヴィアと呼ばれていること。
ローデリア王国は、 千年に一度復活する魔王に対抗するため、 異世界から勇者を召喚する習わしがあること。
そして、 今がまさにその時であること。
ふと気づく。
彼らの言葉が、 自然に日本語として耳に入ってくる。
しかし口の動きと音が合っていない。
映画の吹き替えみたいだ。
「ちょ、 ちょっと待ってください!」
ヒカルくんが手を挙げた。
「魔王とか勇者とか、 俺、 ただの高校生で。 サッカーしかできなくて。
……そういえば家に帰れるんすか?」
「それは——」
宰相は、 ほんの一瞬だけ、 言葉を選ぶような間を置いた。
「魔王を討伐された暁には、 必ずや。 それまでは、 王国が全力で支援いたしましょう」
……今の、 間。
総務を六年やっていると、 「都合の悪いことを説明する人の間」には敏感になる。
あれは完全に、 何かを伏せている顔だ。
けれど、 僕は何も言わなかった。
言い返す前に飲み込んでしまうのは、 いつもの癖だ。
「ところで」
宰相の視線が、 僕の方に流れる。
「召喚は、 本来お一人のはずでございました。
大賢者マグナス・アウレオ様は『光は二つ』と仰せでしたが……
まさか、 本当に二人目がいらっしゃるとは」
『マグナス・アウレオ』
聞き慣れない、 不思議な響きの名前だった。
その賢者が、 二人目……今回で言うと僕?の来訪を予言していた?
なぜ?
疑問が頭をよぎったとき、 胸元に、 微かな重みを感じた。
見下ろす。
首から、 小さな砂時計がぶら下がっていた。
手のひらに収まるほどのガラスの砂時計。
上の砂は、 まだほとんど落ちていない。
こんなもの、 つけた覚えはない。
いつから、 ここに?
「アサノさん、 何してるんすか?」
「あ、 いえ、 えっと、 時刻と状況をメモしておこうと……」
僕は胸ポケットから手帳を取り出して、 書き込んだ。
【到着】異世界(?)
【状況】召喚、 魔王、 勇者、 帰還方法は未確認
【持ち物】専務の原本
「そこ、 気にします!?」
「僕の、 唯一の持ち物なので」
ヒカルくんは目を丸くして、 それから、 声を上げて笑った。
◇
「それでは、 お二方の『天啓』を確かめさせていただきます」
案内されたのは、 広間の隣の小部屋だった。
中央の台座に、 人の背丈ほどの黒い石板が据えられている。
表面は、 夜空のように静かに光っていた。
石板の脇に、 白髪の老人が立っている。
灰色のローブ、 胸に魔術師の紋章。
宰相が紹介した。
「王宮魔術師長のオズワルドでございます。
天啓石に手を置かれると、 神から授かった力——『スキル』の名が浮かび上がります」
オズワルドは、 無愛想に頷いた。
「召喚者は、 必ず何らかの力を授かる。 それが習わしである。 ……では、 まず勇者殿から」
促されて、 ヒカルくんが石板に手を置く。
その瞬間、 部屋が昼のように明るくなった。
石板から、 金色の光が迸る。
文字が浮かび上がる。
《聖剣・暁》
「おお……!」
「間違いない、 勇者の加護だ!」
周囲の兵士や魔術師たちが、 一斉に歓声を上げた。
オズワルドの手が、 小さく震えている。
「迷いなき心を持つ者のみが振るえる、 聖なる剣……。 千年ぶりの本物の勇者だ」
「え、 俺、 すごいんすか?」
ヒカルくんは戸惑いながらも、 嬉しそうに笑った。
いい子だな、 と思う。
……さて。
「では、 もう一人の方」
視線が、 一斉に僕に集まる。
さっきまでの歓声が、 嘘のように静かになった。
僕は石板の前に立ち、 深呼吸をした。
大丈夫。
期待されていないことには、 慣れている。
会社で六年間、 鍛えられた。
そっと、 手を置く。
ひんやりとした石の冷たさ。
一拍の沈黙。
やがて、 石板がぼんやりと光り始めた。
ヒカルくんのときのような、 眩しい金色ではない。
夜明け前の空のような、 淡くて、 頼りない、 青白い光。
文字が、 ゆっくりと浮かび上がる。
《迷子》
……迷子?
部屋が、 どよめいた。
「迷子……?」
「聞いたことがない」
「スキルの名前なのか、 それは」
オズワルドが険しい顔で石板に顔を近づけ、 分厚い古書を取り出してページをめくる。
長い、 長い沈黙。
「……記録がある。 ずいぶん昔の、 転移系スキルの一種だ」
老魔術師は、 淡々と読み上げた。
「発動すると、 行き先不明の場所へ転移する。
滞在できるのは三分間のみ。
三分が過ぎれば、 強制的に元の場所へ戻される。 行き先は選べず、 制御もできない」
「それだけ、 ですか?」
「それだけだ。 攻撃力はなく、 補助にもならない。
遠隔地への移動にも使えない。
……端的に言えば、 転移魔法の欠陥品だ」
誰かが、 くすりと笑った。
それを皮切りに、 あちこちから失笑が漏れ始める。
「勇者様と一緒に召喚されて、 これか」
「ずいぶん、 差がついたものだ」
宰相のグレイヴは、 笑みを崩さなかった。
けれどその目は、 はっきりと、 僕から興味を失っていた。
「合理的に参りましょう。 勇者様には王国最高の待遇を。
もう一方には……せめて 荷物持ちとしての席を用意いたします」
荷物持ち。
異世界に来ても、 僕の評価は「C」らしい。
いや、 「C」ですらないかもしれない。
それでも僕は、 いつものように頭を下げていた。
「……すみません。 こんなスキルで」
口が勝手に動いた。
この世界でも、 僕は最初に謝る人間だった。
「いやいや、 アサノさん、 謝ることないっすよ!」
顔を上げると、 ヒカルくんがまっすぐな目で僕を見ていた。
「転移ってすごくないですか? 魔法!って感じで。 俺、 めっちゃ憧れます!
それに、 アサノさんが一緒に来てくれて、 俺、 すげえ心強かったし!」
……。
今夜、 初めて、 誰かに役に立ったと言われた気がした。
胸の奥が、 少しだけ、 温かくなる。
いい子だな。
首元の砂時計が、 さらり、 と音を立てた。
見下ろすと、 上のガラスから、 砂が一粒だけ落ちていた。
さっきまでは、 一粒も落ちていなかったのに。
三分、 という言葉が、 頭の隅で小さく引っかかった。
けれど、 兵士たちは再びヒカルくんを囲んで歓声を上げ始めていた。
その違和感は、 騒ぎの中に、 すぐに紛れて消えていった。
◇
その夜、 僕は城の客室に通された。
広い部屋だった。
天蓋つきのベッドに、 暖炉に、 磨かれた書き物机。
会社の仮眠室とは、 比べものにならない。
隣の部屋には、 ヒカルくんが入ったらしい。
壁越しに、 「うわ、 ベッドでかっ!」 と叫ぶ声が聞こえた。
元気だ。
僕は机に鞄を置いて、 専務の原本を取り出した。
角が、 少しだけ折れている。
……折れている。
総務としては、 かなり重大な事態だ。
「明日の朝イチだったな、 どうしよう」
誰にともなく呟いて、 苦笑した。
異世界に来てまで、 専務の資料の心配をしている。
我ながら、 重症だと思う。
椅子に座り、 手帳を開く。
今日の記録を、 最後に書き足しておく。
【所感】異世界でも、 評価はC。
【所感】スキルは《迷子》。 転移できるが、 三分で戻され、 行き先は選べない。
【所感】ただ、 ヒカルくんは褒めてくれた。
そこまで書いて、 万年筆が止まった。
最後の一行は、 書いてよかっただろうか。
少し迷って、 線は引かなかった。
ふと、 首元の砂時計に目をやる。
ランプの光の中で、 ガラスの粒が淡く光っていた。
上のガラスには、 まだ砂が残っている。
下のガラスには、 一粒だけ。
さっき落ちた、 あの一粒だ。
三分。
その数字を、 僕は今夜、 何度聞いただろう。
勇者より、 三分遅れた。
スキルの滞在時間は、 三分。
一時の約束まで、 あと三分だった。
さすがに偶然だろう。
この状況もあいまって変に考えすぎている……。
そう結論を出して、 僕はランプを消した。
暗闇の中で、 砂時計だけが、 ほんの少しだけ、 青白く光っていた。
あまりにも疲れた。
しかし、今までの日常から離れられることに安堵を覚える、そんな現実逃避を始めていた。
これが、 僕の異世界生活の、 最初の一日。
そして僕が、 異世界でも「遅れて着く人間」になった、 最初の夜だった。




