第078話:挿話:遠い記憶、静かな刃
十二月中旬。冬休みを目前に控えた、静かな平日の昼下がり。
珍しく、渋谷のペントハウスにはトール一人しかいなかった。
白石さんは結衣ちゃんの授業参観、氷華と盾花は年末の買い出し、鯖江は例の別荘の設備点検。イシュラーナだけが、いつも通り胸ポケットの中で大人しくしている。
「……静かだな」
特大ソファーに寝転がり、木刀の手入れをしていたトールの手が、ふと止まった。
窓の外では、灰色の雲から粉雪がちらつき始めている。この世界に来て、初めて迎える本物の冬。暖房の効いた部屋で、誰に急かされることもなく、ただぼんやりと雪を眺める――そんな贅沢を、彼はまだ、心のどこかで信じきれずにいた。
* * *
――かつて、彼が刃を振るっていた戦場に、暖房などなかった。
凍てついた大地と、燃え盛る戦火が同居する、矛盾だらけの前線。雪は美しいものではなく、死体を覆い隠す、ただの白い布に過ぎなかった。
あの日も、こんな風に雪が降っていた。
「……儂の分まで食え、若造」
声も、顔も、もう朧げにしか思い出せない。ただ、硬く乾いたパンの欠片を、無言で半分だけ差し出してきた、老いた傭兵の指の感触だけを、なぜか鮮明に覚えている。
礼を言う間もなく、その男は次の戦闘で儂を庇い、還らぬ人となった。
名前も知らない誰かの死を悼む暇さえなく、次の戦い、また次の戦いへと駆り出され続けた日々。そうして積み重なった骸の果てに、魔神の首を落とした瞬間ですら、達成感よりも先に、途方もない虚無だけがあった。
(俺は一体、何のために刃を振るってきたのだろうな)
それが、故郷に――否、この見知らぬ「現代日本」へと帰還した夜、彼が最初に抱いた、正直な感慨だった。
* * *
「……む」
トールは小さく息を吐き、木刀を鞘に収めた。
今さら悔いても仕方がないことだ。あの日々を悔やむより、目の前の白米と味噌汁を、ただ美味いと噛み締める方が、よほど建設的である。
(だが……)
脳裏に浮かぶのは、あの老いた傭兵だけではない。
パサパサの携帯食料を分け合った仲間。凍った大地で共に眠り、二度と目を覚まさなかった戦友。彼らの誰もが、こんな暖かい部屋も、湯気の立つ白米も、知らないまま逝った。
(あんたらの分まで、俺は食っているぞ)
誰に届くわけでもない呟きを、トールは胸の内だけでそっと転がした。
窓の外の雪は、あの戦場の雪とは違う。降り積もっても何も覆い隠さず、ただ静かに渋谷の街並みを白く彩っていくだけの、優しい雪だ。
――ガチャリ。
「ただいま戻りました、佐藤様。あら、今日は一人で寂しかったですか?」
玄関から、白石さんの明るい声が響いた。結衣ちゃんを保育園に迎えに行った帰りなのだろう、小さな足音も一緒に聞こえてくる。
「……いや。少し、昔のことを考えていただけだ」
「昔のこと、ですか?」
「大したことではない。それより――」
トールは緩慢な動作で身を起こすと、いつも通りの、どこか間の抜けた真顔で振り返った。
「今夜の飯は、何だ」
その、あまりにも普段通りの一言に、白石さんはくすりと笑って答える。
「今日は寒いので、あったかいお鍋にしましょうか」
「……うむ。良い響きだ」
窓の外で、粉雪が静かに降り積もっていく。
誰も知らない、たった一人の武士の胸の裡に眠る、遠い記憶と静かな刃。
それを打ち明けることも、忘れ去ることもないまま――マイペースな武士の、いつも通りの平和な夜が、今日もまた、緩やかに更けていくのであった。




