第077話:師走の足音
十二月に入り、渋谷代々木学園にも、慌ただしい年の瀬の空気が漂い始めていた。
街路樹にはイルミネーションが灯り、学園の廊下では、二学期の終業式に向けた片付けや、冬期講習の案内が飛び交っている。
「――というわけで、今年最後の実習は、来週の掃除実技をもって終了とする」
凪教官の淡々とした報告に、Eクラスの生徒たちが安堵の声を上げた。
「掃除実技って、去年もありましたよね。校舎の窓拭きとか」
「今年は加えて、体育館の床磨きも実技科目に組み込まれている。魔力を使わず、純粋な体力と根性で挑む科目だ」
「せ、先生、それもう掃除じゃなくて修行っス……」
鯖江の呟きに、凪教官は表情を変えずに「その通りだ」とだけ答え、教室に小さな笑いが起きた。
「ちなみに、優秀者には冬期講習の課題を一部免除する」
その一言に、教室の空気が一変する。
「せ、先生! 床磨き、俺、本気出すッス!」
「現金な奴だな」
鯖江の豹変ぶりに、隣の席の盾花が呆れたように呟いた。
部室でも、いつも通りの光景が続いていた。
「今年も色々ありましたわね」
紅茶を淹れながら、氷華がしみじみと呟く。
「実技テストに、体育祭に、文化祭に……。振り返ると、あっという間でしたわ」
「俺のプリン摂取量も過去最高だったッス」
「お前の一年の総括、それでいいのか」
鯖江の呑気な発言に、盾花が呆れたようにツッコむ。
「そういえば、来週の大掃除の日、部室の飾り付けも少し変えませんこと? せっかくですし、クリスマスらしい飾りを」
氷華の提案に、盾花が目を輝かせる。
「いいですね! 結衣ちゃんも一緒に飾り付けできたら喜びそうです」
「よし、俺が買い出し係として立候補するッス!」
鯖江が勢いよく手を挙げると、氷華が「予算は決まっていますからね」と釘を刺し、部室にいつも通りの賑やかなやり取りが広がっていく。
トールはソファーに寝転がったまま、皆のやり取りを聞くともなしに聞いていた。
「……もうすぐ、冬休みか」
「そうですね。今年は佐藤様も、初めて日本の年末年始を過ごされますね」
白石さんの言葉に、トールは小さく頷いた。
「ああ。年越し蕎麦とやらを、白石殿が振る舞ってくれると言っていたな」
「はい。それに、大晦日には除夜の鐘を聞きながら、年をまたいで神社にお参りする『二年参り』というものもあるんですよ」
「二年参り、か」
トールはその響きを、静かに口の中で繰り返した。異世界には存在しなかった、この国独特の、静かで少し不思議な風習に、まだ見ぬ期待が微かに膨らんでいく。
* * *
放課後、部室を出たトールは、一人で少し遠回りをして帰路についた。
師走の澄んだ夕空の下、渋谷の街は、慌ただしくも、どこか浮き立つような空気に包まれている。イルミネーションの光が、まだ早い時間から街路樹を彩り始めていた。
行き交う人々の吐く息が、白く小さな雲になっては消えていく。駅前のスクランブル交差点では、大きなクリスマスツリーがきらびやかに輝き、待ち合わせの人波が絶えず流れていた。どこからか、聞き覚えのある賑やかな音楽が、控えめな音量で流れてくる。
「……賑やかなものだな」
誰に言うでもなく呟いたその声は、雑踏の中に静かに溶けていった。
途中、通りがかった商店街では、福引の抽選会が開かれていた。ガラガラと音を立てて回る抽選機に、子供たちが目を輝かせて群がっている。トールはその光景を、しばらく足を止めて眺めていた。異世界には存在しなかった、この国特有の、他愛のない賑わい。それを眺めているだけで、不思議と心が凪いでいく感覚があった。
この一年、様々なことがあった。企業の陰謀、命懸けの戦い、そして何より、平穏で美味しい日々。異世界の戦場では決して得られなかった、当たり前の暮らしの尊さを、トールは日々噛み締めながら生きていた。
だが、賑やかな師走の街を一人で歩くこの時間だけは、ふと、遠い記憶の断片が、静かに胸をよぎることがある。
誰にも打ち明けたことのない、あの戦場の記憶が。
(――いや。今は考えるべきことではないな)
トールは小さく頭を振ると、足取りを速めた。橙色の光を灯す小さな定食屋の前を通り過ぎると、出汁の匂いがふわりと鼻先を掠め、それだけで自然と口元が緩んだ。
今夜の夕飯は何だろうか。その、あまりにも普段通りの疑問だけを胸に、マイペースな武士は、年の瀬の渋谷の街を、いつも通りの足取りで歩いていくのであった。
この賑やかな年の瀬の先に、どんな年越しが待っているのか――マイペースな武士は、いつも通り、深くは考えていなかった。




