約束
温かい空気がヒショウを包む。ここはどこだろう。徐々にひらけていく視界に映るのは、橙色に染まった空だった。見覚えのある空。見覚えのある景色。ここは、あの草原のようだった。
いつの間にこんな所に来てしまったのだろうか。
ヒショウはあたりを見回し、周りに誰もいないことを確認すると、膝を曲げて小さくなり、その中に顔を埋めた。やはり、暗い世界の方が自分には合っているのだ。光を見るより、こっちの方が落ち着く。
そのはずなのに、目を閉じればあの光の残像が見えてしょうがなかった。我慢していたはずの涙が止まらなくあふれた。
夕日は誰を待つこともなくくれていく。幾ら太陽がこの世を明るく照らしたって、夜は訪れる。夜の暗闇は太陽とともに、あの光も連れて行ってしまう。自分は置いて行かれる。
追いかけたい。
ゼンに出会ったあの日のように、ゼンの背中を追いかけていきたかった。でも、それは出来ない。
あの時、追いかけてしまったのが間違いだったのだ。自分は、暗闇の中で生きるべきだったのだ。光とは無縁に、生きるはずだったんだ。
待てども待てども、日は暮れない。絶え間なく、温かい光がヒショウを照らした。なんだ。なぜ、自分を暗闇の世界に戻してくれないんだ。
ヒショウは埋めていた顔を、ほんの少し上げた。空を見ようと思ったのだ。しかし、その瞬間、
「落ち着きましたか?」
と、となりから声をかけられた。ヒショウは目を見開いて、声のした方を向く。
いつの間にか、ヒショウの隣にはヒバリが座っていた。ヒショウは動揺が隠せなかった。どうして自分は気配に気がつけなかったのだろうか。
「落ち着きましたか?」
ヒバリはもう一度そう言った。ヒショウに向ける笑顔が、なぜかひどく懐かしく感じられた。
「はい。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
一体いつからヒバリはそこにいたのか。一体ヒバリに何を見られてしまったのか。まったくわからないままであるが、ヒショウは涙を袖で拭って、笑って見せた。
「どうか私には無理をして笑わないでください。目も、鼻も、赤いですよ」
ヒバリの言葉が温かい。ヒショウは耳を塞いでしまいたいと思った。
「主人の一人や二人、誰だって殺しますよ」
ヒバリは、楽観したような口調で言った。
「なんか殺したいなあって、そりゃあ人間誰しも虐げられれば思います。それに、自分よりも強い相手に感情的に襲いかかればそりゃあ勿論、殺されてしまうでしょう」
「あなたには」
ヒショウは一度、口の中でそうつぶやいてから、少し歯ぎしりをして言った。
「お前にはわかんねえよ!お前にはわかるわけがないんだ!なのに……なのに何で知っているんだよ!」
そうだ。
そうだった。
自分は、死んだのだ。あの方に首を絞められて。あの方に、殺されたんだ。
ヒショウはやっと状況を理解した。これはきっと、死の直前に見ている幻だ。だからこんなに、こんなにも自分の心が弱いんだ。
ヒバリはヒショウに叫ばれて、少し驚いた様な顔をしていた。
「すみません。失言でした」
「いいんです。気にしないでください。少し驚いただけだから」
ヒバリは、ヒショウが思った通りの返事をした。
「あーあ、終わっちゃった」
ヒショウは、自分が死んだと思うと、なんだか心が軽くなったように感じた。大きく腕を広げて、仰向けに倒れる。
「なんか、何にもなかったな、僕の人生。もうなんか、どうでもよくなっちゃいました。生きたいとか、ゼン様のこととか」
ヒショウは懐に手を入れ、出すことが出来なかった二通目の手紙を仰ぎ見た。
「僕、お父さんとお母さんに会いたかったんです。言われるがまま、されるがまま。命も心も体も何もかもを人に売って、僕は生きてきた。死にたいと思ったことも何度もあります。でも、本心ではいつだって、なんとかして生き抜いて、また両親に会いたかったんです」
ヒバリは何も言わず、静かにヒショウの話に耳を傾けた。
「だけど僕は死んでしまった。これで良かったのかもしれませんね。死んだ方が、ずっと幸せだったのかもしれません。もうこれで僕は、どうせ会えない相手の為に取り繕う必要も、だます必要も、だまされる必要も、亡くなったんです。気が楽になった。やっと僕は、僕のままでいられるんです」
「僕って、誰ですか」
ヒバリは、ぽつりとそう言った。
「あなたがあなたでいられるって。じゃあ、あなたは一体誰なんですか?」
その冷ややかな声は確実にヒショウの心に届いた。
「あなたは何にもわかっていない」
「……」
ヒショウは何も言えなかった。
「もうこれ以上、空元気を出すのはやめてくださいっていったでしょ。あなたは本当に演技が下手。だから殺されちゃうんです。あなたは今だって、泣いていますよ」
ヒバリは少し寂しそうな顔をした。
「あなたは今、幸せなんでしょ。いや、今までゼン様といて、幸せだったんでしょ。あの方に出会えて、私にあえて、心が楽しかったんだから」
「嘘だ……あれは全部幻だったんです」
「幻なんかじゃない!どうしてあなたはそんな風に思っちゃうんですか!」
「それは……」
ヒショウはそれ以上言葉が出なかった。
「なんですか?」
ヒバリは首を傾けて聞いてくる。それでも、ヒショウは口をぱくぱく動かすだけしか出来なかった。反論する理由がなかった。
「本当に、不思議ですね」
ヒバリは、そんなヒショウを見かねたように言った。
「あなたは、私がほしかったすべてを持っているんです。だからもう、自分に嘘はつかないでください。あの方も、私もいない今、あなたを救えるのはもう、あなたしかいないんですから」
ヒバリは立ち上がる。
「私が一番不思議だなって思うのは、あなたがここにいることなんですよ。あなたが本当に会いたいのは、私じゃないはずなんです」
ヒバリは笑っていた。その姿がひどくはかなげに見えた。
「あの方との約束を、忘れてしまったんですか?」
ヒショウは目を覚ました。
目に映ったのは夕日ではない。うずたかく積まれた本の山だった。まだ夢見心地で悲壮は体を起こす。
「お目覚めですか?」
聞こえたのは村長の声だった。
「ここは……なぜ僕はここに?」
自分は死んだのではなかったのか?これもまた幻なのか?
ヒショウは無意識のうちに首に触っていた。何かが手に絡みつく。とってみると、それはどうやら糸のようだった。腕や指、顔にも糸は絡みついているようだ。
「その髪、どうかなされたのですか?」
村長はヒショウへ手鏡を向けていった。ヒショウにとっては、真っ白になった自分の頭を見たのはこれが初めてだ。
そして自覚した。
「僕……生きてる。これは、現実か」
急に意識が覚醒した。自分の髪が少しぬれていることに気がつき耳を澄ませば、大きな雨音が聞こえる。さらに、視線を落とせば、自分の体の上にゼンの外套がかぶせてあることに気がついた。見た瞬間に、ぶわりと涙があふれた。
「ゼン様は!ゼン様はどこにおられるのです!」
ヒショウはすがるような目で村長を見た。
あの方に会いたい。
ただ強くそう願った。
しかし村長はヒショウから目をそらした。
「あの方はもう、この村にはいらっしゃりません。あなたを置いて、また南都へ旅に出られました」
「え……」
そうは言ったものの、考えて見れば当たり前のことなのだ。生きているにせよ、死んでいるにせよ、自分を殺そうとした従者と誰が一緒にいたいと思うだろうか。不要になった奴隷が捨てられるのは当たり前のことなのだ。
だが、ヒショウは力なく手足をだらりと落とした。
以内とわかっているが、ゼンを探すように視線が動く。まとわりついている糸さえ愛おしいと思うほどに、ゼンへの気持ちは大きくなっていた。
おもむろに顔に触れると、ヒショウはもう一度手鏡を見た。頬の刺繍に手を触れたつもりであったが、その刺繍が消えている。代わりに涙の後がくっきりとついていた。
仕事をするのに目立って都合が悪いからと、何度もそめようとしたが染められなかった髪は、今は真っ白になっている。消したかった刺繍も今では綺麗さっぱりなくなっており、代わりに涙をながし跡を作っている自分は、かつてとはまったく別の人間のように感じられた。
「伝言があります故、お聞きください」
「伝言?」
ヒショウは少し驚きながら、村長の話に耳を傾ける。
「『手紙でも書ければ良かったんだが、あいにく俺は字も読めなければ、書けもしねえ。なので、代筆、代読を村長に頼んだ』」
村長はそこまで言うと、小さくお辞儀をする。
「『まずは、お前を黙っておいていくことを謝らせてもらいたい。申し訳ない。少し事情が変わったんだ。お前を南都へつれていくことも、一緒に旅を続けることも、俺には出来ない。許してくれ。お前の思いをもてあそんで利用し、だましていたことも、お前の望むことをしてやれなかったことも謝る。直接言えなくてごめんな』」
すると村長は何かが入った袋を手に取り、ヒショウに握らせた。
「ゼン様からあなたへと」
ヒショウはうなずいて。恐る恐る受け取った。開けてみれば、中には大量のお金が入っていた。
「何で……」
なんのつもりなのだ。わびなければいけないのはこちらなのに、こんな物まで残して……。
「そのお金で『生きろ』と。あなたをこの村で養うように言われました」
ヒショウは目を見開く。
「ご安心を。この村ではよくあることなのです。ここなら皆、あなたを優しく受け入れるでしょう。あなたの過去を詮索することも、外に漏すこともありません」
村長はおそらくゼンからすべての事情を聞いているのだろう。その上で、ヒショウを安心させるように笑っているように見えた。
「あなたは、ゼン様のお仕事をご覧になりましたか?」
そういえば、見ていない。ヒショウは唇をかむ。
「いえ……。しかし、話には聞きました」
「裂け目を作るような人間の多くは、裂け目をゼン様に塞いでいただいたあとも、苦難を抱えていることがほとんどです。帰る場所がない、生きる場所がない、そういう人間を、あの方はよくこの村に連れてきます。そのような背景を持った人間はこの村には少なくありません。あの方は我々に新しい人生を与え、少しでも多くの希望を持たせ、生まれ変わらせようとしてくれるんですよ」
村長は何かを思い出すような顔をしていった。
「実は私もそのような人間の一人なのですよ」
「あなたも……?」
「はい。もう何年も前の話ですがね。この老人を、一人の若造が助けたのですぞ。あの方は私に、ここの村長として生きろと言った。そうやって、この村の要石として、皆に必要とされて生きていけると。あの方とお話しする時間はほとんどありませんでしたが、あの方にいまの我々がきちんと生きていることを見せることが出来て良かった。この村があるのは、あの方と、あの方に指示を出している主という方のお陰なのです」
「ゼン様の……主……」
そういえばゼンはたまに話題に出していたような気がする。
「故に、ご安心を。ここにいればまた、あの方にはお会いできますよ。不幸な運命を背負った人間を連れて。その方はそういう人なんです」
「いいえ。あの方はきっともう、帰ってきてはくれない」
ヒショウはぽつりと言った。
ゼンはきっともう逢いには来てくれない、そんな気がした。ゼンの優しさは、自分が一番良くわかっている。自分がまだ生きているのが、一番の証拠だ。おぼろげだが、聞こえていた。ゼンは、もしもヒショウがただの奴隷であれば殺す気でいたらしい。それでも、ただの奴隷である自分が生きているのは、ゼンが自分に情けをかけてくれたからだ。そして、ここで身の隠れをして別人として生きるように彼は言っているのだ。ゼンも、誰かの従者なのだ。そうなればきっと、次に会った時主の命に逆らうことは出来ないだろう。だからこそ、きっともうゼンはここにはこない。次にヒショウに会う、なんてことがないように。
でも。
言ったじゃないか。連れていて行っても良いって。
言ったじゃないか。ゼンの隣にいても良いと。
どうせおいていくのなら、生きていては都合が悪かったのなら、殺してくれれば良かったのに。自分に希望なんて見せようとせず、未来の希望を信じさせる言葉などなく、自分を山の中に放っておけば良かったのに。
「なるほど。どうやらあなたは我々とは少し違っているようだ」
言うと村長は立ち上がり、部屋の奥へと入っていった。
「ついてきなさい。少し話をしよう」




