正体
森は再び静まりかえる。少女の気配も、ヒショウの小指とともに消え去っていった。
「先に、こっちを片付けるとするか」
ゼンは独り言を言うと、あたりをぐるりと見回した。
ゼンには、特別な力があった。彼には、他の人には見えない世界の裂け目の本当の姿がみえた。
暗闇の中を影が走ってく。まだ幼い子供の影だ。それが一心不乱に走っている。見覚えがあるその面立ちからおそらく、走っているのはヒバリなのだろう。これは、影の記憶だ。裂け目から吹き出してきている、彼女の絶望の根源である。ゼンは、影が走り出してくる方向へ歩き出した。影は残像を残し絶え間なくゼンの横を走り去って行くので、元をたどるのはたやすい。しばらく歩いて、ゼンは足を止める。ヒバリの影が途切れている場所にたどり着いた。ゼンは手を伸ばし、虚空に触れる。
その瞬間、目の前に漆黒の闇が広がった。一寸先も見せないようなその闇からは、ゼンを引き込まんとするような強い重力のような物が発せられている。
「こりゃあ立派だ。これなら、他の奴でも見えただろう。それで恐れて火を放ったか」
ゼンはその力にあらがいつつ、指を動かした。その途端に、重力は見る間に弱まっていく。これこそがゼンに備わったもう一つの特別な力だった。ゼンの前に広がってたはずの闇は、まるで洋服に出来た穴を繕うように見る間もなく塞がっていく。あとに残ったのは、すでに朽ち果てボロボロになった何かの骨だけだった。
「これで、ひとまずは終わりか」
完全に裂け目が修復されると、あたりがほんの少し明るくなったような気がした。感傷に浸る暇もなく、ゼンはヒショウの死体の元へ戻っていく。
その光景に、ゼンは思わず足を止めた。足に当たった炭片がからからと音を立てて転がっていく。
たき火の火はとっくに消えていた。しかし、ぼんやりとした光がそこにはあった。
橙色の淡い光である。それがヒショウ全体を包み込んでいた。
ゼンは驚きはしない。だが、ゆっくりとした足取りでヒショウに近づく。触れる代わりに糸を出したところで、
「おやめください」
という女の声がした。ゼンははじかれたように驚いてあたりを見回す。人の気配はしない。姿も見えない。だが確かに、女の声がした。
「誰だ」
ゼンは姿が見えない相手に低い声で言う。
「姿を現せ」
すると、ゼンの前にまた一つ、ぼんやりとした光が現れた。はじめはただの球体のような形をしていたそれは、徐々に人間の形となり、やがては一人の女の像を造り出す。像はゆらゆらと揺れており、まるで炎を見ているかのようだった。
「その方を害するのはおやめください」
「お前は、なんだ?」
ゼンのその言葉に、女が少しだけ悲鳴を上げたように聞こえた。
「私は」
女は朗々と語る。
「私は、私としか今は言い様がありません。それは、あなたがあなたであることと同じです」
「何が言いたいのかがわからない。質問をはぐらかすな。お前は一体何者で、そいつに何をした」
ゼンは糸を女に向けて放つ。だが、糸は女に絡みつくこともなく、ただすり抜けるばかりであった。
「これ以上、無駄なことはよしてください。私にも、あの方にもこれ以上の危害はくわえぬよう。あの子は、あなたにとってかけがえのない、必要なものであるはずなのです」
「お前は俺とこいつの何を知っていると言うんだ」
「どうか、あなたもご無事で」
女の像がぼんやりと薄くなったと思うと、突然、明かりが消えた。ゼンは女を捜してあたりを見回したが、すでに姿を消していた。ふと、横たわっているヒショウが目に入る。彼を包んでいた光もまた、消えていた。
近づいてみてみると、ヒショウはすやすやと寝息を立てて眠っていた。
切り取られたはずの小指も、も夜に戻っていた。
ゼンは驚きを隠せずにいながらも、密やかに笑って見せた。ゼンの思った通りだった。
「お前はやっぱり――」
少し頬をなでてやれば、夢を満ちるのかヒショウが微笑んだ。
「――だったんだな」
ゼンの糸が、ヒショウの顔に絡みついた。




