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第七話 溺れる令嬢とまだ溺れる令息





 少しずつ秋の風が冷たさを増す頃、あの騒ぎの残響は静かに、けれど確かに、学内を巡っていた。

 あの騒動のきっかけは何だったのか──そんな問いかけが、ごく自然な形で話題にのぼるようになっていた。

 すでに事態の大枠は共有されており、あとは「なぜそうなったのか」という疑問が、人の口の端に残り続けていた。


 

 ◇


 

 どうやら、ことの発端はノートだったらしい。


 彼が試験前、最後の通常授業の日に、談話室の机に置き忘れたノート。そこが始まりだった。その場に居合わせた生徒たちは、彼の話が鬱陶しくて早々に席を立ったので、机に何かが残されていたかどうかは気にも留めていなかったと語っている。

 ライネル卿はノートがないことに気づいたが、すでに談話室には見当たらなかった。


 では、そのノートはどこへ行ったのか。


 ──見つけたのは、男子寮の寮母だった。


 そして、彼女は中身を一目見ただけで、即座に教師に届けたという。


 どうして寮生に確認せず、すぐさま教師に託したのか。その理由は、実に単純だった。


 ――その筆跡が、どう見ても「女性のもの」だったからだ。


 寮母は言ったという。「これは、たぶん、女の子のものだと思って」と。


 なぜなら、それは「たまにあること」だからだと。


 成績の良い女子生徒に対する嫌がらせ──試験前にノートを隠すという、陰湿で稚拙な、けれど確かに存在する現実。


 名前のないノート。内容から、文官育成科の一年のものとすぐに判断された。ノートの確認をした担当教師にはその整った筆跡にすぐさま思い当たる人物がいた。

 そして、それは確かに、リディア・エルノート嬢のものであった。


 

 ◇


 

 これだけなら、ありがちな悪意と救済の話だった。だが、そこで終わらなかったのだ。


 担当教師が、ノートの一節を見て首をひねったという。そこに書かれていた一文が、かつてライネル卿が授業中に口にした「自説」と、寸分違わなかったからである。


 呼び出された彼は、最初は「自分のノートだ」と主張したらしい。だが筆跡に言及されると、途端に「借りていた」と言い出した。怪しまれ、部屋を改められると──複数教科に渡るノートや資料、すべてリディア嬢の筆跡によるものが見つかった。


 借りたというなら、何故試験直前の今も返却していなかったのか。なぜ、名前を消したのか。借りたのではなく、嫌がらせついでに取り上げて自分の物としたのではないか──問い詰められたライネル卿は、筋の通った弁明など出来るはずもなく、ノートも資料もリディア嬢の筆跡のものは全て没収されたそうだ。

 さらに、後期試験で結果を出せなければ、前期の評価も保留と告げられたという。


 ……そして試験初日、開始前に試験官から持ち込み品の確認までされたらしい。

 試験自体もきっと散々だったのだろう。彼が簡単にリディア嬢から"借りた"ものは、二日かそこらで用意出来るものではない。


 寮の部屋が捜索されたことは他の生徒も見ていた。それを揶揄され、自称優秀な、人の上に立つべき人間であるはずの彼は、羞恥やら憤りやらが制御出来なくなった末、あの騒ぎに繋がったらしい。


 すべてのつじつまは、そこに収束していく。

 


 ◇

 


 彼はもう、彼が思い描いていた未来には辿り着けない。


 優秀なライネル・ヴァン・コルブレッドという人物は、彼の理想の中にしか存在しないのだから。


 にもかかわらず、彼はまだ「なんとかなる」と思っている。いずれ誰かが助けてくれる、また信用を取り戻せる──そんな幻想にすがっている。自分の世界に、まだ溺れている。


 


 私はずっと、リディア嬢には人を見る目がないのかもしれないと思っていた。彼のような人間に対し、なぜあんなにも穏やかに接するのか。関わってはいけない人も見抜けないのか、と。


 でも──違った。


 あの日、中庭で彼に手を掴まれたリディア嬢は、確かに笑っていた。


 でもそれは、「喜び」でも「親しみ」でもなかった。


 私には、わかってしまった。あれは、冷たい微笑だった。


 はにかんでいたのでは、なかった。


 あの目は、凍っていた。


 どこまでが彼女の筋書きだったのか、偶然だったのかはわからない。けれど、あの場で騒ぎを起こさずとも、ライネル卿の評判と信用はとうに崩れていた。結末は──どのみち、同じだったのかもしれない。


 見た目がよくて要領のいい、軽薄な男に恋をした令嬢など──初めから、いなかった。


 「断れない」のではなかった。


 彼女は最初から、リディア・エルノートだった。


 毅然として、冷静で、ブレることのない人だった。


 

 ◇


 

 人を見る目がなかったのは、私の方だ。


 貴族令嬢でありながら、努力で上位に名を連ね、ただ一人この学科を専攻している。


 自分の力で登っていく、その姿は、私にとって「理想」だった。


 だから、変わってほしくなかった。


 でも、彼女は変わってなどいなかった。


 


 地道に積み重ねることができる人が、


 時間をかけてあれこれを書き綴ることができる人が、


 それを理路整然とまとめ上げられる人が──


 流されるわけがなかったのだ。


 


 見上げた空は、高く澄んでいる。


 


 ──リディア嬢は、なぜ、あの時私を立たせなかったのか。


 


 粟立つような思いに、むしろ笑いが込み上げてきた。


 彼女は、私を立たせなかった。


 それはつまり──そういうことだろう。


 


 私は立ち上がり、スカートを払う。


 


 生きる世界が違う同級生。


 彼女が何を見ているのかは、まだわからない。


 けれど、きっと登っていくのだろう。彼女の足で、誰にも頼らずに。


 


 その背を、私は見続けたい。


 たとえ隣には並べなくても、後ろにはいられる。

 ──いてみせる。


 


 まっすぐに、私は歩き出した。


 

 ◇

 


 ──ライネル卿。皆、あなたを忘れるだろう。


 でも私は、餞別として覚えていてあげる。


 私たちは、少し似ているから。


 


 「自分の理想に溺れる私」と、


 「理想の自分に溺れるあなた」。


 


 そうね、言うならば、


 


 「溺れる令嬢とまだ溺れる令息」


 


 ──ほら、似ているような気がするでしょう?





 



お読みいただきありがとうございます。

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