尊成(茶々丸)の初陣
1487年1月 古河御所(古河城)
吉日を選び元服をした足利茶々丸、改め足利左馬頭尊成は、奇抜で真新しい鎧と、特製の陣羽織を身に纏い、古河城の広間にて出陣前の三献の儀式に臨んでいる。
真新しい鎧と陣羽織…。
実は、養父となった足利成氏が職人に命じて尊成の身分相応な鎧を作らせようと思っていたらしいが、尊成が古河城に入ってすぐ、豊嶋家より鎧と陣羽織が送られてきた。それを見た尊成が一目で気に入り、これを身に着けて初陣に臨むと言い出したとという経緯があった。
奇抜な鎧と陣羽織…。
そもそも、この時代に陣羽織と言う物が普及していなかったので、鎧の上に羽織を着るというのですら珍しいのだが、尊成が身に着けている陣羽織は紺色をベースとし、肩口や乳下がりなどが金糸で縁どられており、背中には足利尊成参上とでかでかと銀糸で刺繍が施されている。
そして、身に着けている鎧も、この時代主流であった大鎧ではなく、鉄板を使用した俗にいう当世具足であり、具足の色も朱色に紺色、黒色を使用し、黒光りする胴には金粉がちりばめられているのだ。
因みに兜は、黒を基調に朱色の線が目庇の中心から放射状に引かれ、鍬形として金箔で覆われた鹿の角となっている。
「これより常陸、下野にて養父足利成氏に従わず、民百姓を苦しめる者を成敗する! 皆の者、出陣だ~!!!!!」
「「「おおおおっう!!!!」」」
本来であれば古河足利家当主である成氏が三献の儀式をおこなうのだが、今回の合戦に際し、関東公方である足利政知から養子として迎え入れた茶々丸こと足利尊成が当主と同等に扱われているとのアピールである。
それと同時に、尊成と言う男と数か月の間接した事で人となりを知り、好意を抱いた成氏が、自身が過去に名乗っていた官職を授け、対外的に尊成を大将とし、自身は相談役に徹する事で、初陣に花を添える為の演出でもあった。
これは、本来成氏より家督を引き継ぐはずであった嫡男の足利政氏が反発し、今後、家督争いの火種になりかねない事ではあった。このため成氏は事前に政氏と、養子として尊成を迎える理由や今後の扱いについて親子で腹を割って話し合い成氏が胸に秘めた思いを伝えた事で政氏も納得し、成氏と並んで三献の儀を行う尊成を、歳の離れた弟を見守るかのような目で見守っていた。
その後、古河城を出陣したのだが、古河城には江戸から既に兵糧の他、麦や蕎麦に加え、稗や粟などが大量に運び込まれており、古河を出陣した足利の兵3000の内、2000程が兵糧とは別に穀物が積まれた荷車を曳いていると言う異様な進軍風景となっていた。
そして同じ頃、俺の命を受け、千葉自胤、千葉実胤兄弟が、下総の香取郡、海上郡、匝瑳郡に所領を持つ国人衆を率い5000の兵で本佐倉城を出陣し、常陸の府中城へ向け進軍を開始する。
古河を出陣した足利軍同様に大量の麦、蕎麦、粟、稗などが荷車に積まれて運ばれて行く。
今回の出陣は常陸、下野で成氏に従わない国人衆を攻め、降伏するのであれば所領を削り、転封のうえ臣従を認め、降伏しないのであれば討ち取るか追放するという、この時代においてはどちらかと言えば苛烈な行動を取る。
最近では豊嶋家が良くやっているので、関東ではあまり苛烈とは思われなくなって来ている節もあるが…。
それでも古くから土地に根を張る国人衆達にとっては一所懸命に代々守って来た土地から切り離される危機である。成氏に従わない事を選んだ国人衆達は土地を奪われまいと凶作で兵糧が不足する中、領内から集められるだけの兵を集め、また同じく臣従する事を選ばなかった近隣の国人衆と手を組み抵抗の姿勢を示していた。
そして、その中で盟主的な役割を果たしていたのが常陸の有力国人衆である、水戸城、城主、江戸通雅であった。しかし豊嶋領を除く、常陸の国人衆は成氏に従う者と従わない者の2つに割れており、所領から兵を動かせば、近隣の成氏派に攻められる可能性が高かった。これにより江戸通雅が国人衆に参陣を促しても多くの者は所領に引き籠って守りを固めることを選択したため、水戸に集まる者はごく僅かであった。
そんな常陸の情勢とは異なり、下野国では、上野国を拠点とする長尾景春率いる豊嶋家第五軍の兵3000を援軍に迎えて宇都宮、小山、結城が成氏への臣従を拒む国人衆達を攻め始めていた。
常陸国も下野国も国人衆は敵味方とも川越の敗戦で多くの武者を失っており、未だ立ち直ったとは言えず、兵の参集が遅れていた。それでも下野の宇都宮、小山、結城は、それぞれの所領近くの国人衆を降した後、豊嶋家の第五軍と合流し、家を割って家督争いを続けている那須家へ兵を向けていた。常陸の小田、佐竹は成氏の到着を待ち、豊嶋家が派遣した千葉兄弟の兵と共に江戸通雅を中心とした成氏に従う事を拒んだ国人衆を攻める。
江戸通雅は水戸城に籠り必死に抵抗をするが、勝てば褒美として春まで喰うに困らぬ量の穀物を与えると言われている成氏方の兵達は、この合戦に勝てば穀物を与えられて村が…、そして家族が飢えを凌げるとあって必死で城に取り付き、城を守る兵を討ち取っていく。
兵力でも、士気の高さでも劣る江戸勢は、兵の逃亡も相次いだ事もあり、城攻めが始まって半日もしないうちに降伏を申し出て開城をした。
そして、上下に分かれていた那須家は成氏方の国人衆に攻め込まれた事で、上下那須家が一丸となって押し返そうと兵を纏め野戦に打って出たが、宇都宮、小山、結城に通じていた下那須家の那須資実が突如兵を反転させて攻めかかった事で、上那須家の当主、那須資親が討ち死にする程の敗北を喫した。
これにより史実よりも早く、下那須家の当主、那須資実が那須家を統一し、改めて成氏に臣従を申し出た。
合戦が始まって約一ヵ月で常陸、下野を統一した成氏は、降伏した国人衆の所領を没収し、茨城郡へ僅かな土地を与え転封を命じ、多くの所領を古河足利家の直轄地とする事に成功した。
今回の合戦で総大将として初陣を果たした足利尊成は、常に本陣で床几に座り、逐次もたらされる報告を聞き、伝令に対し「大儀である!」や「相分かった!」と言っていただけという事もあり、思い描いていた合戦とは違うと愚痴をこぼし、成氏に苦笑いをされていた。
「養父殿、次合戦に臨む際は、某に一軍をお預けくだされ。 此度はただ座って居ただけ。 初陣をしたとは…」
「尊成はまだまだ若いな…。 逸る気持ちは分らぬでもないが、此度は其方が総大将だ。 万が一手傷を負っただけでも士気に関わり勝ち戦が一転して負け戦になる。 将たるものが太刀を抜き刃を交える時は負け戦の時と心得よ。 其方は足軽雑兵でも、ましてや国人衆でもない。 足利の名を継ぐ将なのだ」
不満を口にする尊成だったが、30年近くも合戦に明け暮れた成氏の言葉を聞き、肩を落とす。
「そう悲観するな。 これからも合戦は続くのだ、嫌でも太刀を抜き、敵と刃を交える事も有ろう…。 もっともそのような事にならないようにせねばならぬのだが…」
「負け戦に際して初めて敵と刃を交えるとは…、養父殿、笑えませぬぞ」
成氏の言葉に尊成がツッコミを入れ、その後互いに顔を見合わせ大声を出して笑いだす。
それを見ていた嫡男の足利政氏は、尊成も成氏と同類の人間かと苦笑いをしながら二人の掛け合いを眺めつつ、ボソッと独り言を呟く。
「いっそ古河足利家を尊成に継がせれば…。 いや、尊成には別家を立てさせ独立させると言っていたな…。 俺は食うに困らぬだけの土地を貰えれば家督は譲るんだがな…」
稚拙な文章ではございますがお読頂き誠にありがとうございます。
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本当に、誤字脱字、言い回し等、稚拙で申し訳ございません。
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